第8話 遊び心

 2034年6月21日。

 紺が来てから、私は水族館の見習い飼育員のような日々を過ごしていた。ウエットスーツや深いプールにも慣れてきた六月の珍しく晴れたある日の午後、社長の御鍵が久しぶりに東京ラボに現れた。ドイツ製のステーションワゴンでプレハブ小屋の前に乗りつけた御鍵は、荷室から恭しく黒い大きなケースを取り出した。開発室のデスクの上に置かれたそれを見て、宇田賀が新しいおもちゃをもらった子供のように目を輝かせる。


「おお! ついにあれが届いたのか? 待っていたぜ」

「はい。予定より一ヶ月も遅れましたよ。その割に代金はきっちり取られましたが」

「社長、なんですか、これ?」

 首を傾げる私に、宇田賀がニッと笑って答える。

「こいつは、紺ちゃん用のBMIだ」


 革張りの黒いケースを開くと、光沢の無いグレーの王冠のようなものがピッタリとウレタンの緩衝材の中に収まっていた。鹿島さんが悲鳴に近い声を上げる。


「えーっ、そんなもの紺ちゃんに付けるんですか? 大丈夫なんですよね?」


 それを聞いて御鍵がムスッとした顔を浮かべた。


「鹿島君、そんなものとはひどいですね。私のコネでアメリカの企業に作ってもらった特別製なんですよ。都内のマンションの下の方なら買える費用がかかったんですからね」

「へえー、なんだかすごいねぇ。うっ、イタタ」


 英さんが腰を押さえながら装置を覗き込む輪に加わった。私が「なぜ国内で作らないんですか?」と疑問を口にすると、宇田賀が鼻息を荒くして答えた。


「作れないんだよ。特殊なナノテクノロジー材料と高性能AI制御の加工装置がいるから、作れるのはアメリカだけなんだ。だから価格も高いのさ」

「ああ、なるほど。日本は産業用AIの国産化は失敗しましたからね」

「ま、今からじゃ追いつけないぜ。先に出せばみんなが使ってデータも集まってより高性能になるから――」


 宇田賀は顔を顰めたままの鹿島さんに気が付き、私との会話を中断して言った。


「鹿島さん、大丈夫だよ。このBMIは非侵襲性……つまり、頭に穴開けたりしなくても使えるやつだから。それに、紺ちゃんが嫌がったらすぐに外すよ」

「はあ? 当たり前ですよ! 宇田賀さんが取り付けてくれるんですか?」

「へ? 無理だよ、だって俺泳げないもん。そうだ、鹿島さん、今度泳ぎ教えてよ」


 鹿島さんは呆れて肩をすくめる。


「はいはい、知ってます。しょうがないな、私が付けますよ。でも、壊しても紺ちゃんや私のせいにしないでくださいよ」

「大丈夫。こいつは完全防水な上に、軍用規格の耐衝撃性、そして軽量さを兼ね備えているんだからな。だよな、社長」

「はい、その通りです。ちゃんと海水にも対応しています。まあ、もし壊れてもまた作りますよ。予備も来週届くし、安心してください」


 それを聞いて、鹿島さんは全く安心したようには見えない顔を浮かべた。

「ええ……お給料はちゃんと払ってくださいよ」

「はははっ、そこは社長が頑張るってさ。さあて、俺達もそろそろ本格的に仕事をしないとな。英さん、美理仁、楽しみだな」


 宇田賀はポンと私と英さんの肩を叩いた。英さんには優しく、私の方はかなり力強く。


「申請していた情報処理用AIの運用許可も降りたし、これから忙しくなるぞ」


 そう、私は水族館の職員になったのではないのだ。


 その日の夜、夕方から降り出した雨音がうるさく響く開発室には、私と宇田賀の二人だけが残っていた。

 宇田賀のコンピューターのディスプレイを見て、私は彼が社交性だけの男ではないことを知った。ディスプレイには3DCGで紺の脳が表示され、活性化している部位がわかりやすく色分けされてリアルタイムの映像でわかるようになっていた。その横では滝のように数値がスクロールし、計測結果が随時記録されている。今日届いたばかりのイルカ用BMIに合わせて、宇田賀は独自の計測用ソフトを一人で作成してしまったのだ。最近はプログラミングもAI補助でだいぶ楽になったが、ここまで見た目を含めて整ったものを短時間で作るのは普通、無理だ。


「どうだ、かっこいいだろ。ユーザーインターフェースのかっこよさは重要だぞ」


 得意げな顔を浮かべる宇田賀の言う通り、画面のデザインや文字のフォントには彼のこだわりや趣味が詰まっていた。


「ええと、確かにかっこいいですけど……別にこの計測ソフトを売るわけじゃないですよね? 無駄なんじゃないのですか?」


 それを聞いた宇田賀は人差し指を立て、私に突きつけて横に振る。


「ちっちっちっ。そんなこと考えていたら楽しくないだろ。無駄を省いた合理的な仕事は、そういうことが求められる人達に任せておけば良いんだよ。そもそも動けば良いものを作るだけならAIに任せれば良いんだから。だけど俺達は、今から新しくて面白いことを成し遂げようとしているんだぜ。それなのに、我慢してつまらないことを積み重ねたって、結果的につまらないことしか生まれないさ。そう思わないか?」

「なるほど……」


 AIに置き換えられないスキル。その一つは遊び心かもしれないと少し納得してしまう私。


「宇田賀さん、その通りです。そうするべきでした」

「はははっ、そんなにかしこまらなくて良いよ。俺はそう思う、ってだけで、押し付けるつもりはないんだ。ま、だからって格好だけで中身が無いんじゃダメだけどな。さあ、試しに紺ちゃんに話しかけてみてくれよ。どう変化するか見てみたい」

「ええ、そうしましょう。私も気になります」


 私と宇田賀はプレハブ小屋を出て、傘を刺してプール棟へと向かった。雨音の反響する実験用プールの部屋に入ると、水中から紺が顔を出し、体を横にして私と宇田賀を見ながらキュッ、キュウ……と鳴いた。その頭の上にちょこんとBMIが取り付けられているのを見て、宇田賀は満足そうに頷く。


「うん、うん。ちゃんと付いているな。偉いな、紺ちゃん」

「大人しく付けてくれて良かったですね。やっぱり、普通のより賢いのかな」

「ま、取り付けた鹿島さんを信頼しているんだろ。危険な事はしないって」

「私だったら嫌がって壊されているかも知れません」

「はははっ、別に美理仁だって嫌われているようには見えないけどな。よーし、紺ちゃん、良い子だねー」


 宇田賀が腕を伸ばすと、紺はスッと近づき細長い口先――正しくはふんという部位だ――で宇田賀の手の平に触れ、キュイ、キュイ……と高く鳴いた。普段食事をあげている私よりも懐かれている気がして、少しだけ悔しかった。


「よしよし。女の子なんだから、もっと可愛い色にしてくれれば良いのにねー、ピンクとかさ」

「宇田賀さん、測定結果を見るんじゃないんですか?」

「ん、ああ、そうだな。どれどれ」


 宇田賀は脇に抱えていたタブレットを操作し、画面を私に向けて掲げた。そこには開発室のコンピューターのディスプレイと同じものが映し出されていた。


「へへへっ、画面をリアルタイムでタブレットに転送するようにしたんだ。便利だろ」

「短期間でそんな機能まで……すごいですね」

「これは簡単だぜ。美理仁もやろうと思えばすぐ出来るよ」


 私は少し迷ってから、宇田賀に言った。


「じゃ、じゃあ、今度やり方教えてください。私も、出来るようになりたいです」

「えー、面倒だな……なんてな、嘘だよ。俺のコード見せるからまず自分でやってみなよ。それでわからないところは聞いてくれ。美理仁だったら、そのほうがよく分かると思うぞ。AI使ってもいいけど、自分でわかってた方が面白いだろ?」


 宇田賀はそう言ってニッと笑った。美理仁だったら――その言葉に私の心は動かされる。彼のコミュニケーション技術の一つなのだろう。そう感じる理性と並行して、私の表情筋はまんまと笑顔を作った。


「はい、ありがとうございます」

「さあ、試しに紺ちゃんを喜ばせて脳の反応を見てみようぜ。魚あげてみるか?」


 私が頷いてバケツを持つと、紺はすぐさま私の前にやって来て口を開けた。明るいピンク色の舌に、口の中に点々と並ぶ白い歯。最初はギョッとしたものだが、もう慣れた。私が魚を放ると、紺はそれを飲み込み、ピュイッと鳴いた。


「おお、美理仁、脳が反応しているぞ。バッチリだ」

「え、私にも見せてくださいよ」

「ダメ。紺ちゃんの興味が逸れるだろ。もう一回魚あげてみてくれ。同じ反応かどうか見たい、再現性の確認だ」

「後で交代してくださいね」


 この時の私の脳波を計測したら、喜び、希望、興奮、親しみ、そんな感情で満たされていた事だろう。私と宇田賀は新しい遊びに夢中になって帰宅時間を忘れる子供のように、BMIのテストを繰り返した。紺が飽きてしまうまで、それは続いた。

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