第18話 うっかり
2035年8月。
〈ミカギテクノロジー〉東京ラボの増改築工事が完了した。紺のいる実験用プールはそのままだっだが、併設されたフルダイブVRルームは少しだけ広くなった。何より、開発室がついにプレハブ小屋を卒業したのが私達には大きかった。学校の教室二つ分ほどの広さの新開発室は、プール棟と繋がって建物の一部となり、室内の窓からは実験用プールの様子も見えるようになった。
さらに、私達は鹿島さんのフルダイブVR用アバターを新たに製作した。
私達は日々、紺とコミュニケーションを続けており、紺は知識を蓄え、人の体の使い方を覚えていったが、最近どうも成長の速度が遅くなってきていた。加えて、バーチャルタレントとしての人気もなかなか上がらなかった。七月のデビュー配信以降、紺は週に一回ほどの頻度で配信や動画投稿をしていたのだが、二回目以降は初回ほどの視聴者が集まらず、その他大勢のバーチャルタレントの海にすっかり埋もれつつあった。3DCGのアバターを人間の動きに追従させるだけなら十年以上前からある技術であり、今や大して技術に興味がない人でも簡単にできる。紺は宇宙イルカだったし、アバターは技術的には他と一線を画すフルダイブVR対応のものだったが、配信画面上では残念ながらその他大勢と大差無いのだ。画面の半分に宇宙イルカが写っていて少女と同じ動きをしても、「イルカかわいい」以上の感想には繋がらなかった。
紺を人気者にするにはまだまだ工夫が必要だった。そのために皆で案を出していた先月の末、宇田賀がふと言ったのだ。
「紺ちゃんって、なんか動きがまだぎごちないよな」
それに反応して、鹿島さんが言った。いつか言いたかったけど我慢していた、というような口ぶりだった。
「そう! 私も思ってたんだけど、紺ちゃんの仕草ってなんか硬いんだよね。多分だけど、旭さんの動きを真似ているんだと思うの。だから、可愛さが半減しているのかも」
その時点では、仮想世界で紺と会っているのは私だけだった。私と紺が仮想世界にいる間、宇田賀達エンジニアは外でコンピューターのディスプレイを見ているし、鹿島さんは実験用プールでイルカの紺の状態を見ていたのだ。私は困惑しながら言った。
「つまり……私の動きが硬い、ということですか?」
「うん。旭さんって、なんかたまにロボットみたいだもん。あ、昔のやつね」
「はははっ! あ、すまん、美理仁」
「ぷっ……! 先輩……ロボット……くくっ!」
本原が笑いを堪えて私から目を逸らした。私は確かに体が硬いし、運動も得意ではない。だが一応まだ二十代である。単純にショックだった。
「そんな……私ではダメなんですか? ロボット、しかも昔の?」
どうやら想像以上に私の顔は絶望に満ちていたらしい。鹿島さんが慌てて言った。
「あ、ご、ごめん、言い過ぎた。大丈夫、旭さんはちゃんと人間ですから! 最近、とっても人間らしくなりましたよ」
「ええ、ああ、はい、大丈夫です……自分が人間なのは知ってます……」
私の心中は複雑だった。このままだと仮想世界で紺に会えなくなるかもしれない。だがそれと同時に、鹿島さんが私のことを見てくれているんだなということに気がつき、それについては悪い気はしなかった。もちろん、それで彼女が私を好きだとか考えたわけではないが、彼女に一人の人間として認識され、他者との差異を理解されているという事実が少し嬉しかった。それだけだ。
宇田賀がパンと手を叩き、皆の注目を引き付けた。
「じゃあ、追加で鹿島さんのアバター作ろうか」
「え……私のですか?」
「やっぱり、仮想世界内で他の人とも会った方が良いってことだろ。だったら、やっぱり次は鹿島さんだろ。懐いているしな」
鹿島さんは「うーん」と唸って考えるそぶりを見せた。以前、最初のアバターを鹿島さんの外観にしようという話が出た時は即断っていたのだが、さっき自分で私に言った言葉について後ろめたさがあったのかもしれない。少し恥ずかしそうに鹿島さんは言った。
「いいですよ……でも、そのアバター、私以外が使わないって約束してくださいね」
「おお! じゃあ早速発注だな。というか、実はもうしてある。元々もう一人分作る予定だったんだ。都内に〈ムロメ・デンノウ〉の関係会社があって、そこで全身スキャンできるから。可能なら、明日にでも行ってくれ」
「うう、なんか宇田賀さんに仕組まれたみたい。測定のスタッフは女性を指定できますか?」
「ああ、もちろん。連絡を入れておくよ。じゃあ、よろしく」
宇田賀の手際の良さに苦笑いを浮かべながら、鹿島さんは言った。
「わかりました。実はずっと仮想世界でも紺ちゃんに会ってみたいって思ってたんです。うふふ、楽しみになってきました」
そんな経緯で二体目のフルダイブ専用アバターとして鹿島さんのアバターが発注され、八月に納品されたのだった。骨格、筋肉、脂肪、神経、感覚器官を再現するフルダイブVR用アバターは特別製だ。モデルとなる人間の外観データはもちろん、人間ドッグで使うようなMRIで体内部の構造までをスキャンし、〈ムロメ・デンノウ〉の専門技術者が製作する。AIによる支援で作業効率は一昔前の比ではないが、それでも細かい調整にはまだ職人の技が必要だそうだ。将来的には身体スキャンから製作までをAIで自動化して一般の人でも手に入るようにする予定だそうだが、今のところは世界で一番高いアバターだ。
「じゃあ、鹿島さんの初フルダイブ、始めます」
「よ、よろしくお願いします」
鹿島さんの初フルダイブは八月のお盆休み明けに行われた。私がいつも使っているフルダイブ用の椅子に横になった鹿島さんは少し不安そうな顔だ。一方、私はいつも鹿島さんがいるプールサイドからフルダイブVRルームの様子を眺めていた。今日は配置が逆だ。なんだが不思議な気分である。バシャリと水音がして、プールの水面から紺が頭を出した。最近はずっと仮想世界で少女のアバターの紺と会うことが多かったから、イルカの紺をこうして近くで見るのはなんだか久しぶりだ。紺は口を開け、ミニャ! と鳴いた。
「紺。今日は仮想世界には鹿島さんが行くんだよ」
「かしま、ってだれ?」
私のスマートグラスから仮想世界の紺の声が返ってくる。目の前のイルカの紺は、体を回転させ、左側の目で私の方を見た。紺の脳の半分はすでに仮想世界にフルダイブしている。今日は左側が仮想世界、右側が現実のイルカだ。脳は半分だけでも案外体を動かすのに問題ないようだが、使っている脳と逆側の目でしか物を認識出来なくなる。これは事故で脳の半分に損傷を負った人間でも一緒だ。だからイルカの紺は、今は左側でしか私を認識出来ない。
「鹿島さんは、鹿島祐子さんだよ。いつもここにいる女の人」
紺は長い鳴音を発した。ミャアミャ、キュウウキュ、ピュキュキュキュナミャ……みたいな音だった。同時に、スマートグラスからは仮想世界の紺の言葉が聞こえる。
「あのひと! かしま。かしまも、魚くれる。おいしい人。あの人、おいしい」
「紺、違うよ。それだと鹿島さんを食べると美味しい、ってことになるよ。食べないでね。あと、祐子さん、って呼んであげるといいと思うよ」
自分の口が「祐子」と発音したことで、私はなんだか胸がむずむずするのを感じた。
「おーい、美理仁。鹿島さんのフルダイブ始めるから、そっちの紺ちゃんよろしくな」
スマートグラスから宇田賀の声が割り込んだ。屈んで紺と向き合っていた私は、立ち上がり、窓越しにフルダイブVRルームの中の宇田賀と鹿島さんに手をあげて合図した。横でイルカの紺がカカカカ……と鳴いた。
すぐに、鹿島さんの初めてのフルダイブが始まった。私は実験用プールの壁に設置された大きなディスプレイに目線を移す。いつもの仮想世界の小さな部屋が映し出されている。私の……私と紺の部屋。今はそこに鹿島さんと紺がいた。
鹿島さんは不思議そうに自らの体を見ていた。仮想世界に再現された紛れもない自分の体が、不思議で、不気味で、確かめずにいられないのだ。
「すごい。これ、本当に仮想世界なんですよね」
鹿島さんが言う。それに答えたのは先に仮想世界の中にいた紺だった。
「わたしのへやだよ。ゆうこ。おんなの人。たべないでね」
「え……あはは、何言っているの? 紺ちゃん……すごい、目の前にいる」
「ゆうこ、あたらしい人!」
紺はワンピースをひらひらとさせながら、小さな部屋の中を走り回り始めた。鹿島さんは笑顔を浮かべ、自らの体の感覚を確かめるようにゆっくりと歩き出した。イルカの方の紺は、同じようにプールの中をくるくると泳ぎ回っていた。
「ねえ、紺ちゃん」
「なに? ゆうこ」
鹿島さんが呼びかけると、楽しそうに部屋を走り回っていた紺は立ち止まり、鹿島さんを見上げた。画面の横には鹿島さんのバイタルデータが表示されているのだが、それを見ると心拍数が上昇していた。鹿島さんは遠慮がちに口を開いた。
「さ、触らせてもらってもいいかな?」
「え、たべるの?」
「うふふ、食べないよ」
「じゃあ、いいよ」
紺は鹿島さんに向かってスッと右腕を上げた。鹿島さんは紺の二の腕あたりを、人差し指でゆっくりと触った。
「柔らかい……すごい、本当に……」
鹿島さんの心拍数がさらに上昇している。よく見れば、鹿島さんのアバターの頬も紅潮していた。こんな機能があったとは知らなかった。一方の紺は不思議そうに首を傾げ、そのバイタルは落ち着いていた。このままでは紺が飽きてしまう。私はスマートグラスのマイクのミュートを解除し、仮想世界内に呼びかけた。
「鹿島さん、紺と遊んであげて下さい。ボールが落ちてるでしょう?」
「うわっ、びっくりした! 旭さんか。え、ええ、わかった。これね」
鹿島さんは仮想世界の中に落ちていた手のひら大のボールを拾い上げ、柔らかいボールを掴んだ感覚が見事に再現されていることに感動した様子を見せる。期待の眼差しで自分を見つめる紺に気がついて、鹿島さんは戸惑いながら紺に向かってボールを放った。
「はい、紺ちゃん」
「わ!」
紺がいつものように両手でキャッチする。いつもやっていること。投げる人が変わっただけだ。感激した様子の鹿島さんと対照的に、紺はボールを無表情にまじまじと見つめていた。もう飽きてきたのかもしれない。そろそろ歌を教えてみようか……などと私が考えていると、紺はニッと笑い、手に持ったボールを鹿島さんに向かって投げつけた。
「えい!」
「ちょっと、痛っ……くない……けど、どうしたの?」
ボールは鹿島さんの肩に当たり、跳ね返って部屋の隅へと転がっていった。紺はつまらなそうにその場に座り込んでしまった。
「ゆうこになったのに、つまらない。おいしくない」
「えっ」
鹿島さんのアバターの表情筋が驚きと悲しみを表現する。私は、なぜだかちょっとだけ優越感を覚えていた。仮想世界の紺が言う。
「さかな、ほしい」
「そんな、紺ちゃん……」
黙って見ていた宇田賀が声をかける。
「鹿島さん、疲れただろ? 一回戻って……」
「宇田賀さん、大丈夫です」
鹿島さんは宇田賀の言葉を遮り、部屋の中に転がっていた別のバレーボールくらいの大きさのボールを手に取った。そして、それを投げ上げたかと思うと、力強く手で叩きつけた。バレーボールのスパイクだ。ボールはスパン! と勢いよく紺の横に飛んでいき、床で大きな音を立てて跳ね返った。目を丸くした紺に向かって、鹿島さんが得意げに言った。
「どう? 運動音痴ロボットの旭君はこんなこと見せてくれなかったでしょ? これでもつまらない?」
「わあああ! なに? 今のなに?!」
紺はさっきまでの様子が嘘のように目を輝かせ、パタパタと手を叩いた。プールの紺も少し低めの声でナァーナ! と鳴いている。
「ふふふ。紺ちゃんに、人の体の本当の動かし方を教えてあげる」
「わあ、おいしいね!」
「へ? ああ、動いた後に食べるご飯は美味しいよ。あれ? 仮想世界で運動するとお腹空くのかな? まあいいか」
その後、一時間ほど鹿島さんと紺は仮想世界の中でスポーツをして楽しんだ。私には出来ないことだった。そう、私はロボットではないが確かに運動音痴だ。この時、私の胸の中には悔しさと、感動と、憧れと、そして嫉妬が同居していた。行き場を失った感情のせいで握りしめた手が震えるのを、私は久しぶりに経験した。
その日の夜、遅くまでで仕事をしていた私は気がつくと会社に一人になっていた。いつもは宇田賀も遅くまでいるのだが、今日は用事があるらしく早めに帰ったのだ。外からは聞き慣れた波の音が響いている。窓から差し込む光の明るさからすると、今日は満月のようだ。私は帰る前に紺の様子を見ようとプール棟へと向かった。だが、途中から私の足は実験用プールではなく、その横のフルダイブVRルームへと向かっていた。イルカではなく、少女の方の紺に無性に会いたかったのだ。
この頃には、仮想世界へのフルダイブは現実世界側で作業する人がいなくても慣れれば一人で出来るようになっていた。宇田賀が改良したのだ。私はデスクのコンピューターを操作し、紺の右側の脳をフルダイブさせた。フルダイブさせる脳は一回ごとに左右を入れ替えることにしている。紺は突然のフルダイブに驚いているかもしれない。早く行ってあげないと。私は中央の椅子に座り、急いで自らをフルダイブさせた。そう、急いでいたから、うっかりしていた。わざとではない。
仮想世界で目覚めた私は違和感を覚えた。体が軽い。自らの腕の細さを見て、私は間違いに気がつく。私は鹿島さんのアバターにフルダイブしていたのだ。
「え? あ、これはまずいな」
聞き慣れた高い声が出た。ただ、息の出し方が違うのだろう。本物の鹿島さんとは声の調子が違う。少しツンとした感じが足りない。なかなかに興味深い。私が横を見ると、壁の鏡には鹿島さんが映っていた。
「……」
私は鏡に近づき、自分の――鹿島さんの顔を――覗き込んだ。本物の鹿島さんはもう少し目尻が上がっている印象だ。顔の筋肉の使い方が違うのだろうか。
――しかし、鹿島さんは美人だな。
私は鏡に映る顔に見惚れていた。頭の向きを変え、様々な角度で顔を見た。次に、少し離れて全身を鏡に映した。胸がドキドキしていた。背徳感に溺れながら、私は鏡の中の女性から目が離せない。その女性は今、自分と同じ動きをしている……
「みりに、何してるの?」
飛び上がるほど驚いた。バイタルデータを確認するまでもなく、私の心拍数は急激に上がっているはずだ。話しかけてきたのは紺だった。当然だ。私は紺に会いにきたのだから。私がさっきフルダイブさせたのだ。
「あ、紺……わかるの?」
「あるいたときの音が、みりに。わかる」
「そ、そうか。そうなんだ」
紺がすぐに旭美理仁だと見抜いてくれたことが嬉しかった。紺は不思議そうに鹿島さんの体を纏う私を見つめていた。
「ゆうこをたべたの? だから、ゆうこになったの?」
「ち、違うよ。すごい発想だね。また変な映画見たのかい? 裕子さんはいるよ。間違えて入っちゃったんだ」
「ふーん。でも、おいしそうに見てた。さっき」
「美味しそうに、ね……あながち間違ってはいないかもね」
「わあ」
紺はなんだか嬉しそうにパタパタと部屋を走り回り始めた。私は慌てる。
「ちょ、ちょっと待って、違う、嘘だよ」
「うそ、ってなに?」
「ええと……とにかく、さっきの事は誰にも言わないで欲しいんだ」
「なんで?」
紺は首を傾げる。
「鹿島さんが、ええと、裕子さんが怒るからだよ。ここからいなくなっちゃうかも知れないよ」
「ゆうこはおいしい。いなくなるのは、おいしくない」
「そうだろ。だから秘密だ」
「ひみつ?」
「誰にも話さないでほしい、ってことだよ」
自分が話すたびに鹿島さんの声が出て、本物が現れたのではないかとソワソワする。紺は頷いた。
「わかった。さかな、欲しい」
「いくらでもあげるよ。いや、それは健康に悪いか……来月から少し高いやつに変えよう。美味しいよ、きっと」
「わあ。よくわからないけど。おいしいなら、いい!」
紺は嬉しそうに両腕をブンブンと振った。私はいつもより小さな口から息を吐く。
「じゃあ、約束だよ。戻ろうか」
「わかった、えへへ」
私は仮想世界から現実に戻ってすぐに周りを何度も見回し、誰かがいないか耳を澄ませた。幸いにも、うっかり忘れ物を取りにきた人がいたりはしなかったようだ。私は紺のフルダイブを解除して魚をたっぷりとあげてから、急いで帰宅した。
鹿島さんを纏った時の体のフワフワした感じが忘れられず、案の定、その日の夢で私は鹿島さんになっていた。詳しい内容は覚えていないが、楽しい夢だったのは覚えている。
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