第5話 新しい会社、新しい仲間

 2034年4月。

 勤めていた大企業を辞め、私は〈ミカギテクノロジー〉に入社した。

 会社を辞めると言った時、私はもっと周りに驚かれるのではと思っていたのだが、実際は随分とあっさりとしたものだった。「あ、転職するんだ。じゃあ、引き継ぎの計画決めないとね」と、そんな感じだ。別に転職自体はとうの昔に珍しいことではなくなっている。どんなに本人が悩んで決めようと、他人にとってはそんなものだ。

 そんな中、幼馴染の曽理音だけは大袈裟と言って良いほど驚いた。私がその場で転職を決めるような決断をできるとは思っていなかったようだ。確かに、昔から私を知っていればそう考えるのも無理はない。何しろ自分でも信じられないのだから。

 大量の書類を書かされてハンコをたくさん押し――今でも各種手続きの書類の大半は紙だ――、退職の手続きを終えて残りの有給休暇を全て取得して、3月末に退職、そのまま4月1日付けで〈ミカギテクノロジー〉の社員となった。

 4月中は東京都内のレンタルオフィスが仮の職場になっていたが、特にやることもなかったので、在宅勤務ということで私は自宅で関連論文をひたすら読んで過ごした。

 5月に入って建設中だった東京ラボが完成し、それに合わせて私は引っ越しをした。場所は千葉県の太平洋側の海沿い、港町と海水浴場の合間にあった空き地だ。周りには他に建物はなく、公共交通機関も通っていない。私は車を持っていなかったから、近くに借りたアパートから自転車で通うことにした。


 2034年5月14日。

 塩辛い風を吸い込みながら海沿いの道を進むと、雑草の生え茂る空き地の中にポツンと置かれた四角い建造物が見えてくる。一見すると学校の体育館のようにも見えるその建物が、東京ラボの建設費のほとんどを占めるプール棟だ。寂しい立地に対して真新しい白い外壁がアンマッチで、どこか別の場所からワープでもしてきたような違和感があった。

 私はプール棟の脇にちょこんと置かれたプレハブ小屋の前に自転車を停めた。建設中に工事業者が使うような小さなプレハブ小屋が、今の私の職場である開発室だった。


「おはようございます」


 ガラガラガラ。軽いアルミの引き戸を開け、私は元気にあいさつをする。セキュリティ―ゲートもなければ、ロッカールームも無い。入り口のすぐそばのデスクに座っていた白髪の男性が、私の挨拶に振り返る。


「やあ、おはよう、旭君」


 同僚のエンジニア、田中英(たなかえい)だ。穏やかで静かなおじさん――というより、もう半分お爺さんだ。


「英さん、今日も早いですね」

「歳を取ると、早く起きちゃうんだよねえ」


 ふんわりとした穏やかな笑顔を浮かべる英さん。英さんの時間は、私よりゆっくり流れている気がする。

 今日は天気も穏やかで、外から聞こえる波の音も優しげだった。狭いプレハブ小屋には五つのデスクが詰め込まれている。社長の御鍵と、宇田賀、私、英さん、あと経理の女性が一人いたのだが、この女性は私が名前を覚える前に辞めてしまった。つまり、社長を入れて今は全員で四人だ。


 四人! 以前いた会社なら最小のグループでも十人はいたし、一つの部署だけで三百人はいた。入社以来一度も会うことなく定年を迎えるであろう社員もたくさんいたのだ。それが今は、社長と全社員でたった四人である。自分が望んだ小さな組織だというのに、いざその中に入ってみると、やはり心細さを感じた。

 私は自分の席に腰掛けてコンピューターの電源を入れる。機材はそれなりに悪くないものが支給されていた。だが、やることがない。何しろまだ肝心の宇宙イルカが手に入っていないのだ。私は隣の宇田賀の席を見て、英さんに尋ねた。


「英さん、宇田賀さんって今日も都内ですか?」

「へ、今日は来るはずだよお。少し遅れるんだってさあ」

「はあ……そうですか」


 私は立ち上がり、軽い扉を開いてプレハブ小屋の外に出た。砂利を踏み、隣のプール棟へと入る。キラリと水面に反射した光が飛び込んできて、私は思わず目を顰める。体育館のような高い壁には窓が付いていて、そこから日光が注ぎ込んでいた。人の泳ぐプールよりもだいぶ深い実験用プール。数日前までは空っぽだったが、今は水で満ちている。循環設備の試運転のため、試しに水を張ったのだ。

 一人で何もいない実験用プールを見つめ、私はため息をついた。正直言って、私は少し転職を後悔していた。このまま宇宙イルカを見ることもなく、プールに水を張っただけでこの会社は倒産するのではないだろうか。設備が順調にランニングコストを消費していることを確認してから、私は開発室に戻った。

 しばらくして、外から自転車のタイヤが砂利を踏む音がした。ガラガラと元気に開発室の扉が開き、一際大きな声と共に丸い体を揺らして宇田賀が現れた。


「うーい、おはよう、諸君」

「やあ、おはよう、ウタちゃん」

「おはようございます。宇田賀さん」


 ニコニコと笑いながら自分のデスクに向かった宇田賀は、「ふっふっふっ……」と思わせぶりな笑いを浮かべながら鞄を開け、ロボットのフィギュアを取り出した。宇田賀のデスクにはアニメのロボットのフィギュアが飾ってある。取り出した新しいフィギュアをその横に並べ、全部で六体になったロボットを見て、宇田賀は満足そうな笑みを浮かべた。


「よーし。さて、今日新しい社員が来るぞー」


 宇田賀の机のフィギュアはどうやら社員数と連動させていたらしいのだが、私が入った後すぐに経理の女性が辞めてしまったせいでしばらく数が合っていなかった。宇田賀のデスクの上に並ぶフィギュアを何度か数えてから、私と英さんは疑問を口にする。


「フィギュア六体ってことは、二人も増えるってことですか? 急ですね」

「そんなに雇って大丈夫なのぉ?」


 宇田賀はニッと笑って胸を張った。


「二人ではない、一人と一頭だ!」


 それを聞いた私は、思わず大きな声を出す。


「え、宇宙イルカが来るんですか? しかも今日!?」


 私の反応が期待通りだったのだろう。宇田賀は嬉しそうに笑う。きっと前から決まっていたのに、私へのサプライズがしたくて今日まで隠していたのだ。宇田賀はそういうことをする男だということを、私は入社からの約一ヶ月間で知った。


「はははっ、サプライズ成功! そうだよー、ついに来るよー」

「サプライズって……なんのために?」

「いや、面白いかなって」


 私は小さくため息をつく。こんな態度で仕事をする人には会ったことがないから、応対の正解がわからなかった。ともかく、これでようやく仕事らしいものが始まりそうだ。そう考えると、気持ちが高鳴った。


「宇宙イルカが来る前に会社が倒産するかと思いました」

「はははっ、もう少し俺と社長を信じてくれよ。結構頑張ったんだぜ」

「よかったねぇ、旭君」


 私を見て、まるで孫でも見るような表情を浮かべる英さん。宇田賀は椅子に座り、椅子ごとクルリと一回転してから言った。


「あと、元水族館のトレーナーの女性が来てくれます。仲良くしましょう。セクハラには気をつけてね……はははっ。さて、ようやく環境が整ってきたな」


 その日の午後、トラックに乗せられて一頭の宇宙イルカがやってきた。

 トラックを招き入れるためプール棟のシャッターを全開にすると、波音と塩の香りがいつもより濃くなる。トラックの荷台に乗せられた専用のコンテナの中を覗き込むと、水と一緒に宇宙イルカが入っており、何やらキュウキュウという音を発しているのが聞こえた。専用コンテナはイルカの体より二回りほど大きいサイズで、頭の上が出るくらいの水が満たされていた。おとなしくコンテナの中に収まっているのがなんだか不思議だった。トラックには水族館の職員の人が一緒に乗って来ており、私と宇田賀は彼らと協力して宇宙イルカを実験用プールへと移動させた。

 イルカの体の下に専用の担架を差し入れる。担架には二つ大きな穴が空いていて、そこにイルカの胸びれが通るようになっている。担架でイルカの体を巻くように包み込み、その状態で上からクレーンで吊り下げて実験用プールへ移すのだ。宇宙イルカ一頭の重さは約二百キログラム、とても人力では動かせない。担架に包まれて持ち上げられた宇宙イルカは、頭をクイッと動かしながらキュウキュウ……と高い音を発している。確かに色以外は写真や動画で見るバンドウイルカにそっくりだった。

 担架ごとプールにゆっくりと入れ、宇宙イルカの頭が水上に出る状態で様子を見る。水温や水質の管理は私の仕事だ。もっとも、設備管理AIの設定を確認して、設定通りに動いていることを確認するだけなのだが。ウェットスーツを着た水族館の職員が宇宙イルカを支えながら、担架を取り外す。宇宙イルカは少し体をよじる程度で暴れることもなかった。


 こうして搬入作業は無事に終わった。実験用プールの中の宇宙イルカは、まるで新居の部屋を一つずつ確かめる子供のようにプールを隅から隅まで、底から水面まで、ゆっくりと泳ぎ回っている。耳を澄ますと、ギィー、ギィー……と、ドアが軋むような音を出しているのが聞こえた。時折水面に頭を出し、頭の噴気孔をパカッと開き、プハッと呼吸をしてから背びれを見せてまた潜っていく。思ったよりもしっかり呼吸している感じの音がするのだな、と私は思った。


「輸送で弱ったらどうしようかと思ったが、元気そうだな。よかった、よかった。しかし、本当にイルカそっくりだな。野生のバンドウイルカに色塗っただけだったりしてな。明日になったら塗料が落ちて、灰色になっているかもしれないぜ」


 宇宙イルカを見つめる私の横に宇田賀がやってきて言った。


「え……そんな……犯罪じゃないですか……?」


 反応に困ってしまった私の顔を見て、宇田賀は大きく笑って肩をパンパンと叩いた。


「はははっ、冗談だよ、冗談。ちゃんと信頼できるところから手に入れているよ」

「そうですか……今更不安になってきたのですが、宇宙イルカってプールで飼育しても良いのですか? 最近はイルカを水族館で飼うのも厳しいみたいですし、大丈夫ですよね?」

「宇宙イルカはそのへんはグレーなんだ。地球の生き物ではないし、そもそも生き物でもないかもしれない。なんとなく、例外っていう雰囲気になっている。ま、研究したかった欧米諸国がそうなるように世論を『作った』みたいだけどな。でも、できる限りストレスを感じずに過ごしてもらうためにこのプール棟には金をかけたし、元水族館の人も雇うんだ。俺達の仕事場はプレハブ小屋だってのにな! はははっ」


 まだ少し新しい建材の匂いがする立派なプールに宇田賀の笑い声が響いた。私は何と返したら良いかわからず、「はあ……」と小さく呟く。宇田賀は両手を腰に当てて胸を張って言った。


「さーて、宇宙イルカちゃんに名前を付けないとな」

「まだ名前無いんですか?」

「ああ。社長は俺達で決めて良いって言っていたぞ」


 最近は社長の御鍵は東京ラボにはほとんど姿を見せない。今日くらいは宇宙イルカを見に現れるのかと思ったが、どうしても外せない会議があるそうだ。宇宙イルカはいつの間にか実験用プールの底に深く潜ってしまい、姿が見えなくなっていた。私は御鍵に尋ねる。


「オスですか? メスですか?」

「女の子だよ。そもそも、宇宙イルカにはメスしかいないんだぞ。まあ、バンドウイルカのメスの特徴を持つやつしかいない、が正しいのか」

「あ……そうでしたね。女の子か……」


 サバリ、と宇宙イルカが水面から顔を出し、プールサイドに立つ私と宇田賀の方をちらりと見て、またすぐに水に潜っていった。その姿を目で追い、私は水中を覗き込む。窓から降り注ぐ光で輝く水面の奥で、宇宙イルカの体が深い藍色に見えた。ふと、舐めたらどんな味がするのだろうと考え、私の大脳皮質は「海水の味だよ」と冷静に答える。舐めるのは辞めておこう思ってから、私はポツリと言った。


「……紺」

「ん?」

「紺色に見えるから、紺にしましょう」

「コン? 紺ちゃんか。美理仁の実家の猫はクロとかいう名前なんだろうな」

「よく分かりましたね。二代目はシマです」

「はははっ、やっぱりか。よーし、お前の名前は紺だ! よろしくな、紺」

「よろしく、紺」


 顔を出した紺は、ギリギリカリカリ……と音を出すと、再びボチャンと潜っていった。


「よかったあ。設備はしっかりしてそう」


 その時、実験用プールに聞きなれない女性の声が響いた。私と宇田賀が声の主を探して振り向くと、扉の前にパンツスーツ姿の女性が立っていた。宇田賀が明るく大きな声で言う。


「ああ、鹿島さん! これからよろしくお願いします! 場所、わかりました?」

「宇田賀さん、こちらこそよろしくお願いします。他に何もないからすぐわかりましたよ。前に車停めましたけど、大丈夫ですか?」


「ええ、どんどん停めちゃってください。社長以外はみんな自転車ですから。うちの社員はエコで健康的なんですよ。はははっ」

「そんなお腹で言われても説得力ないですよ、宇田賀さん」


 宇田賀と女性は面識があるようだ。戸惑う私に対し、宇田賀が言った。


「この人が、六人目の社員だ」

鹿島祐子かしまゆうこです。よろしくお願いします」


 鹿島と名乗った女性は、私に向かってペコリと頭を下げた。肩の上くらいの長さに切り揃えられた黒髪がさらりと揺れ、微かな甘い香りがした。私はワンテンポ遅れて、慌てて頭を下げた。


「あ、旭です。旭美理仁と言います。よ、よろしくお願いします」

「鹿島さんは以前、水族館でイルカを担当していたんだ。紺ちゃんの世話の仕方を教えてくれる予定だ」

「コンちゃん?」


 怪訝な顔で鹿島さんが首を傾げる。その時、増えた人間を確認にでも来たのか、プールからザバッと音がして紺が顔を出した。鹿島さんは紺の姿を見て嬉しそうな笑顔を浮かべ、ハッと何かに気がついて宇田賀に言った。


「あ、コンちゃんって、もしかしてこの子の名前?」

「変か? 紺色だから紺なんだってさ」

「えー、なんで私が来る前に名前つけちゃうんですか? しかも変な名前! キツネじゃないんだから」

「はははっ、悪い悪い。ちなみに、命名はそこの美理仁だぜ」

「あ、そうなんですか? ふーん」


 鹿島さんは私の顔を覗き込むようにじっと見つめてきた。綺麗なアーモンド色の目だった。背は私より低いはずだが、姿勢が良いからか、それとも凜とした眼差しのせいなのか、私はなんだか高いところから見降ろされているような気持ちになり、むずむずして目を逸らした。


「だ、だめですか? 変えるべきでしょうか?」

「へっ? うーん、別にダメじゃないですけどねえ……」


 鹿島さんは一瞬苦笑いを浮かべ、それを誤魔化すようにプールにパタパタと早足で近づくと、泳いでいる紺に手を振った。


「初めまして。あなた、紺なんだって。紺ちゃんだよ」


 紺は、ピャ……と少し高く鳴いて口を開いた。イルカに声帯はなく、音は口ではなく頭の上に開いた噴気孔から出ており、鳴き声ではなく鳴音めいおんというのが正しい。宇宙イルカも一緒だ。宇田賀が鹿島さんの横に並び、尋ねた。


「どう? 気に入ったって言ってる?」

「さあ、どうでしょうね。あーあ、思ったより大変そう。この話受けたの、失敗したかなあ。頼りない人しかいないなあ」


 鹿島さんが私と宇田賀を見て言った。私の胸の奥にモヤモヤとしたものが渦巻く。宇田賀が真面目な顔で言う。


「そうだな、俺達は素人だよ。だからこそ、鹿島さんのことを頼りにしてる。来てくれて本当に助かるよ、ありがとう」


 鹿島さんは宇田賀の方を向いて頭を下げた。


「あ……すみません! 私、思ったことがつい口に出ちゃうんです。わかってます、任せてください。たとえ宇宙イルカでも、またイルカに関われるのが嬉しいんです。ありがとうございます。水族館にはロボットしかいなくなっちゃいましたからね。それに、紺ちゃん見ちゃったら放って帰るなんて出来ませんよ」


 顔を上げた鹿島さんは、チラリと私の方を見て言った。


「旭さんも、よろしくお願いしますね」

「え、ああ、はい、よろしくお願いします」


 私はなんだか、気まずく――いや、怖く? ――なって、目を逸らしてしまった。宇田賀が場の空気をリセットするようにパン、と手を叩いて言った。


「さ、始まるぞ。紺も、鹿島さんも、これからよろしくな!」


 プール棟の中に、宇田賀の大きな声が反響した。

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