第27話 ある朝

そんな1月のある朝。

 ツンとした冬の潮風を吸い込みながら、私はいつものように自転車で東京ラボへ出社した。最近は、少し時間の流れが遅くなってきた気がする。

 きちんと屋根のある駐輪場。来客用の受付があるエントランス。網膜パターン認証のセキュリティゲート。掃除ロボットがゆっくりと往復する綺麗な廊下。今はもう、観葉植物だって置いてある。磨りガラスのついた扉を開けて開発室に入ると、三人の若手社員が振り返って私に挨拶をした。


「おはようございます。旭さん」

「ああ、おはよう」


 一人は本原、後の二人はこの一年で新たに入社した社員だ。私は軽く右手を上げて挨拶を返し、自分のデスクへと向かった。隣の宇田賀のデスクは空席だ。宇田賀は今日、研修で不在だった。

 宇田賀のデスクには相変わらずロボットのフィギュアが並んでいる。数は全部で一二体まで増えていた。社長の御鍵、財務や法務、人事などのコーポレート系業務を担当する人が二人いて、宇田賀、私、英さん、鹿島さん、本原、新人二人、そして紺と蒼。この会社も十二人までメンバーが増えたということだ。宇宙イルカもしっかり人数に入れているのが宇田賀らしい。十二人というと、私のように大企業からの転職者などはまだ少ないと感じるのだが、最近の新しい会社はみんなこんなものだ。AIによる補助で効率化が進み、少ない人数で仕事が回るようになった結果、業種にもよるが従業員数二桁で株式市場に上場している企業も珍しくはない。


「今日、宇田賀さんは〈ムロメ・デンノウ〉に研修に行ったんでしたっけ?」


 私は、向かいのデスクに座る英さんに尋ねた。ウチの会社はフレックスタイム制なので、朝型の英さんはいつも六時半には会社に来て仕事をしている。


「そうみたいだねぇ。なんでも、フルダイブVR用アバター作成の研修らしいねぇ」

「あの人、一応は開発室長ってことになっているのに。自分で研修に行ってしまうのは困ったものですね」

「そうかなぁ? 一番実力あるのはウタちゃんだし、彼が後でみんなに教えてくれればわかりやすいから、良いんじゃない?」

「まあ、それもそうですか。管理業務なんてAIがやっているし、ウチの管理職なんて名前だけですからね。じゃあ、私は紺達の様子を見てきます」


 私はスマートグラスと社内システムを連携させ、届いているメッセージにいくつか返信をしてからロッカールームへと向かった。そう、今はもう、きちんとロッカールームがあるのだ。朝は水中には入らないので胴長だけを着て、私は実験用プールへ向かう。

 私が行くと、紺と蒼の二頭が仲良く水面から頭を覗かせた。キュウ! と高い声で鳴いたのは蒼の方だ。紺はミニャァー、といつものように私に呼びかける。


「おはよう。今日の当番は私だよ」


 私がバケツに入れた魚を持って近づくと、二頭は並んで口を開ける。決められた量を、二頭の口の中に放り込む。蒼がカリリリ……と鳴いた。二頭の頭の上には専用のBMIがちょこんと載っている。三ヶ月ほど前に改良型になり、最初の物より小さくなった。色は相変わらず飾り気のないグレーだったが。

 今は二頭とも仮想世界にはフルダイブしておらず、脳は両側とも現実世界でイルカの体を動かしている。この時間だけ見れば私は昔の水族館職員にしか見えないだろう。蒼は紺よりも少しだけ小さい。宇宙イルカの年齢はわからないが、なんとなく紺が姉で、蒼が妹だと、私は思っていた。


「じゃあ、後で向こうでね。もう少しで裕子さんも来るよ」


 蒼が嬉しそうにキュッキュ……と鳴いた。


 フルダイブVRの設備は二基に増設され、私と鹿島さんは同時に仮想世界にフルダイブ出来るようになった。仮想世界もコンピューターの性能増強に伴って大きくなり、今は二部屋になっているから、私と鹿島さんは分かれてそれぞれの部屋で一頭ずつの宇宙イルカをトレーニングしている。今日は私が紺、鹿島さんが蒼の担当だ。私が仮想世界に入ると、先にフルダイブしていた紺がペコリと頭を下げた。


「おはよう、みりに。今日は寒いね」

「紺、おはよう。水が冷たいかな? 水温は一定なんだけど」

「水は大丈夫。朝は空気がちょっと冷たいね。気にしないで、ただの挨拶だよ」


 紺はかなり話すのが上手くなり、落ち着きが出てきた。紺は十代中頃の少女の姿のアバターを纏っているが、少しは見た目に中身が近づいた気がする。もっと大人の女性のアバターにしたら、大人っぽく喋ったりするのだろうか?


「今日の午前中は数学の授業だよ」

「え、嫌だ。映画観よう。サメが出てくるやつが良い」

「ダメだよ。映画は週に一回」

「サメって魚のくせに偉そうだよね。やっぱり尾ひれが縦に付いている奴はダメだよ。私はシャチが好き。なぜならイルカ達と同じ哺乳類だから。キラーホエール!」

「紺、僕の話を聞いてね……宇田賀さんがまたこっそり変な動画見せたのかな……?」

「わかった、数学やる。おいしくないね」


 紺は頬を膨らませ、渋々と言った様子で仮想世界の部屋の中央に置かれた椅子に座った。喋り方は成長しても、相変わらず言動は予想できない。


「午後はゲーム配信だよ」

「わあ。やったあ」


 私はメニュー画面を呼び出し、紺の前に大きなウィンドウを表示させた。私はいつの間に学校の先生になったのだろうか。本当にこれを続けると、いつか紺が宇宙イルカの秘密を教えてくれるのだろうか。

 気がつくと、紺が不思議そうな目で私を見つめていた。


「どうしたの? みりに」

「なんでもないよ。さて、今日から微分をやるよ」

「むずかしそう……おいしくない」


 その時、私達のいる部屋の扉がノックされ、扉の向こうから鹿島さんの声が聞こえた。


「美理仁君。ちょっと相談があるんだけど」

「あれ、鹿島さん。なんですか?」


 扉が開き、鹿島さんと一緒に蒼が入ってきた。蒼のアバターも十代中頃の少女だが、髪型などのデザインは紺とは変えてあり、蒼は銀のストレートロングヘアで体型も小柄である。顔の作りも違うが、目の色が青いのは一緒だ。部屋に入ってきた蒼を見て、紺が笑顔を浮かべる。


「あおい! 何? 一緒に遊ぶの?」

「あそぶ! だんす、する!」


 蒼はパタパタと手を動かして走り回り始めた。鹿島さんが言う。


「ええと、蒼ちゃんが紺ちゃんとダンスがしたいって言うの。予定ではまだだったけど、本人が乗り気な時に始めた方が良いかなって」

「ああ……昨日、紺が踊っている動画を見たのでしたね。うーん、数学の授業が……」


 鹿島さんは渋る私を上目遣いで見つめてきた。私の方が鹿島さんより背が高いのだから、上目遣いに見えてしまうのは物理的に必然であり、特に意味はないと私の大脳皮質は知っているのだけど……私は目を逸らしてしまう。


「はあ、わかりました。予定を変更しましょう」

「やった! 二人で踊ったら絶対かわいいよ! 早く蒼ちゃんもデビューさせようよ」

「それは……まあ……今度相談しましょう」


 紺が口に手を当てて、クスリと笑って小さな声で私に言った。


「ふふ。みりには、ゆうこのお願いはなんでも聞くね」

「大人をからかっちゃダメだよ、紺」

「私だって、もう大人だよ。じゃあ、午前はダンスだね! 数学は中止!」

「延期だよ」


 紺は嬉しそうに椅子から立ち上がり、蒼と一緒に部屋を走り回り始めた。


「まったく。どこがもう大人、なんだか」


 鹿島さんが近づいてきて、私の顔を覗き込むようにして言った。


「うふふ。ありがとうね。じゃあ午前中はサボってていいよ。君は踊れないしね」

「ロボットダンスなら教えられるかもしれませんよ」

「あら、良い返しができるようになったね」

「私も成長しているんです。じゃあ、二人を頼みます。私は現実の二人を見ています」


 私は赤くなった自分の顔をそれ以上見られないように、急いで仮想世界から現実へと戻った。


 現実世界の実験用プールでは、紺と蒼の二頭がゆったりと泳いでいる。プシュ……と蒼が息継ぎをした。ディスプレイに映る仮想世界では、二人が鹿島さんと一緒に楽しそうにダンスの練習をしている。

 その時、私のスマートグラスに宇田賀から音声通話の着信があった。私が出ると、宇田賀の大きな声が頭の中に響いた。


「お疲れー、あれ? 今って仮想世界じゃないの?」

「お疲れ様です。予定が変わってダンスの練習になったので、私の出番はないのですよ」

「はははっ、そういうことか。それよりニュース見たか?」

「ニュース? 何かあったんですか?」


 私が尋ねると、宇田賀から返事代わりにニュースサイトのリンクが送られてきた。私がそのリンクに飛ぶと、ライブ中継と思しき動画が流れ出した。動画では四角い建物の上空で鳥のようなものが飛び交っている様子が写っており、その下には仰々しいテロップでこう書かれていた。


《ドローンによるデータセンター襲撃が発生! ILF(情報解放戦線)が犯行声明》


「またILF過激派ですか? 多いですね、最近」

「懲りない奴らだよ。今時、警備用ドローンにすぐに見つかって撃墜されるのがオチなのにな」


 動画では、黒い鳥のような飛行ドローンが警備用ドローンにレーザーで撃墜される様子がアップで映されていた。落とされたドローンが地面に落ちると小規模な爆発が起こり、ライブ動画のコメント欄が悲鳴のようなコメントで溢れた。ほぼ同時に、私の視界に通知がポップアップする。


《利用者の方へのお知らせ。〈アクアリウム〉はデータセンター襲撃事件を受け、機材チェックのために日本国内での一部サービスを停止します。再開時刻は未定です。ご迷惑をおかけして申し訳ありません》


「あっ、これ〈アクアリウム〉のデータセンターなんですか? 困るな、午後の予定も変更だ」


 データセンターとは、インターネット上で〈アクアリウム〉やAIサービスを提供したり、データを保管したりするための高性能コンピューターが集約されて稼働している専用の施設で、情報化社会を支える重要なものだ。


「やっぱりこうなったか。しかし、物理的に攻撃とはつまらない奴らだ。どうせなら凄腕ハッカーが電子的に侵入とかして欲しいよな」

「それこそ、AIが構築した電子セキュリティを突破するのは無理でしょう。物理的に攻めた方が、まだ勝機があると思っているんですよ。データセンターを壊されたら自分達も困るでしょうに。迷惑な話です。AIで仕事が無くなったったからって全部AIのせいにして、挙句の果てに破壊行為なんて、許せませんね」

「まあ、AIのおかげで仕事が少なくなっているのは事実だけどな。思いをどこかにぶつけたいのさ。〈宇宙イルカ天使の会〉なんてのが流行るのも、無関係ではないんだろう。はあ……」


 宇田賀はうんざりした様子でため息をついた。〈宇宙イルカ天使の会〉に対しては、宇田賀も私も正直良い印象は持っていない。別に彼らは非合法なことをしているわけではなく、きちんと〈ムロメ・デンノウ〉にライセンス料金を払っているし、宇宙イルカだってまさに文字通り空から降ってきたモノであり、私達の所有物ではない。何も文句は言えない。とはいえ、面白くはない。

 その日、結局データセンター自体が攻撃を受けて被害を受けることはなく、爆弾を抱えたドローンは全て警備ドローンに撃墜された。だが、被害のチェックと停止させた設備の再稼働のため、〈アクアリウム〉のサービスは少しの間制限され、おかげで私は午後の予定も変更せざるを得なくなったのだった。

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