第6話 合わない人

 2034年6月。

 宇宙イルカは地球の生物ではなく、死んだら塵になってしまうので海洋資源でもない。そもそも生き物かどうかもよくわからないため、明確な扱いが定まっていない。日本では研究用途に限って捕獲と飼育が認められていたが、許可を得るための明確な窓口は明らかにされておらず――本当はそんなものは決まっていないのかもしれない――当初はどうやったら手に入るか全く不明だった。太平洋沿岸に行くとひょっこり顔を出してこちらを見ていたりするのだが、合法的な企業活動として研究したいのだから勝手に捕まえると後が面倒だ。そんな私達が紺を手に入れられたのは、宇田賀のおかげだった。海洋学者やら生物学者やらが集まる学会になんのツテもないのに出かけて行ったかと思うと、あっという間に友人をたくさん作り、学会後の懇親会にもなぜか参加して、次の日には紺を入手する手筈を整えていたのだという。元水族館勤務である鹿島さんも、宇田賀がどこからか連れてきたのだ。


 私のように大企業にいた人間は、会社の看板の強さというものにかなり甘えて仕事をしてきた。その会社にいる間はなんとも思わないのだが、辞めてからそのことを大きく実感する。以前は名刺を出せば話を聞いてもらえたが、〈ミカギテクノロジー〉の名刺には全くそんな効果は無く、むしろ怪しい人間を見る目を浴びせられる方が多い。「旭美理仁」という個人の力の無さを痛感し、同時に以前の会社の先人達が築き上げた信頼に、今更ながら敬服する。だから、ほとんど自らの力だけで人と人を繋げてしまう宇田賀に、私は畏敬の念すら覚えた。私は人付き合いが得意な方ではなかったから、なおさらだ。


「旭さーん、時間ですよ」


 いつもより荒々しい波の音と天井から響く雨音の中、サーバールームでコンピューターに囲まれていた私に向かって、ウェットスーツ姿の鹿島さんが呼びかけた。

 紺のいる実験用プールの海水は近くの海から取り入れ、濾過装置を通して循環させている。水温や水質の管理は設備管理用AIが行なってくれるが、そのAIが稼働するサーバールームの管理は有資格者の私がやるべき仕事だ。サーバールームはプール棟の片隅に設置されていた。コンピューターの冷却に水を活用できるので都合が良いのだ。私は扉から顔を出し、鹿島さんに答える。


「着替えるので、ちょっと待っていてください」

「ええ? まだ着替えてないの? もう、早くしてくださいよ」


 AI管理者として採用されたはずの私は、真新しいウェットスーツを取り出して眺めた。設備管理はAIに任せられても、プールの掃除や紺の世話は人間がやらなくてはならない。英さんは腰を痛めているし、宇田賀は実はまったく泳げない。したがって、元水族館勤務の鹿島さんと、一応泳げなくもない私がその担当になった。サーバールームはプール棟にあるし、それが最適解、そうすべきなのだ。


「ねえ、まだですか?」


 鹿島さんから催促の言葉が飛んでくる。私は慌てて言った。


「あ、すみません、今から着替えます」

「はあ? 何ぼんやりしてるんですか?」

「す、すみません」


 私は急いで不慣れなウェットスーツに着替える。体のラインがはっきりと出てしまい、なんだか恥ずかしい。サーバールームを出ると、明らかに不機嫌そうな鹿島さんが扉の横の壁に寄りかかって待っていた。


「あのね、プールで飼育する以上、宇宙イルカだろうが何だろうが私達がちゃんとしないとダメなんですよ。死んじゃうんですよ。紺ちゃんのためにも早く覚えてください。私、ぼんやりしている人って嫌いなんですよね」


 鹿島さんはそう言いながら、氷と魚の入ったバケツを持ってツカツカと先を歩いて行ってしまう。ぼんやりしているつもりはこれっぽっちもないのだけど。彼女の時間は私より早く流れていそうだと思いながら、私はモップを持って彼女の時間を追いかける。

 実験用プールのある広い部屋に入ると、プハッと水面から紺が頭を出して息を吸い、キューッキュッ……と鳴いた。


「紺ちゃん、おはよう」

「おはよう、紺」


 返事をするように紺がピュウ……と高い音を出す。鹿島さんがバケツを掲げると、紺は口を開けてカリカリ……と鳴いた。鹿島さんが笑顔で魚を口に放ると、紺はそれを飲み込む。


「ふふ、いい子だねぇ、君は」


 笑顔で呟く鹿島さんに、私は尋ねた。


「紺は普通のイルカと比べて、どうですか?」


 鹿島さんはちょっと困ったような顔をした。


「え、どうって……まあ、好奇心は強い気がするけど、色以外はほとんど普通のバンドウイルカと変わらないように感じますよ」

「そうですか」


 それで会話は終わってしまった。沈黙を埋めるように、紺が尾ひれで水面をバシャバシャと叩く。その様子に鹿島さんはにっこりと笑い、プールサイドからポチャリと水中に入った。立ち泳ぎの鹿島さんに紺がそっと身を寄せ、キュウキュウと鳴く。私はそれを見て思った。


 かわいい。


 私は自分もプールの中に入ってみようと思って、イルカ用に作られたプールの深さに尻込みする。当然、足がつく深さではない。だけと、私も紺と触れ合わなければ。思い切ってザバリと半分落ちるように飛び込み、手足を必死に動かして顔を水上に出した。


「ぷはっ……!」


 紺は、そんな私に向かってガリガリギリギリ……と鳴いてから、まるで逃げるように水中に潜ってしまった。


「ああ……」

「あーあ。無駄に慌ただしいからびっくりしたんだよ」


 私の不格好な立ち泳ぎを見て、鹿島さんが苦笑する。


「明日から旭さんが魚あげたら良いかもね。そしたら少しは懐くんじゃないですか? あと泳ぎも練習しておいてよ」

「はい、そうすべきですね」


 それで会話は終わってしまった。私達はプールから出て、無言で実験用プールの掃除を始めた。波音と雨音がさっきより強くなった気がした。何か会話をするべきだと思った私は、それらしい会話を生成しようと試みる。


「あの……鹿島さんは、なぜこの会社に入ったのですか?」


 鹿島さんは作業の手を止めず、チラリと私の方を見てから答えた。


「ん? んー、秘密です」

「そうですか」

「……」


 自慢ではないが、私は昔から他人にそこまで関心を持つ方ではなく、曽理音以外の友達はほとんどいない。だからと言って、社会的な生き物であるホモサピエンスのオスである私にとって他人との関わりが避けて通れないものだとは十分に認識している。それに、鹿島さんは綺麗な女性だったから、魅力を感じないわけではなかったし、仲良くなりたいと思わないわけでもなかった。実際、さっきの「秘密です」に少しドキッとしたのは事実だ。事実なのだけど……

 結局、無責任に沈黙を生成しただけの私に向かって、鹿島さんは言った。


「宇田賀さんに誘われたんですよ」

「あ、ああ、なるほど」

「水族館に本物のイルカがいなくなって仕事がなくなったんです。まあ、それは仕方ないと思うんですけどね。時代の流れってやつ?」


 AIに奪われる以外にも、そういう形で仕事を失うことがあるのか、と私は思った。鹿島さんは続ける。


「ダイビングのインストラクターでもやろうかなって思ってたら、ある日宇田賀さんから連絡があったんです。話を聞いてみたら、怪しい素人が集まって変なことをしようとしているから、『そんなことやめてよ、イルカが可哀想』って言ったんです。そしたら宇田賀さんが、『そう? じゃあ、うちの会社に入ってくれない?』って言うから、私、勢いで『じゃあ入ってあげる』、って言っちゃったの。ねえ、どう思います?」

「イルカの世話のスキルはこの会社に必要でしたから。生かすべきだったと思います」

「え、うーん、まあ……私はイルカに会いたかっただけなんだけどね。旭さんは?」

「私は……」


 楽しそうだったから、という本音は社会人としてふさわしい理由ではないだろう。私はもっともらしい答えを言う。言ってしまう。


「他で出来ない経験をして、実力を身につけるべきだと思ったからです」


 嘘ではない。感動もされないだろうか、失望もされない答えのはずだった。だが、鹿島さんは顔を顰めてこう言った。


「なんかさっきから、『何々するべき』が多いですね。自分の意思ってないんですか?」

「へ……?」

「私、そういう人って嫌いなんです」


 どうやら私は会話の選択肢を間違えたようだ。最新の脳科学の知見を借りるまでもなく、鹿島さんの顔は不快な感情を浮かべていた。水面に紺が頭を出し、私達の間に漂う気まずい空気を吸うと、すぐにプールの底深く潜っていった。さぞ美味しくない空気であったことだろう。

 こうして、私と鹿島さんのお互いの印象は「ちょっと合わない人」ということでほぼ固まった。

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