第13話 成長
2034年12月10日。
私達は紺に人の知性を芽生えさせるための実験を繰り返していた。
紺の脳の右側と左側を交互に仮想世界の少女のアバターにフルダイブさせ、人の体に馴染ませた。まずは鏡を見せながら人の体の形状を理解させようとした。だが、紺は床に寝そべったまま手をパタパタさせるだけで、しばらくはそれ以上の進展はなかった。
進展があったのは最初の実験から一週間後だった。もう自分達だけで装置を操作できるようになり、〈ムロメ・デンノウ〉の技術者達は一人を残して引き上げていたが、その残った一人――例に漏れずすっかり宇田賀と仲良くなった一人――が、まだ開発中の機能の使用を許可してくれた。
それは、フルダイブ中のアバターの筋肉にシステム側から特定の動きの信号を介入させる機能、つまりシステム側で勝手にアバターを動かす機能だ。これは事故などで歩けなくなった人のリハビリを想定した機能で、仮想世界にフルダイブした患者の脚に歩く信号を流して動かすことで、脳に動きを思い出させようというアイデアだ。他にも、スポーツやダンスの動きを効率的に習得するという使い道も検討されている。私達はこの機能を使い、まだ立ち方を知らない紺を強制的に立ち上がらせてみることにした。
当然だがイルカには脚が無い。祖先は陸上にいた哺乳類なので骨格には後ろ足の痕跡があるのだが、見ての通り退化している。その代わりに尻尾が発達して尾ひれになった。だから突然、尻尾が消えて脚のある体になったって動かし方がわからないのも当然だ。だったら、動かした時の感覚を体験させれば良い。それで脳の回路のようなものが開くのではないか。私達はそう考え、やってみることにした。
私はいつものようにフルダイブVRルームの椅子に寝そべり、仮想世界にダイブした。私と紺のための仮想の部屋は、今では少し模様替えされ、まるでダンスの練習をする部屋のように壁の一面が全て鏡になり、カーペットにはイルカのイラストが描かれていた。英さんが描いてくれたものだ。英さんはせっかく五感が再現されているのだからと言って、花を置き、その匂いまで設定した。
紺はいつものようにカーペットの上にうつ伏せに寝そべって手をパタパタと動かしていたが、私に気がつくと顔を上げて「ミアァ」と言った。私はゆっくりと呼びかけた。
「紺。今日は少し変わったことをするけど、驚かないでね」
仮想世界に宇田賀の声が響く。
「バイタル正常。よし、じゃあ立たせるぞ。美理仁、倒れてもいつでも支えられるようにしておいてくれ」
「わかりました。お願いします」
紺のアバターの筋肉にシステムが介入し、信号を流す。すると、ごく自然に、人間のように、私の目の前の少女はスッと立ち上がった。
「ああぉあ!」
驚いたように声を上げる紺。私は目の前の少女の様子を見ながら、傍に浮いたウィンドウで現実世界の実験用プールを写したカメラ映像を確認する。こういうことができるのは仮想世界ならではだ。映像では少し興奮してバシャバシャと水飛沫をあげている紺と、その横に寄り添う鹿島さんの様子が写っていた。私は目の前の少女に視線を戻して言った。
「驚いたかな? でも大丈夫。ほら、鏡を見てごらん。君は今、立っているんだ。僕らが少しだけ手伝っている。この感覚を覚えて。立ち泳ぎみたいなものかな」
現実世界の紺は立ち泳ぎをしてフルダイブVRルームの中を覗いていた。一方、目の前の紺は口をパクパクさせながら私の方を見ている。彼女はまだ、驚いた表情の作り方を知らない。
「一度システムからの介入を切るぞ。支えてやってくれ」
私は紺の背中に回り、両脇の下に腕を差し入れた。直後、私の両腕は少女の軽い体重を受け止めた。「ナオアォ」と声を出す紺。その時、紺の右足が床を踏み締めるように一瞬動いたのを見て、私は宇田賀に呼びかける。
「宇田賀さん、今動きましたよね」
「ああ、動いたな。システムからは介入してない。ちょっと待て……うん、イルカの体では活性化したことのない脳の領域が反応していたようだ」
「もう一度立たせてください」
宇田賀が操作をすると、紺は再び両足で床を踏みしめて立った。私は紺の脚がぴくぴくと動いていることに気がつく。脳からの信号はシステムからの介入中もアバターに伝わる。紺が自らの脳の信号でアバターの脚を動かそうとしているのだ。
「宇田賀さん、解除して」
「おう、ちゃんと支えてやれよ」
システムからの信号が消え、ぐらりとバランスを崩す紺。私が敢えてすぐに支えずに見ていると、紺は倒れる方向に対して一瞬、脚を踏み出した。倒れる紺を受け止めながら、私はひどく興奮していた。
「よし、よし、いけるぞ」
「ふーむ。アバターから脳へ体性感覚のフィードバッグがあるのか? そんな仕様になっていたっけかな……」
「宇田賀さん、もう一回です。紺はコツを掴みかけているんですよ。早く!」
「あ、ああ、わかった」
そうして、私達は何度か紺を立たせたる事を繰り返した。そして一時間ほど経った後、紺はシステム側の補助無しでアバターの筋肉に信号を流し、立つ状態を二秒ほど維持した。嬉しさのあまり、私はバランスを崩して倒れる紺の体を支えるのを忘れてしまい、紺はそのままバタンとうつ伏せに倒れてしまった。
「おいおい、美理仁!」
「ごめんよ、紺」
現実世界では抗議をするように紺が尾ひれで大きく水飛沫を上げていた。
「痛みはカットされるとはいえ、楽しい経験ではないと思うぞ」
「ああ、そうだ。宇田賀さん、現実世界の紺に魚あげてください。褒めないと」
「え?」
「早くしてください」
「お、おお、わかったよ。鹿島さーん、頼める? 魚あげて」
現実世界のプールの映像に、鹿島さんが魚を紺の口に放り込む様子が映し出される。私は、床に倒れている少女の紺を抱き起こした。
「おめでとう、良くやったね」
「ううぁ」
紺は私から目を逸らして唸った。その顔にまだ表情はなかったが、どこか不満そうに見えてしまい、私は「ごめん」と謝った。
私達はこの方法で紺に立つことを教えていった。脳からの信号に応じて自動で介入を弱めたり切ったりするように宇田賀がシステムを改良したことで効率は高まり、ついに紺は12月25日――偶然にも、クリスマス――の夜に、寝そべった状態から自らの力で立つことを覚えたのだった。二足の脚で立つという体験が紺の脳に与える影響は想像以上に大きかったらしく、そこからの進歩は随分早かった。
年が明け、2035年1月。
この頃には、紺はシステム側から介入しなくても自力で歩けるようになっていた。さらに、紺は首、手、口、舌などの動かし方も理解していった。
「むぃりぃ」
仮想世界で会うと、紺は片手をぎごちなく上げて私に向かってそんな声を発するようになっていた。「美理仁」と、私の名前を呼ぼうとしているのは明白だった。その姿を見て、私は自分が紺に挨拶をするときに右手を軽く上げて話しかけていることに初めて気がついた。紺は私の真似をしているのだ。
私は業務時間中、ほとんどずっと仮想世界に篭って紺に話しかけた。宇田賀と英さんは仮想世界内に紺が興味を示しそうな玩具や、幼児教育用の対話AIを設置した。すっかりフルダイブに慣れた紺は、昼間はずっと脳の片側で現実に、もう片側で仮想世界にいるような状態になっていた。どうやら彼女自身も楽しんでいるらしい。年末年始の休みがとっくに過ぎ去っていることに気がついたのは、一月も中旬になってからだった。
私は夢中だった。
紺が私を指さして「みりに」と言ったのは1月25日のことだった。喜ぶ私に向かって、鹿島さんは悔しそうに「ずるい!」と叫んだ。
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