第23話 深層心理の世界
2035年12月12日午前十時。「治療」が始まった。
私はフルダイブVRルームの椅子に腰掛け、部屋のディスプレイに映された病院の様子を見ていた。真っ白な部屋に同じようなフルダイブVR用の椅子が置かれ、その上に白い服を来た木之実ちゃんが寝かされている。目は眠ったように閉じられ、その頭には包帯が巻かれていた。私達が普段使っているよりも二回りほど大きいヘッドレストからは無数のケーブルが出ており、冷蔵庫ほどの大きな機械に繋がっていた。白衣を着た〈ムロメ・デンノウ〉の技術者が合図を出すと、一斉に画面内の人間が自分の仕事を始める。椅子の上の木之実ちゃんだけが止まった時間の中にいるように穏やかだ。私は古代の祭壇に捧げられた生贄を想像してしまい、急いで不謹慎な想像を頭から振り払った。宇田賀の声が通信越しに聞こえた。
「……はい、はい、じゃあ今から開始ですね……ええと、東京ラボ。二分遅れで、始めます。待機お願いします。通信大丈夫?」
「こちら東京ラボ。感度良好、遅延もほとんどありません。待機、了解です」
本原がいつになく真面目に答える。私は深呼吸をしてから、フルダイブVRルームの窓越しに実験用プールを眺めた。紺が立ち泳ぎでこちらを見ており、その横で鹿島さんが腕を組んでプールの水面をじっと見つめて立っていた。
「旭さん、準備お願いします。手筈通り、先に旭さんを送ります」
「了解」
私は本原に返事をして椅子の上に寝そべり、深呼吸をして目を閉じた。ちょうどその時、宇田賀の声がした。
「木之実ちゃんの深層心理の仮想世界化に成功。今のところ、安定している。いつでもオーケーだ」
「宇田賀さん、了解です。送ってください」
この一年数えられないくらい感じたピリピリとした感覚の後、私の意識は衛星回線を通して、東京の病院の中で眠る少女の深層心理が作り出した仮想世界へとフルダイブした。
最初に感じたのは体の重さだった。回線経由のため遅延があるのだろう。最新の通信技術と専用衛星回線を使っているとはいえ、遅延がゼロというわけにはいかない。だが十分許容できる範囲だ。続いて、暗闇だった視界が徐々に晴れてきた。自分のアバターが目覚めていくイメージを感じる。水中にいるようだった聴覚も、徐々に現実のように戻る。いつの間にか、焦げ臭いニオイを感じることに気が付く。事故時の記憶によるものだろうか?
私はふう、と息を吐いてからゆっくり周囲を見回した。薄暗いが、どうやらここは一軒家のリビングダイニングのようだ。所々、初期のAIが出力した絵のようにどろりと溶けてディティールがなくなっていた。ダイニングテーブルの上には料理が並べられているが、その椅子には誰にも座っておらず、さらに三脚ある椅子の一脚は床に倒れていた。リビングにはソファが置かれているが、形が不定形にフニャフニャと変化していた。色も定まらず、青と緑の間を行ったり来たりしている。大きな窓の外は真っ暗で、遠くで何かが燃えるように赤く光り、定期的に稲光のような光も瞬いていた。
私はもう一度室内を見回す。〈ムロメ・デンノウ〉の技術者の話では、深層心理の仮想世界の中には本人がいるとのことだったのだが、どうやら木之実ちゃんはここにいないようだ。その時、私の頭の中に声が流れてきた。
「美理仁、大丈夫か?」
少しノイズが混じっていたが、宇田賀の声だとわかった。私は声を出して答える。
「大丈夫です。少し体が重いですが問題ないレベルです」
「そうか。こっちでは家の室内が見えてるが、そっちも同じか?」
「はい。あまり長居したくない雰囲気です。早く紺を呼びましょう」
「わかった……東京ラボ、紺ちゃんのダイブをお願いします」
少し遅れて、本原の声がした。
「準備完了です。イルカの紺ちゃんも異常なし。紺ちゃんのダイブ、始めます。そちらに送ります」
体感で約五秒後。私の横に音もなく紺が現れた。紺は少し驚いた様子で辺りを見回したが、私がいるのを見てにっこりと笑った。
「みりに! 何、ここ? 初めて!」
「紺、大丈夫かい? 体はちゃんと動く? 僕の声は聞こえる?」
「聞こえるよ。ここ、なんか変だね! なんか変!」
紺は自分の体の動きを確かめるように仮想世界の中を走り始めた。紺がリビングのテーブルの上からソファに飛び乗ると、ソファはまるで粘土のようにぐにゃりと潰れ、そのまま形が戻らなくなってしまった。
「さすがに正確な物理設定まではされてないみたいだな。よく考えたら、床があって立てるのが奇跡かもな」
宇田賀が言う。私が不安になって自分の足元のフローリングをつま先で叩いて確かめると、フローリングというよりは絨毯に近い感触が返ってきた。
「とにかく、木之実ちゃんを探そう」
「そうですね。ここにいないとすると、外かな……?」
私は赤く燃える窓の外を見て、ごくりと唾を飲んだ。紺が嬉しそうに言う。
「そと、そとがあるの? 行こう!」
「あ、ああ、そうだね。行こうか」
私は紺の手を繋ぎ、恐る恐るリビングの扉を開けた。一般的な家の間取りなら玄関に繋がる廊下がありそうなところだが、扉の向こうにはいきなりアスファルトの道路が広がっていた。道路は赤く燃える地平線まで続いており、周りには他に何もなかった。私と紺は二人で扉を抜けて外に出た。
「うわっ」
「わあ! 何?」
私達は二人同時に驚きの声を上げる。扉を出た瞬間、体に加速度を感じ、気が付くと私は自動車の後席に座っていた。何かに固定されたように身動きができない。私の隣では同じく後席に座った紺が目を輝かせていた。私は叫ぶように現実の宇田賀に言った。
「宇田賀さん、なんですか、これ! どうなっているんですか?」
「わからんが、木之実ちゃんのトラウマが生み出している状況かもしれない」
私は、運転席と助手席に二人の人間が座っているのに気がついた。これは、木之実ちゃんが事故に遭った時の記憶だろう。だとすれば前にいるのは両親だ。よく見れば母親であろう女性の顔に見覚えがあった。いつの間にか、窓の外を流れる景色がどこかの峠道のような光景に変わっていた。事前情報によると事故現場は峠道だったはずだ。
「これ、大丈夫なんですか? この後って多分……」
紺は両足をパタパタと動かしながら、ご機嫌な様子で外を見ている。不安に駆られた私のさっきの疑問に、少ししてから宇田賀の声が返ってきた。
「……多分な。何かあっても仮想世界だ。現実のお前達は傷一つ付かないよ」
「痛覚のリミッターはちゃんと効きますよね」
「そもそもリミッターは外せる仕様になってないぞ。美理仁、落ち着け。お前らしくもない」
宇田賀の考える私らしさとはどんなものだろう。でも確かにそうだ。この幼い少女らしからぬ深層心理の世界の不気味さに影響されてしまったのかもしれない。その時、隣の紺が声を上げた。
「みりに、何かくるよ!」
「あれは……」
カーブに差し掛かった時、対向車線にはみ出しながら猛スピードでこちらに向かってくる黒いワンボックスカーが目に飛び込んできた。私は眩しさに目をひそめる。車内が家族の悲鳴で満たされ、大きな横方向の加速度を感じた。現実の状況では、この時幌屋家の車は運転好きな父親により完全手動モードで運転されていたという。もしAIによる運転補助が有効だったなら適切な回避ができたかもしれない。父親は驚いて大きくハンドルを切り、コントロールを失った幌屋家の乗る車はガードレールを突き破って山の斜面を転がり落ちた。そして今、私達の乗る仮想世界の車も全く同じ状況に陥っていた。
「うわああ!」
斜面を転がり落ちる車体。聞いたことも無い音があらゆる方向から迫ってくる。エアバッグが作動したのか、視界が白い何かで塞がれる。それでも回転は止まらない。体が振り回されて何度も車内にぶつかり、手足がちぎれそうになる。一体、何回転しただろうか? 実際はもっと転がり落ちた距離は短かったはずだ。おそらく木之実ちゃんの強い恐怖の記憶により、実際の状況よりも誇張されたのだろう。
ようやく世界の回転が止まった。あんなに体をぶつけたのに、どこも痛くはなかった。これが現実だったなら無事では済まない。そして、実際に幌屋家は無事では済まなかった。
「紺、大丈夫か?」
私が隣にいる紺を見ると、紺は落ち着きなくキョロキョロと辺りを見回していた。宇田賀の声が聞こえた。
「かける言葉がないぜ……大丈夫か? 痛くはないだろうが……」
「ええ。あ、ちょっと待ってください。誰か来る?」
パキパキと木の枝を踏む音がして、懐中電灯の光が近づいてくるのがわかった。私の体は何かに挟まれているのかほとんど動かせず、視界のほとんどは目の前の車の座席が占めている。情報を求めて首を動かすと、窓の外に転がっていたサイドミラーが目に入った。目を凝らすと、そこには車体から這い出ようとする両親と思しき影が映っていた。きっと現実の木之実ちゃんも同じ光景を見たのだろう。どこからか弱々しい女性の声がした。
「う……あ、た、助けて……」
続いて別のところから声がした。
「た、助けて……ください……挟まって、しまって、ゴホッ」
苦しそうな男性の声だった。おそらく父親のものだ。そしてその声に応えるように別の男性の低い声がした。
「ふん……肺を突き破っているな。こいつは、放っておけば死にそうだ」
世界の空気が重くなった気がした。木之実ちゃんが男の言葉の意味を直感的に理解したのだろう。再び、男の低い声がエフェクターでも掛けられたかのように空間に反響した。
「こいつは……念の為……」
男はそういって、地面に転がっていた何かを拾い上げた。おそらく車載の工具か何かだろう。私は困惑する。自分のバイタルデータを表示するまでもなく、心臓が暴れているのがわかった。暗闇に溶け込んでいた男の姿が光に照らされ、その顔があらわになった。無精髭を生やしたスキンヘッドの男で、右目の上に古い傷跡があった。息を飲む私の目の前で、男は手に持った工具のようなものを振りかざし、車体から這い出ようとしていた母親の頭を勢いよく殴りつけた。
「打撲が一つくらい増えたところで……な。よし、あとはドライブレコーダーを壊して、とっとと逃げ――」
男の言葉の途中で周りの全てのものが消え失せた。きっとあの瞬間に木之実ちゃんは気を失ったのだ。悲鳴を上げなかったのは幸いだった。犯人は木之実ちゃんの存在には気が付かなかった。
私と紺は真っ暗な空間に立っていた。呆然とする私の横で、紺がボロボロと涙をこぼして静かに泣いていた。
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