第14話 目標達成

 2035年1月26日。

 私は久しぶりに幼馴染の曽理音と会っていた。バーで私の隣に座った曽理音は、いつものようにロックのウィスキーが入ったグラスを傾けていた。


「宇宙イルカが名前を呼んだ、だって?」

「そうなんだ。ついにここまで来たんだ! 歩けるようになってからは早かったよ。まだまだ成長するぞ。自分でも信じられない」

「うーん、お前、そのフルダイブVR装置、ただのVRゲームなんじゃないか? 騙されていないだろうな。エイプリルフールには少し早いぞ」

「なんだよ。そもそも、そんな嘘をついて誰に何の徳があるんだ? 俺は今楽しくてしょうがないんだ。転職して大正解だったよ」

「ふ、現金なやつだな」


 曽理音はグラスの氷を揺らして弱く笑う。どこか元気がないような気がした。


「でも、まあ、上手くいっているなら良かったよ。色々勝手なことを言って悪かった。お前には、小さくて新しい会社の方が向いていたのかもな」

「まだ完全に成功したわけじゃない。まだ紺と会話できるとは言えない。会話できるようになったら、宇宙の秘密を聞き出すんだ。そこから価値あるモノを生み出してビジネスに出来て、初めて成功だ。これからが大変だ」

「紺? ああ宇宙イルカの名前か。そうか」


 曽理音は新たなウィスキーを注文しようとして、少し考えてハイボールを注文した。


「あれ? ウィスキーじゃないのか?」

「あ、ああ、たまにはな。しかし……世の中何が正解かわからないな」

「曽理音。お前がそんなことを言うなんて珍しいな」

「ははは、俺だって常に上手くいっているわけじゃないさ」


 曽理音はハイボールを一口飲み、テーブルの上のナッツを摘んで、ふう、と息を吐く。何だか少し前の自分を見ているような気分になる。

 しばらく、私達は無言で店内に流れるジャズを聴いていた。サックスの音色が、やけに頭に響く。曽理音が思い出したようにボソリと口を開いた。


「そういえばさ、ILFって知ってるか?」

「なんだ、突然?」

「世間話だよ。ILF。情報解放戦線」


 ILF(Information Liberation Front)、情報解放戦線とは、最近世界中で活動を活発化させている組織だ。彼らは「情報の解放」を目的として掲げ、情報インフラやプラットフォームを運営する一部の大企業や、それを有する先進国が「情報」を独占することを批難している。AIが学習をするのには膨大な情報が必要だ。日々のインターネットを介したサービスなどによって発生し、やり取りされる膨大な情報。それらはどうしても運用する企業の元に集約されてしまう。大量の情報を持つ企業が強力なAIを開発し、より強力な技術、商品、サービスを生み出し、さらに大量の情報を集める。AIは強大なものをより強大にし、それ以外のものは選択の余地なく情報や使用料金を吸い取られ、大企業の〈決壊〉などの問題を引き起こす。社会構造は二極化し、貧富の差が拡大する。ILFは、そんな情勢を打破するために「情報の解放」を訴え、一部は過激な手段を取っている……私はどこかのニュース記事で読んだ内容を思い出す。


「知っているよ。データセンターを攻撃したりしている反AIのテロリストだろ」

「ああ、まあ、それは一部の過激派だ」

「それがどうしたんだ?」


 私の問いに、赤い顔をした曽理音は顔を伏せて答える。


「いや、知り合いがさ、会社を解雇されて、その後ILFに入ったんだよ」

「なんだって?」

「お前、ILFってどう思う?」


 私は少し考えて答えた。


「正直どうでも良い。今は自分のことで精一杯だ」

「そうか。羨ましいな」

「俺のことが?」

「ん? そうだ。ま、頑張れよ。ちょっと俺も忙しくなりそうでな。しばらく会えないかもしれない」


 私の顔を見ずに、曽理音はそう言った。いつもの余裕のある笑顔は、結局この日は一度も見られなかった。


 2035年2月。

 仮想世界の紺が「人らしく」なるにつれ、現実世界のイルカの紺にも変化が現れていた。私がプールに現れるとイルカの紺は右の胸びれをパタパタ動かしながら「みにゃ」と鳴いた。イルカの状態でもかなり正確に私達の言葉を理解している様子を見せ、まるで話しているような複雑で高低の入り混じった鳴音を聞かせるようになった。イルカの体の構造上、どうしても発声できない音があることをもどかしく感じているようだ。

 仮想世界では紺はすでに走り回り、手を使って玩具のボールを掴んで投げてみせた。宇田賀が仮想世界内に子供向けの動画を流したりすると、興味深そうにそれを見つめ、笑った。

 そう、この頃の紺は笑うことを覚えていた。立って歩くようになり、私と向き合うことで顔がコミュニケーションの器官だと理解したのだろう。もっとも、私はそこまで感情を表に出すのが得意ではないから、紺はイルカの体で見た宇田賀の笑い方を真似ていたのかもしれない。私がそう思ったのは、それがとても良い笑顔だったからだ。表情筋の使い方については、この時点で私より紺の方が上手くなっていた。


 二2035年3月12日。

 私達は紺の変化が楽しくて、嬉しくて、とにかく夢中になっていたから、目の前で起こっていることがいかに奇跡的で、ある意味恐ろしい出来事であるかについて鈍感になっていた。紺はいつの間にか「これはなに?」という言葉を覚えていた。それ以降の変化は本当にあっという間だった。


「みりに。これ、なに?」


 青みがかったワンピースを着た少女の姿で、紺は仮想世界に置かれた魚の形のぬいぐるみを指差して言った。


「紺、それは魚だよ」

「さかな……さかな! さかな、おいしい!」

「そうだね。現実世界に戻ったらあげるね」

「わあ、おいしいね。みりに」


 私に向かってニコリと笑う紺に、私も笑顔を返す。私は逆に笑い方を教えられている気分になる。宇田賀の声が響く。


「いやあ、随分賢くなったな」

「ええ。素晴らしい。可愛いですね」


 その時、宇田賀の横でディスプレイ越しに私と紺の様子を見ていた英さんがのんびりとした様子で言った。


「いやあ、すっかり喋れるようになったねぇ。最初の目標達成だねぇ」

「ああ、そうだな……あれ、俺達の目標ってなんだったっけ?」


 仮想世界の中で元気に走り回ってボールを蹴り飛ばして笑っている紺を前に、私は言った。


「……会話できるように、なりましたね」

「ああ。というか、会話どころじゃないよな、これ」

「いやあ、孫がもう一人出来たみたいで嬉しいよぉ。紺ちゃんにお魚あげてくるねぇ」


 英さんが呑気にゆっくりと立ち上がった。

 私達はいつの間にか、すっかり目標を通り過ぎていた。


 2035年4月3日。

 〈ミカギテクノロジー〉は「フルダイブ型VR技術を活用し、宇宙イルカとの会話に成功した」と発表。私達は目標を達成してしまったのだ。

 思えば、私が入社してちょうど一年だった。一年前の自分は、今の状況を予想出来ただろうか? 不満を抱える大企業社員だった頃の自分は? 絶対に、今の状況は予想出来ないだろう。

 最適解から外れた場所で、私は未知の世界に自分の好奇心と意思で切り込んでいく楽しさを覚えた。AIに置き換えられない実力を身につけるなんてそれらしい目的は、もうどうでも良くなっていた。

 この時の私はまだ未知の世界の入り口に立ったばかりだったが、とても充実していた。

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