第7話 居酒屋と幼馴染
「はあ……」
居酒屋で大きなため息をつく私。向かいの席に座った曽理音は、いつものように余裕のある雰囲気でウイスキーのグラスを傾ける。しばらく転職や引っ越しなどでバタバタしていたから、こうして曽理音と飲むのは転職してからは初めてだった。転職で悩みが解消したはずの私は、相変わらずため息を吐いていた。曽理音が笑って言う。
「まったく、よく考えずに転職なんてするからだぞ。今どき宇宙イルカなんて、まともな会社じゃないってわかるだろ?」
「だってなあ……」
「確かに小さくて新しい会社なら、AIに置き換えられないような濃い経験が積めるかもしれない。だが、人が少ない分、人間関係も濃い。そんな会社に集まる時点で癖がある人が多いさ。だから話を聞いた時は心配してたんだよ、正直」
私は口の中の鳥つくねを飲み込み、言った。
「別に悪い人達じゃないんだけどさ。宇田賀さんはすごい人だと思うし。たまに、というかいつも子供みたいだけど。英さんは優しいよ。会社で何してるのかわからないし、すぐ腰が痛いって言うけど。鹿島さんは……何というか、もう少し言い方ってものを考えてほしいと思う」
「はは、楽しそうな職場じゃないか。お前もその愉快な仲間達の一員なんだぞ。かわいい宇宙イルカもいて、いいなあ!」
曽理音は赤い顔で笑った。今日はいつもより飲むペースが早い気がした。
「でも実際、驚いたよ。お前が本当に転職するとはな。口だけだと思っていたよ、正直な」
「……そうか。でも、確かに少し後悔はしているんだ。宇宙イルカはようやく来たけど、こんな調子で成果が出るのか……わかってはいたけど、成果が出なければ会社が無くなるんだ。大企業はそういうところは気楽だったよ」
「ま、今はそうも言っていられないけどな。はあ、俺も転職しようかな」
次の飲み物を注文しようしていた私は、曽理音の言葉に驚いて注文用タブレットから顔を上げた。曽理音は氷だけになったグラスを傾けながら、言った。
「はは、言ってみただけだ。このご時世だ、そのうち嫌でも転職するはめになるかもしれないしな。その時は、一緒に何かやろうぜ」
「ああ……」
周りの喧騒が大きくなった気がした。私はロボットに運ばれてきた自分の注文したクーニャンを受け取る。曽理音が追加のウィスキーを注文してから言う。
「しかし、宇宙イルカねえ。優秀な学者が集まって調べても、何もわからなかったんだろ? それを今更……お前、本当にそれがやりたかったのか?」
「……そうだよ。楽しそうだと思って」
「楽しそう?」
曽理音がしょうがないやつだ、とでも言いたそうな笑みを浮かべる。今日はなぜだかそれが少し嫌だった。
「やっぱり、転職決める前に俺に相談するべきだったぞ。やりたいことと、出来ることは違う。それがわからないわけじゃないだろ?」
「そうだけど……」
「よく考えて、周りに相談して、その会社のこともよく調べてから決めるべきだったな。手段と目的が入れ替わっている。小さい会社なら良いってもんじゃない。絶対に、誰一人そのミカギ何ちゃらって会社に入るべきだ、なんて言わないぞ。お前には向いてない。はっきり言って、すぐにでも辞めるべきだ」
頭の中で曽理音の言葉に同意しつつも、また別のところで鹿島さんに言われたことを思い起こす。
――「何々するべき」が多いですね。自分の意思ってないんですか?
私にだって、自分の意思はある。そうだ、私はいつだってどこかで後悔していたんだ。だから、今回はやり遂げたい。
「俺が、やりたいって決めたんだ。別にいいだろ!」
私の口調は自分が思った以上に怒りの感情を含んでしまった。曽理音は目を見開き、私を見て数秒、固まった。自分の心臓がドキドキと脈打つのがわかる。やがて、曽理音はグラスをテーブルに置き、笑みを浮かべて言った。
「はは、そうか。悪かったよ。ごめんな。新しい職場を貶すようなことを言って。すまなかった」
「あ、いや、その……曽理音が言ったことは間違ってはいないと思う……本当はそれが正解なんだと思う……けど」
「いいと思うぞ。そんなにやりたいなら、頑張ってくれ。今みたいな調子で、もっと積極的にやれよ」
「あ、ありがとう……」
ロボットが運んできた新しいウィスキーのグラスを受け取って、曽理音はグッとそれを飲み干した。見ているこっちが不安になる。
「おい、飲み過ぎじゃないか?」
曽理音は赤い顔でニヤリと笑って答える。
「いいんだよ。今日は気分がいいんだ。さて、じゃあお前が鹿島さんって人をどう口説くかについて話し合おうか」
「はあ? そんなつもりはないよ」
「写真とかないのか? 今度撮って送れよ」
「高校生かよ」
その日は久しぶりに曽理音と遅くまで飲んだ。私も慣れない環境でストレスが溜まっていたのだろう。思った以上に飲み過ぎてしまい、翌日は学生時代以来の激しい二日酔いに苦しんだ。
私が曽理音と出会ったのは、小学二年生の時だ。転校してきて知り合いも友達もいなかった私に最初に声をかけてくれたのが、曽理音だった。
たまたま家が近かったということもあり、私達はよく遊ぶようになった。曽理音は小さい頃から余裕のある男だった。頭が良く、運動も得意だし、友達も多かった。
一方の私は運動音痴で、引っ込み思案で、一人で本を読んでいるのが好きな子供だった。私は、同い年の友人である曽理音に憧れた。あんなふうになりたいと思った。
せめて勉強では同じレベルになりたいと思い、必死に勉強した。おかげで小学校の頃は曽理音と並んでテストではほとんど満点だった。体育の授業では惨めな思いをしながら曽理音を眺めるだけだった私も、勉強では隣にいられる気がした。
中学になって、曽理音は吹奏楽部に入った。曽理音は幼い頃からピアノをやっていたが、私は楽譜を読むことも出来なかったから、同じ部活には入らなかった。私が入ったのはパソコン部だった。
コンピューターは良い。正解がわかりやすい。書いたコードが正解ならきちんと動くし、間違っていればエラーメッセージが出る。私は、ほぼゲーム部と化していたそのパソコン部で一人プログラミングをして楽しんでいた。だが、そのパソコン部は私が中学二年生になった時に廃部になってしまった。
どうしようか迷っていた私に、曽理音が言った。
「部活はやっておくべきだ。受験や、後の就職に有利になるからな。お前も吹奏楽部に入らないか? お前なら、すぐ楽譜も読めるようになるさ」
「曽理音が言うなら、そうしてみようかな?」
曽理音に連れられて音楽室に行き、演奏を見学した。楽しそうだと思った。ちょうど、新一年生の見学者向けに楽器の紹介をしていた。初めて見る綺麗な楽器達。私が興味を持ったのはオーボエという楽器だった。特に音色が気に入ったのだ。
「俺、オーボエがやりたいな」
私の希望に、曽理音は笑みを浮かべてこう答えた。
「オーボエ? 難しいぞ。ギネスブックに載っている世界一難しい楽器が何か知っているか? 金管楽器がホルン、木管楽器がオーボエだ」
「そうなの?」
「ダブルリードは大変だ。それに、オーボエはソロを吹く機会も多い。正直、美理仁には向いてないよ。楽器も高いしな。それより、俺と一緒にサックスをやろうぜ。アルトサックスのセカンドが空いてる。楽器も学校のやつがあるぞ」
私はその時、それが正解なんだな、と思った。
「わかった、そうするよ」
私は吹奏楽部に入部した。楽譜は読めるようになったし、曽理音と一緒に演奏できるのは楽しかった。三年生が引退してからパートリーダーになった曽理音と一緒に、私は必死に練習してコンクールにも出場した。コンクールは地区大会より先には進めなかったが、それなりに充実した部活動だった。
高校は曽理音とは別だった。曽理音は私立だったが、私の家にはそんなお金はなかった。それでも、勉強だけは苦手ではなかった私は地元では進学校として知られる公立の高校に入ることができた。学校のテストは正解があるからわかりやすい。
受験合格後に会った私と曽理音は、高校の部活について話した。
「曽理音は、高校でも吹奏楽やるの? 曽理音の行く学校はマーチングが強いよね」
「うーん、俺は運動部の経験もするべきだと思うから、テニス部にしようかと思ってる」
「そうなのか……」
「美理仁はどうするんだ? お前の高校、コンクールは全国大会の常連だろ? 大変だぞ。勉強も大変だろうし、両立は厳しいんじゃないか?」
「そうかな? 俺は、コンクールで全国に行きたいよ。できればオーボエで」
そう言った私に、曽理音はしょうがないなと言いたそうな顔で答えた。
「それはやめた方がいいぞ。高校で楽器変えて、あの学校のコンクールメンバーは無理だろ。それに、別に音大行くとかじゃないんだろ? 勉強か部活かどちらかに集中するべきじゃないか?」
「そうか……そうだね」
曽理音の言うことが正解だと思った。私は、高校では部活に入らずに勉強に集中した。進学校の勉強はとても大変だったが、おかげでなんとか付いていくことができた。
だた、後に自分の学校の吹奏楽部が全国大会で金賞を取り、テレビで紹介されているのを見た時、私の腕はブルブルと震えていた。すぐにテレビを消した。見ていられなかった。
その後は就職に有利そうな国立大学の工学部に進学して、誰もが知る大企業に就職した。そうやって、自分が取れる最適解を選んできた。決めたのは自分だ。誰かに強制されていたわけではない。
だけど、どこかでずっと不満だった。
私は、やっぱりオーボエが吹きたかったのだと思う。
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