第12話 実験

 2034年12月3日。

 展示会で私がアイデアを閃いてから約二ヶ月半後。準備が整った。


「それじゃ、今から十分後に予定通り始めます。皆さん、どうぞよろしくお願いします」


 マイクに向かって喋る宇田賀の声は、内容も声色もいつもより堅い。彼にも緊張というものがあるのだと思うと、あたりに漂う空気がより鋭くなった気がして、私はごくりと唾を飲んだ。

 実験用プールの横に増設されたフルダイブVRルームの窓から、私はゆっくり泳ぐ紺を見つめる。プールサイドには派遣された〈ムロメ・デンノウ〉の技術者や、緊急時に備える獣医、そして心配そうに紺を見つめる鹿島さんがいた。不安そうな鹿島さんと目が合わないように私は目を逸らし、室内の装置の方に向き直った。

 計画はこうだ。紺の脳の半球だけを仮想世界にフルダイブさせ、人のアバターに接続する。もう片方の半球はその間イルカの体を動かしているから、溺れることはない。その後、人間が同じ仮想世界にフルダイブし、人の体を得た紺とコミュニケーションを取って人の体を理解させながら、紺の中に人の知性を生み出す。これを繰り返すのだ。

 私達は当初予定していた脳活動と意思の相互変換モデル構築を諦め、この方法に賭けることにしたのだ。今日はその最初の実験が行われる。今日の結果次第で、この方法を続けて試すか、取り止めるかが決まることになる。それは〈ミカギテクノロジー〉が来年もあるかどうかが決まると言うのに等しかった。もう方向転換する余裕はなかった。

 部屋の中央には、九月の技術展のブースで見たものと同じ椅子が備え付けられていた。仮想世界で紺とコミュニケーションする役に選ばれた私がフルダイブするための装置である。社長の御鍵への説明と説得、資金の確保、〈ムロメ・デンノウ〉への協力の打診、機密保持などの各種契約、実験の計画、調整、装置のイルカ用への改造、そしてこのフルダイブVRルームの設置と、この二ヶ月は目の回るような忙しさだった。よく二ヶ月でここまで出来たものだと自分でも思う。技術的な作業はAIに頼れても、会社同士、人同士の調整はまだ人の仕事だ。宇田賀の人並外れた調整能力に感謝だ。

 私は、もうこの時点で世界が終わったって良かった。いや、むしろその方が幸せではとすら思っていた。未完の大作は、未完であるうちは傑作である可能性に希望を見出せる。この先の結末をいくら信じていたとしても、希望が現実に無残に砕かれる恐怖はどうしても拭えない。だったら、一番盛り上がるこの場所で、希望に満ちた今この場面で終わりたい。そう思ってしまうのは、私の心が弱いからだろうか。

 思考を整えようと、私は泳ぐ紺に視線を移した。頭の上には今まで付けていたBMIよりも一回り大きい装置が取り付けられている。イルカのフルダイブVR用BMIだ。今までつけていたBMIに慣れていたおかげか、嫌がることなくスムーズに付けてもらえた。イルカ脳への対応と、脳の半球だけでのフルダイブ機能の実装、耐衝撃、防水、海水対応、さらに低遅延のワイヤレス化が施された、最新技術の塊である。〈ムロメ・デンノウ〉とのライセンス契約のため、御鍵は都内に持っていた不動産を売ったらしい。

 紺が私に気がつき、立ち泳ぎでプールから体を半分出して胸びれをパタパタさせながら、キュウ、キュ……と鳴いた。ちょうどその時、宇田賀が私の後ろに来て静かに言った。


「三分前だ。美理仁、頼むぞ」


 振り返って私は言う。


「楽しみで仕方がないですよ」


 宇田賀はいつもの笑顔を浮かべる。


「はははっ、それは良かったぜ。ところでさ、前から聞きたかったんだけど」

「なんですか?」

「美理仁ってなんで美理仁って名前なんだ? 正直、変わった名前だよな」


 唐突な話題に、緊張をほぐそうとする優しさを感じ、私はたまらなく嬉しくなる。私の顔は自分の言葉とは裏腹に、かなり固かったのだろう。


「クロアチアにミリニって場所があるんです。観光地のドブロブニクの近くなんですけど、両親が新婚旅行で泊まった思い出の場所らしくて、それで私の名前が美理仁になったんですよ」

「へえ。ドブロブニクってアドリア海沿いだっけ? さぞ、良い場所なんだろうな」

「私は行ったことはないんです。でも、ドブロブニクよりもホテルが安かったから、そこに泊まったらしいですけどね」

「はははっ、そうか。でも行ってみたらすごく良かったから息子の名前にしたんだろ。もし〈ミカギテクノロジー〉の欧州支社を作るときは、そこにしような」


 宇田賀はパンパンと力強く私の肩を叩いた。私は笑い、無言で頷いて部屋の中央の椅子へ向かった。


 準備が整った。


 私より先に紺のフルダイブが始まった。紺の脳の右側だけを、仮想世界内の人間型アバターにフルダイブさせる。宇田賀の合図を受けて、プールサイドの〈ムロメ・デンノウ〉の技術者が装置を操作すると、紺は驚いたように頭を振りながらガリガリと鳴いた。だがプールサイドから鹿島さんが呼びかけると、すぐに何事もなかったようにプールの中を泳ぎ始めた。宇田賀がディスプレイに映るデータを見ながら言う。


「うん、うまく半球だけフルダイブできているみたいだ。シミュレーション通りだな」

「随分落ち着いているように見えますね」

「豪胆なイルカだよ。いや、『右側』はちょっと混乱しているような反応が見えるな……美理仁、早くお前が行って安心させてやれ」

「早くしましょう」


 私はリクライニングした椅子に寝そべり、頭をヘッドレストに組み込まれたBMIに当てた。〈ムロメ・デンノウ〉の技術者がそこからつながる装置を操作すると、体の中にピリピリした感覚が走り、私は仮想世界へと落ちていった。

 目を開けると、そこは学校の教室ほどの広さの殺風景な部屋だった。壁はまだテクスチャーを用意していなかったので、四角い格子模様が描かれている。床は全面灰色のカーペットのような質感で柔らかく、少し足が沈み込む感覚があった。

 そして、床にはうつ伏せの少女が倒れていた。紺だ。

 はやる気持ちを抑え、私は自らの手を見つめる。それは確かに私の手だった。フルダイブさせた紺とコミュニケーションをする人間のアバターは現実世界で見慣れている人間の外観にするべきだ。そこで、最初は鹿島さんの外観を使おうという話だったのだが、彼女は「セクハラで訴えますよ」と言って全力で拒否したため、私のアバターが作られることになった。細かな体毛や皺が無かったりしたものの、体を実際に測定して作られたアバターは見事に私だった。仮想の世界で、私は仮想の自分を纏っていた。

 ひとしきり自分の体の動きと感覚を確かめた後、私は倒れている少女に歩み寄った。紺がフルダイブしたアバターは十代半ばくらいの少女のデザインだ。青いワンピース姿の少女は、まさに陸に打ち上げられたイルカのように床にうつ伏せになってモゾモゾと身を捩るように動かしていた。私は膝をついて屈み、彼女が驚かないようにそっと声をかけた。


「紺、聞こえるかい?」


 現実世界より少しつるっとした仮想の声が、仮想の喉から発せられる。床の少女は、私の声を聞いてゆっくりと頭を上げた。目の焦点はあっておらず、口はだらしなく開かれていたが、その瞬間、私は心を奪われた。

 仮想の体に繋がった私の脳が感情の処理を試みる。自らの内で言語化し、なんとか感情を消化しようと試みる。

 やっと会えた。出会ってしまった。愛しくて、恐ろしい。守らなければ。導かなければならない。課題は山積み。でも楽しい。嬉しい。興味深い結果が出ている。可愛いな。そして少しだけ、憎い。

 ここにいるのはなんだ? 君はなんだ? イルカだ。私の娘。それはおこがましい。じゃあ恋人。いや友人、単なる同僚だ。そして私の、私達の願望。好奇心。冷静に見れば実験動物。地球外生命体。生命体ではないのかもしれない。好奇心の犠牲者。そんなことはない。ここにいるのは空からやってきた天使、もしくは神。アイドル。いや、私は落ち着くべきだ。哺乳類、のように見える、少なくとも生き物。

 目の前にいる表情筋の使い方もわからない少女に、私は存在を感じ、心が動いた。そんな私が存在する。デカルトではないけれど、これだけは確実だ。今はそれで良いとしよう。

 私は思考の世界から仮想の体へと意識を戻した。紺と私の入っているアバターは人間の体の構造を可能な限り再現した特別なものだ。紺の目に映る私の姿は仮想の角膜から仮想の網膜を通し、視覚情報として本物の紺の脳に伝わっている。初めて人の眼球を通して見る世界だろう。そこに映るのが私であることに、少しの優越感を覚える。


「ぉあぁ……」


 仮想世界の少女の紺の口から、声が漏れた。それは呻き声に近かった。


「紺、私だよ。美理仁だ」

「あぉあ……」


 喉の声帯を震わせて口から発声するのは初めてのはずだ。むしろ呻き声のようなものを発していることが驚きだ。素晴らしい。

 その時、恍惚としていた私の意識に宇田賀の声が割り込んだ。紺を刺激しないように私にだけ聞こえる設定にしていた。


「美理仁、大丈夫か?」

「あ、ええ、大丈夫です。こっちの状況はわかりますか?」

「みんなディスプレイに釘付けだよ。今、紺ちゃんの右脳では現実世界で美理仁を見た時に近い反応が確認されている。視覚はちゃんと機能して、脳で認識しているみたいだぞ。右脳しか繋がっていないから左目しか見えてないはずだが、その検証はまた今度にしよう」

「イルカの紺はどうなっていますか?」

「ああ、立ち泳ぎをしながらこの部屋を見ているよ。器用だな。暴れるとか、おかしな挙動はしていない」

「なるほど。思った以上に正確に状況を認識しているみたいですね。宇田賀さん、こっちに鏡を出せますか?」

「お、いきなりそこまでやる? わかった」


 仮想世界の部屋の中にどこからともなく鏡が現れた。私はその鏡を手に取り、紺の前に置いた。個体にもよるが、大抵のイルカは鏡に映る自分を自分だと認識できる。紺も容易く鏡を理解した。今鏡を見せれば、紺はきっと認識できるはずだ――自分が今、人なのだと。

 鏡に映る少女の姿を見た紺は「ぉああ!」と大きな声を上げ、寝そべったまま手をぱたぱたと動かした。紺は鏡の中を見ながら、しばらく手を動かしたり止めたりを繰り返した。再び、宇田賀の声がした。


「美理仁、紺ちゃんの右脳が興奮状態だ。まあ、許容範囲だけどな。新しいおもちゃをあげた時に近いかな。今日はこの辺にして休ませよう。最初にしてはもう十分な成果だ。というか、美理仁のバイタルの方がもっと大暴れだぞ。落ち着けよ。お前がそんなに大胆な奴だとは思わなかったぜ」

「……わかりました」


 そう言いながら、私はそっと紺の指先に触れた。びくりと紺が身を震わせた。


「じゃね、向こうでまた」

「あぉわ……」


 紺は寝そべったまま、先に仮想世界から消えていった。まもなく私も現実世界へと戻った。


 現実では、宇田賀や英さん、いつの間にか来ていた御鍵や〈ムロメ・デンノウ〉の技術者達が騒がしく会話をしていた。皆、自分達の見たものについて近くにいる人間と意見を交わしたくて仕方ないという様子だ。


「お疲れ!」


 私が身を起こしたのに気がついた宇田賀が近づいてきて、ニッと笑って右手をスッと上げた。私は椅子の上に座ったまま、宇田賀の手を勢いよくパンと叩いた。冬だというのに、私は汗だくだった。


「紺ちゃんの脳の半球だけを仮想世界にフルダイブさせることに成功した。これがさっき起こった事実だ。それ以上でも、それ以下でもない。今のところはな」

「一歩、踏み出しましたね」


 私は初めて、自分の意思で何かをしたと感じていた。私の言葉に宇田賀はいつもの笑い声をあげる。


「はははっ、謙虚だな。そうだ、目的は宇宙イルカと会話して、宇宙の謎に迫ること。これは手段だ。でも、面白くなってきたな」

「ええ、楽しいです。あなたのおかげです」

「みんなの、だろ」


 どこかで聞いたような芝居がかったやり取りに、私は照れ臭くなって目をそらす。


「……ありがとうございます。えっと、紺は大丈夫ですか?」


 私は椅子から降り、フルダイブVRルームの窓から実験用プールを覗いた。するとプールの中から紺が顔を出し、立ち泳ぎをして私の方を見てキュッキュウ! と元気に鳴いた。私が部屋を出てプールサイドに行くと、紺が近寄ってきて私の手に吻でタッチし、私はついさっき仮想世界内で触れた少女の指先を思い出した。その時、背後から鹿島さんの声がした。


「お疲れ様です、旭さん。うまく行った……ってことでいいんですよね?」


 私は振り返り、自分でも驚くことにしっかりと鹿島さんの顔を見て、そしてはっきりとした口調で言った。


「鹿島さん、お疲れ様です。はい。あなたがプールサイドにいたから、紺が安心していたんだと思います。ありがとうございます」

「あ……いえ、そんな、こちらこそ……ありがとうございます」


 鹿島さんは戸惑うようにペコリと頭を下げた。紺は頭だけを水面から出し、大人しく私達を見つめていた。やがて鹿島さんが俯いて、小さな声で言った。


「すみません。私、絶対失敗すると思ってたんです。いいえ、むしろ失敗しちゃえばいいのにって思ってました。そしたらみんな、大人しく諦めてくれるじゃないですか」

「……」


 私がその言葉に顔を顰めたり、下手な反論をしたりしなかったのは、今日の実験の結果に希望を持っていたからだろうか、それともただ単に、疲れていたからだろうか。鹿島さんが続けた。


「でもみんなすごく頑張ってて。旭さんなんて、最近はまるで別人みたいでした。今日の実験、凄かったです。気のせいかもしれないけど、紺ちゃんもなんだか楽しそうでしたよ。イルカが女の子の姿になるなんて、魔法みたいですね」


 私は少し迷ってから答えた。


「十分に発達した科学は魔法と見分けが付かない、と言いますからね」

「ふふっ、クラークでしたっけ? カッコつけないでくださいよ」


 私は鹿島さんの苦笑い以外の笑顔を初めて見た気がした。きっと、私が今まで彼女の顔をしっかり見ていなかっただけなのだろう。


「これからも頑張りましょうね。私もお手伝いします」


 私にそう言って、鹿島さんは「じゃあね」と紺に軽く手を振り、プール棟から出て行った。周囲に残った少し甘い匂いを感じながら、私は紺に向かって言った。


「あの人、良い人だね」


 紺はミアャーと鳴いた。初めて聞いた鳴音だった。

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