第19話 運動
2035年10月3日。
暑さがようやく和らぎ、秋の虫が騒がしい季節がやってきた。最近、去年の今頃は、ということをよく考える。去年の十月ごろといえば、紺の脳の半球だけを仮想世界にフルダイブさせるというアイデアを検証するため、調整や準備に走り回っていた頃である。あれからもう一年、いや、まだ一年……どちらの感覚もあった。
プールから紺が頭を出し、空気を吸って再び潜っていった。今、紺のもう半分の脳は仮想世界の中で鹿島さんとダンスの練習をしているところだ。ディスプレイに映る鹿島さんと紺の動きを見ながら私は思う。私には出来ない。運動のセンス面でも、体力面でも。仮想世界内で運動しても体は疲れないような気がするのだが、これが不思議なことに疲れるのだ。おそらく脳がエネルギーを大量に消費するのだろう。長い時間仮想世界にフルダイブしていると、無性に甘いものが欲しくなる。それはまだわかるのだが、奇妙なことに筋肉痛になったりもする。事故で失った手足が痛む幻肢痛というのがあるが、それに近いものかも知れない。いずれにしろ、現実世界で運動を楽しんだ経験がほとんどない私には、紺に体の動かし方を教えるのには限界があった。せっかくの仮想世界なのに現実世界の能力に左右されてしまうとは、フルダイブVRも良いことばかりではない。最近の私の仮想世界での役目は、紺に勉強を教えることと、ゲームの相手をすることになっていた。
紺はバーチャルタレントとして地道に活動し、少しずつではあるがファンを増やしていた。歌はまだ上手く歌えないのだが、曲に合わせて踊ることは好きらしく、ダンスはすぐに上達した。「〈ミカギテクノロジー〉の社歌、踊ってみた」という動画は今までで一番の再生数を記録した。その次に評判が良かったのが、紺がコンピューターゲームをプレイする様子を配信する、いわゆるゲーム配信企画だった。
ゲーム配信は今や小学生でもやっている気軽な自己表現である。それでも、宇宙イルカがゲームをするというのはそれなりの面白さがあったし、加えて紺は特定のジャンルのゲームが異様に上手かった。紺が得意なのは空間認識能力を要求されるようなゲームで、特に、戦闘機で敵を撃墜するようなシミュレーターでは初プレイで大会に出られるレベルの高得点を叩き出した。この時の配信のアーカイブが、今のところダンス動画に次いで再生数二位である。
そんな感じで、紺は日々の餌代の一部くらいは自分で稼ぐようになっていたのだが、最近は伸び悩んでいた。SNSでいつも触れているインフルエンサーの人気を見慣れていると、自分達もそういった活動を始めればすぐに人気になるような気がしてしまう。だが、想像以上に世界には情報が多く、簡単に埋もれてしまうのだ。紺も、〈ミカギテクノロジー〉という会社も、例外ではない。当事者である私達の目の前ではいつも興味深い出来事が起こっているのに、世間には想像以上に伝わらない。社長の御鍵はほぼ毎日投資家と会っているらしいが、宇宙イルカ関連だとわかると出資を渋る人がまだ多いという。一時期、宇宙イルカをめぐって投資詐欺が頻発したことがあったから、そのせいなのだろう。
状況を進めるには、何かきっかけが必要だった。私達はバーチャルタレントのプロデュースが目的ではないはずなのに、私は一体何をやっているのだろう?
そんなことを考えながら、私は気がつけはディスプレイの中の仮想世界で息を荒げる鹿島さんを見つめていた。仮想世界で激しく動くと、実際の体は動いていなくても心拍数や呼吸数は上がり、それがアバターにも反映される。
「あー疲れたー!」
鹿島さんはそう言って、仮想世界の中でバタンと仰向けになった。上下に動く胸を見て、鹿島さんのアバターの中に入った時のことを思い出してしまい、被りを振る。私はスマートグラスのマイクから仮想世界の中へと呼びかけた。
「鹿島さん、お疲れ様です。ドーナツを買ってきましたよ。休憩にしませんか?」
「え、あ、旭さん。ありがとう。気が利くようになったじゃない」
「はは。僕も食べたかったので」
「美理仁、良くやった。よーし、みんなで食べようぜ。英さんも、本原も、休憩だ。俺はチョコのやつな」
「あ、先輩ずるいですよ!」
「旭君、ありがとうねぇ。もらうねぇ」
宇田賀達がフルダイブVRルームのデスクの上に置いたドーナツの箱に群がる。仮想世界の中で寝そべったままの鹿島さんが言った。
「ちょっと、私のやつ、ちゃんと残しておいてよ」
「鹿島さんには抹茶のやつ買ってありますよ。前に好きって言っていましたよね?」
「え、やった。ありがと、旭君」
あの日、間違って鹿島さんのアバターに入ってしまってから、私は鹿島さんに親しみを感じるようになっていた。随分と一方的で勝手な感情であると自分でも思うのだが、仕方ないじゃないか。私もホモサピエンスのオスなのだ。
すると、元気に仮想世界を走り回っていた紺が鹿島さんに言った。
「ずるい。私もどーなつ、食べる。食べたい!」
「あはは、紺ちゃんが食べたらお腹壊すよ。お魚で我慢してね。お魚の方が美味しいよ」
「魚、おいしい! 新しいやくそくの魚、おいしい! ひみつ!」
「ん? 約束? 秘密?」
紺の言葉に首を傾げる鹿島さん。私は急いで誤魔化す。
「あー、仮想世界内に食べ物を再現してみる計画のことですよ。仮想世界で食べられる美味しい魚を用意する、って紺に約束したんです」
それを聞いた紺は一瞬きょとんとした顔を見せたが、すぐに「おいしい魚!」と言って嬉しそうに仮想世界を走り回った。宇田賀が、チョコドーナツをもぐもぐと口に入れながら言った。
「あれ? それは意味がなさそうだから止めようって、前に美理仁が自分で言ってたじゃないか?」
「いえ……せっかく五感が再現されてるのですから、いろんな刺激を与えた方が紺の成長に繋がるかと……」
「ふーん。まあいいや。来週にやるリアルイベントの準備が滞らない範囲で試してみてくれ。さあ、早く来ないと俺がドーナツ全部食べちゃうぜー」
「ええ、待ってくださいよ。僕が買ってきたのに」
そう、「主に鹿島さんのために」、私が買ってきたのだ。私はプールの紺に魚を与えてから、急いで開発室へと戻った。
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