第9話 難航

 2034年8月4日。

 聴覚域のバックグラウンドに涼しげな波音に加えて蝉の声が常駐するようになり、夏の日差しとコンピューターからの排熱による室温の上昇に対抗するために、開発室の中ではエアコンと扇風機が全力で仕事をしていた。サーバールームの空調もフル稼働だ。持続可能性が叫ばれて久しいこの時代に、私達は盛大にエネルギーを消費しながら、宇宙イルカと会話しようとしていた。

 当たり前というべきか、私達の開発は難航していた。難航していたけれども、宇田賀はそれに絶望したりせず、むしろ先が見えないことを楽しんでいるような様子だった。

 私は以前の会社でも研究開発に携わっていたが、未知のものを研究している私に対して上司達はいつも「見通し」を尋ねたものだ。今思えば、彼らは安心したかったのだろう。未知で不安定なことが不安で仕方ないのだ。組織で研究するには上司と、またその上の上司達を安心させるべきなのだと当時の私は理解し、もっともらしい計画を必死に説明していた。それが間違っていたとは思わない。彼らには、予算や部下の成果を承認出来るもっともらしい理由が必要なのだ。先が見える道を、みんなで歩く安心。それは善であり、物事はそう進むべきであると、私も当時はそう思っていた。


「はははっ、さっぱりうまくいかないなぁ。さて楽しくなってきたぞ」


 宇田賀はそう言って楽しそうに笑った。諦めているわけでも、強がりを言っているわけでもなく、本当に楽しそうに笑う。私の脳内で、宇田賀の笑顔に釣られてエンドルフィンが分泌される。それで良い気がしてくる。


「どうしてうまくいかないと思う?」


 宇田賀が私と英さんに尋ねた。英さんは手に持ったうちわで自分の顔をふわり、ふわりと仰ぎながら「うーん」と唸り、チラリと私の方を見た。私は口を開く。


「脳のデータをいくら取っても、それに対応する紺の意思の解釈を推測に頼るしかないから、じゃないでしょうか?」


 英さんが首を傾げる。


「ええっと……旭君、ごめん、どういうことかなぁ?」


 宇田賀が扇子を素早くパタパタパタと動かしながら言う。


「英さん、つまり紺が喋れないからうまくいかない、ってことさ。人間の場合は喋れるから、脳波に対応する意思の答え合わせができるだろ。あなたはどう感じましたか? って聞けば良いのだから。作ったモデルの精度も検証できる。だけど、イルカの場合は全部推測になってしまう。多分喜んでいるんだろうな、とかくらいはなんとなくわかるけどな」

「ははあ……じゃあまずはイルカと喋れるようにしなきゃねぇ」


 呑気な英さんの言葉に、宇田賀はにっこりと笑う。


「そう、最初に戻っちゃうんだな。さて、どうしようか」

「やっぱり、紺以外からもデータを取るべきでしょうかね」

「ええ、お金無くなっちゃうよぉ」

「学習データの処理方法ちょっと変えるか? だったらこうしたら……」


 ここ最近はずっとこんな調子だった。アイデアが出るたび、宇田賀がものすごいスピードでそれに対応する。そしてうまくいかない。「うまくいかないことがわかった、というのは前進だ」と宇田賀は笑うが、やがて開発室の中では議論の声よりも呻き声が響くことが多くなってきた。最近蝉の声が一段とうるさくなった気がするのは、暑さのせいだけではないだろう。


「紺の様子を見てきます」


 私が立ち上がると、汗がたらりと頬を伝った。宇田賀が笑って私に言った。


「はははっ、プールで涼む気だな。じゃあ鹿島さんにも意見を聞いてみてくれ」

「はい」

「あ、そうだ」


 ウエットスーツを持って開発室を出て行こうとした私を、宇田賀が呼び止める。


「気分転換に今夜、みんなで飯でも食いに行こうぜ。鹿島さんも誘ってみてくれ」

「……わかりました」


 プールの涼しさに引き寄せられながらも、私の脚は少し重くなる。開発室の扉を開けた途端、外の湿った熱気に包囲されて一気に汗が吹き出した。私の脚は感情を無視してプール棟へと急いだ。


 実験用プールの中は紺のために快適な温度に調整されている。サーバールームでウェットスーツに着替えた私が室内に入ると、プールサイドに座っていた鹿島さんが振り返った。水が滴る濡れた髪に無意識に視線が吸い寄せられ、私はそれを誤魔化すように窓から見える白い雲を見上げて言った。


「暑いですね」

「あ、旭さん。お疲れ様です。まあ、そりゃ夏ですからね」

「はい」


 その後の気まずい沈黙を、プールから頭を出した紺が断ち切る。紺は私を見ると、ナワァーと少し低い音で鳴いた。イルカの鳴き声というとキューキューという高い音を思い浮かべるが、たまにまるで猫や小型犬のような音で鳴いたりもする。紺は人によってその日最初に会った時の鳴音が違うのだが、最近の私は「ナワァー」らしい。ガリガリ、ギリギリ……と鳴かれるよりはなんとなく友好的な気がするが、それが果たして私の名前を呼んでいるのか、あいさつなのか、それとも何か別の感情なのかはわからない。でも、なんだか嬉しかった。


「暑いね、紺」


 紺は返事をするようにキュウ、キュッ……と鳴いてから、私に近づいてきた。私が出した手に吻でタッチをすると、もう用事は済んだ、とばかりに背びれを見せてポチャンとプールの中に潜ってしまった。それを見て、鹿島さんが立ち上がる。


「あらら。よし、私と遊ぼうか、紺ちゃん」


 鹿島さんがピッとホイッスルを吹くと、紺が水面に頭を出した。


「このマークが書いてあるボールにタッチしてみようか。これだよ」


 鹿島さんが傍に抱えていた三角形の書かれた発泡スチロールのボードを紺に見せると、紺は頭を縦に振りながらキュッ! と鳴いた。再び鹿島さんがホイッスルを吹くと、それを合図に紺は勢いよく水中に潜る。実験用プールの上には三つのボールが高さを変えて吊るされており、それぞれに四角形、三角形、丸のマークが付いている。やがてバシャ! と勢いよく水面を突き破って紺が飛び上がり、三角形のマークが付いたボールにタッチした。

 普通のイルカも図形を見分け、出された指示を理解し、それを覚えて行動できる。地球のイルカ達だってこのくらいは前世紀から水族館でやってきた。宇宙イルカも地球のイルカと同じようなトレーニングをすることで、同じようなパフォーマンスを見せてくれた。紺は特に飲み込みが早く、鹿島さんに教えられるとなんでもすぐに覚えた。宇宙イルカに芸を披露させる予定はなかったが、脳のデータを取るために教えていたのだ。

 飛び上がった紺が着水して大きな水飛沫が上がり、私や鹿島さんに水がかかる。涼しさがこの季節には嬉しかった。


「あはは! 紺ちゃん、わざと水かけたね。暑いって言っていたのわかったのかな?」


 嬉しそうに笑う鹿島さんの前に、紺がひょっこりと顔を出して口を開ける。鹿島さんがバケツから魚を放ると、紺はそれをパクリと飲み込み、キュゥ! と鳴いた。

 水が滴る髪を整える鹿島さんの横顔に見惚れてしまい、私は急いで目をそらす。鹿島さんが私に尋ねた。


「順調ですか?」

「あ、ええと……正直、難航しています」

「まあ、そうでしょうね」


 私の顔につい感情が出ていたのだろう。鹿島さんが私に向き直って言う。


「すみません。紺ちゃんは確かに頭が良いですし、もし話ができたら素敵だと私も思います。皆さんも頑張っているのは知っています。でも、ね。ちょっと難しいんじゃないですか」


 鹿島さんの言っていることは正しい。だけど……私は震える心を抑えて口を開く。


「まだわかりませんよ。未知のことですから」

「そうですか。でも、いつまでやるんですか? もったいないですよ。お金も、時間も。皆さん、頭も良いんだから、こんなことをしていないで、もっとまともな仕事をした方が良いんじゃないかなって……」


 まともな意見だ。それが最適解。そうするべき。だが、私の口は別のことを言う。ちょっとした反抗。


「私は、これで良いんです。これがやりたいんです」


 鹿島さんは私を意外そうな顔で見て言った。


「ふーん……なら良かったです。余計なお世話でした。勝手なこと言ってすみません」


 鹿島さんは私の目を見ずにそう言うと、出口に向かって早足で歩き出した。その時、私は宇田賀に言われたことを思い出した。


「あ、あの、今夜食事に行きませんか? 一緒に」

「はあ? なんです、いきなり」


 振り返った鹿島さんはわかりやすく眉を顰めていた。


「いや、あの、みんなで。宇田賀さんが……」

「ああ……そういうこと。びっくりした。遠慮しておきます。今夜は用事があるので」

「あ……そうですか」


 スタスタといつも以上の早足で去っていく鹿島さんの背中を見送ってから、私は一人プールサイドに腰掛けた。紺が静かにやってきて、私を見つめた。


「難しいな、色々と」


 思わず口に出た呟きに対して、紺はキュ……と短く鳴いて、私に軽く水をかけて潜っていった。

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