第22話 依頼

 2035年12月11日。

 紺が仮想世界の中で初めて立ってから、ちょうど一年後。この日の朝に飛び込んできたある依頼をきっかけに、私達は一般の人達にも大きく注目されることになる。それは、少し悲しい事件でもあった。


 空気がキリリと引き締まり、あんなに嫌だった夏の熱気が恋しくなるほどに冷え込んだ朝だった。白い息を吐きながら自転車で東京ラボに到着すると、会社の前の駐車場に社長の御鍵の車が停まっていた。御鍵が東京ラボに直接姿を現すのは久しぶりのことだ。車は以前と変わらないドイツ製のステーションワゴンだった。

 良いニュースか、悪いニュースか……私は最近の出来事を思い浮かべながら扉を開き、導入されたばかりのセキュリティのカメラに自分の瞳を映して入室した。うっすらと実験用プールの方から水の音がした。紺が私の出社に気がついたのだろう。

 私が開発室に行くと、御鍵と宇田賀が二人で立ったまま話していた。表情を見て内容を読み取ろうとする私。喜べるニュースではなさそうだ。御鍵はいつものアロハシャツではなく、黒いスーツを着ていた。宇田賀が私に気がついて振り返り、片手をスッと上げる。


「おう、おはよう、美理仁」

「おはようございます、宇田賀さん、社長。どうしたのですか? こんな朝から」

「やあ、旭君。直接会うのはなんだか久しぶりですね。実は今、話していたところだったのですが……」


 私は自分のデスクに荷物を置いて、二人の話の輪に加わった。先に話を聞いていた宇田賀が私に言う。


「仕事の依頼だ。俺達と、紺ちゃんにな」

「紺にですか? 何かイベントの? コラボレーションの提案とか?」


 そう言って、雰囲気がそんな和やかなものではないことを思い出し、私は自分で自分の言葉を訂正した。


「……という類のものではなさそうですね」

「ああ、そうなんだ。なんともな、光栄なことだし、チャンスなんだが、バックグラウンドが素直に喜べなくてな」


 宇田賀が珍しく目を伏せる。御鍵が続けた。


「とある意識の戻らない少女の治療に協力してほしいという話が、〈ムロメ・デンノウ〉経由で来ています」

「それが、ウチに来ているんですか?」


 私が訝しげに首を傾げると、「まあ、待て。説明するから」と宇田賀が言った。


「〈ムロメ・デンノウ〉が自分達のフルダイブVR技術の活用を広く検討しているのは知っているよな。医療分野もその中に入るんだが、今回、ある少女の治療にフルダイブVRを使ってみようという話になった。その少女はある事件で両親を亡くし、自身も重傷を負った。一命は取り留めたんだが、意識が戻らないそうなんだ」


 私の表情を確かめるように、宇田賀は話を一旦区切った。私は無言で続きを促す。


「そして、実はその少女は、ある凶悪事件の犯人を目撃している可能性が高いんだ。まだ犯人は逃走中だ。だから、その少女をなるべく早く目覚めさせたい」

「なるほど。愉快な話ではないですね。でもなぜウチに? アニマルセラピーでも頼みたいという話じゃないでしょう?」


 宇田賀は斜め上を向いて「うーん」と唸った。


「当たらずとも遠からずだな。まあ、聞いてくれ。少女の脳に損傷はないんだが、事件のショックなのか、意識が戻らない。こういう時は家族が呼びかけたり、好きな音楽を聴かせたりすると目覚めるケースがある」

「ドラマでよくありますね」

「それで、この話を聞きつけた〈ムロメ・デンノウ〉が、フルダイブVR技術で少女の深層心理を仮想世界化して、そこにフルダイブして刺激を与えることで目覚めさせるという手法を提案した」

「深層心理を仮想世界にする……そんなことができるんですか?」

「ああ。脳深部の活動を読み取り、リアルタイムで3DモデリングAIが仮想世界として構築する。本当に深層心理なのかはまだわからないらしいんだが、〈ムロメ・デンノウ〉の技術者曰く、『限りなくそのようなもの』らしい。仮想世界の形で翻訳された深層心理を通し、外部の人間がフルダイブという形で接続することで、より深い形での意識への働きかけができる、らしい。詳しくは教えてもらえないんだがな」

「BMIの最新応用技術だ。機密だからくれぐれも口外しないでくださいね」


 御鍵が口を挟んだ。果たしてそんなことができるのだろうか? 「意識が無い」の程度にもよるが不可能では無いかもしれない。そもそも〈ムロメ・デンノウ〉が提案した時点で、少なくとも技術的には可能な状態であると判断しているのだろう。


「それで……ああ、もしかしてその患者って紺の……」


 宇田賀が頷く。


「そうだ。その仮想世界で誰がどうやって刺激を与えるか。家族の声が定番だが……もういない。それで、その少女が好きなものを調べたら、どうやらバーチャルタレントの紺ちゃんのファンらしくてな。誰かが紺ちゃんに似たアバターに入って呼びかけても良いんだが、何しろ悲惨な事件の被害者の小さな子供だ。余計な恐怖を与えたくない。だから、可能なら『本物』でやりたいと、そういうことでウチに話が来たんだ」


 紺ちゃんのファンの少女。もしかして――重い雰囲気の理由がわかった気がした。私の顔を見て、宇田賀がそれに応える。


「気づいたか? 患者の少女の名前は、幌屋木之実(ほろやこのみ)。この前のリアルイベントに家族連れで来てくれていた子だよ」


 立体映像の紺のところにやってきて、じゃんけんをして遊んでいた子だ。父親が一回目の配信を見ていて、二回目から家族で見てくれていた、古参のファン……


「助けましょう」


 私は震える拳を握りしめて言った。


 事件が起こったのは昨日だ。

 製薬会社に勤める野小屋拓のこやたくという三十代男性が、密かに自社の創薬システムAIの設定を変更し、強力な毒物を作成、社外に持ち出した。実は野小屋は反AI組織のILF(情報解放戦線)のメンバーであり、AI依存の危険性や、杜撰な自社の管理体制を告発しようとしたらしい。だが、実際に毒物を使う予定はなかった野小屋に対し、テロ行為に使おうとした他のメンバーとの間で意見が対立。その結果、野小屋は何と仲間に殺害され、毒物は奪われてしまった。野小屋の動機は残された日記から判明したものだ。

 野小屋を殺害して毒物を奪った犯人は、現場の山奥の山荘から逃走する途中に峠道で事故を起こした。その相手が、たまたま通りがかった幌屋家の父親が運転する車だった。対向車線にはみ出した犯人の車を避けようとした幌屋家の車は、ガードレールを突き破り崖下に転落。対して犯人の車はほとんど無傷だった。さらに現場の状況から、犯人はわざわざ車を降りて大破した幌屋家の車のドライブレコーダーを破壊し、瀕死の幌屋家を置いてその場を去ったと見られている。

 車からの自動通報で救急車が駆けつけた時には既に母親は亡くなっており、父親も搬送先の病院でまもなく亡くなった。生き残った娘の木之実ちゃんも意識が戻っていない。

 犯人の車は離れたところで乗り捨てられているのが見つかったが、盗難車であり、そこから犯人の身元はわからなかった。警察は野小屋の人間関係などから怪しい人物を洗っているが、未だ特定には至っていない。毒物が実際にテロに使われてしまう前に、一刻も早く犯人を確保する必要がある。そのためには、唯一犯人を見た可能性がある木之実ちゃんの証言が必要、ということなのだ。


 その日の内に私達と〈ムロメ・デンノウ〉、病院の関係者がオンラインで計画を詰め、翌日12月12日にすぐさま「治療」が実行に移されることになった。早く犯人を捕まえなければ多くの犠牲者が出る可能性がある。多少強引にでも木之実ちゃんに目を覚ましてもらう必要があった。

 木之実ちゃんは現在都内の大学病院に入院しており、移動させるのは難しい。イルカである紺も東京ラボから動かすのは一苦労だ。そこで〈ムロメ・デンノウ〉の持つ衛星を使った専用の通信回線を東京ラボと病院の間に構築し、木之実ちゃんの深層心理の仮想世界の中に通信回線を経由して紺と私が入る、という計画になった。

 前日の夜、私は東京ラボのいつもの仮想世界の中で、紺に今回の「治療」について説明した。


「紺、木之実ちゃんを覚えてる? この前のリアルイベントに来てくれた子だよ」

「コノミ? おいしそうな女の子! じゃんけんした」

「そうだよ。よく覚えているね。明日もう一度、その子に会いに行くんだ。助けに行くんだ」

「助ける? わあ。おいしそうだね!」

「……そうだね」


 私はどう説明したら良いのか悩んでしまった。宇宙イルカはメスしかおらず、繁殖行動も確認されていない。それに通常のイルカと違って群を作らず、ほとんど単独で行動する。宇宙イルカ達に家族というものが理解できるのだろうか?


「また、木之実ちゃんと遊んであげて欲しいんだ。木之実ちゃんは、ちょっと具合が悪いんだけど、紺が会ったら元気になるかもしれないんだよ。僕達で助けてあげよう」


 私は背景を説明するのを諦め、紺にしてほしいことだけを伝えた。うん、これで良い。紺はパタパタと手を動かした。


「ふーん。コノミ、死ぬ?」


 私は突然の言葉に驚く。紺が生や死について口にしたのは初めてだった。


「し、死なないよ。でも起きられないんだ。紺が遊んであげたら目を覚ますかも知れないんだ」

「わあ。わかったよ! 早く行こ! 早く助けてあげよう!」


 紺は待ちきれないという様子で仮想世界を走り始めた。現実世界のプールを見ると、イルカの紺はまるで眠ってるようにゆっくりと泳いでいた。ふと私の中で疑問がもたげる。本当にイルカの紺と、仮想世界の紺は本当に同じ個体、同一の意識なのだろうか? そもそもそれは、どうやって保証するのだ? 人ですら昨日の自分と同じだと言い切れないのに。例えば大企業時代の私と、今の私。本当に同一人物だろうか?

 私は被りを振る。今はそんなことを考えている場合ではない。私の気持ちをよそに、紺は身軽に宙返りをしながら楽しそうに笑っていた。


 翌日の12月12日午前九時。「治療」の開始予定時刻まで、あと一時間。その日は雪が降るという予報が外れ、みぞれ上の雨が降る冷たい朝だった。

 東京ラボにいるのは、私と紺以外には、鹿島さん、本原、それと〈ムロメ・デンノウ〉の技術者が数名だ。木之実ちゃんがいる病院には、御鍵、宇田賀、英さんが行っている。元々、〈ムロメ・デンノウ〉が医療用途のフルダイブVRの実験を共同で行っていた病院らしく、必要な設備やスタッフはすべて整っている。まずはあちらで木之実ちゃんの深層心理の仮想世界化を行い、次に私達が通信回線経由でその仮想世界にフルダイブする手筈になっていた。

 フルダイブVRルームで機器のチェックをした後、落ち着かない気分の私は紺のいる実験用プールに向かった。私が行くと、胴長を着た鹿島さんがプールサイドに腰掛けて紺の背中を撫でるように触っていた。私は鹿島さんに呼びかけた。


「鹿島さん。おはようございます」


 先に紺がミニャーと鳴く。鹿島さんが顔を上げた。


「旭君……」


 鹿島さんは黙ってしまった。何を言おうか考えている様子だ。私はこういう時に無理に沈黙を埋めないことを覚えた。今日は、波の音が少しうるさい。やがて鹿島さんが口を開いた。


「木之実ちゃんのこと、私も覚えてるよ。ご両親もね。こんな事ってあるんだね。人生、何があるかわからないね」


 鹿島さんの目元は濡れていた。不謹慎にもドキリとしてしまう私。鹿島さんが目元を拭いて言う。


「ふふふ……私おかしいよね。一回会っただけで、知り合いでもないのに。こんな機会がなければ、きっとご両親が亡くなったことも知らずに生きていたのに。勝手に悲しんでる」

「おかしくないですよ。他者への共感は人間に必要なものです。自然なものです」

 鹿島さんは私の方を見ずに、紺の方を見て言った。私は付け加えた。

「こんな時にしっかり悲しめるのは良いことだと思います。そういう人は、素敵だと思います」

「……何? それ? ふふ、下手だなあ」


 鹿島さんは私の方を見て笑った。


「宇田賀さんの爪の垢をもらって煎じて飲んだら良いよ。本原君でも良いかもね」

「どちらも美味しくなさそうですね」

「爪の垢が美味しい人なんていないでしょ。あ、私のが欲しいとか言わないでよ」

「言いませんよ」


 鹿島さんは再び紺の方を向き、手を伸ばした。紺が吻でその手に触れ、キュッキュと鳴いた。それから鹿島さんは立ち上がり、私の肩をポンと叩いた。


「頑張ってね。紺ちゃんをよろしく。私は……怖くて出来ない。旭君は凄いよ」

「……そうでしょうか?」

「そうだよ。自分のことを、もう少し過大評価してもいいと思う」

「……」

「私はプールでイルカの紺ちゃんの方を見てるから。こっちは任せてね」


 その時、私のスマートグラスに宇田賀から呼び出しがあった。東京ラボにいる社員全員に対してだったらしく、鹿島さんもスマートフォンを取り出した。宇田賀は変に気取った声で言った。


「東京ラボなのに東京には無い東京ラボの諸君、準備は良いかな?」

「はーい、こちら千葉県、東京ラボ、バッチリでーす。今から最終チェックです。旭さん、サボってないで戻ってきてください。減給処分ですよー」


 本原がわざとらしいほど軽い調子で答える。皆が緊張を誤魔化そうとしていた。私は鹿島さんと顔を見合わせてクスリと笑い、通信に応えた。


「減らされるほどもらってないよ。すぐ戻る」

「悪かったですね。これがうまくいったら給料上げるよ」


 宇田賀の後ろから社長の御鍵の声がした。私は再び鹿島さんと顔を見合わせて苦笑いをしてから、フルダイブVRルームへ駆け足で戻った。

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