第2話 水族館の出会い

 翌日11月18日、私は本当に水族館に来ていた。薄暗い館内で、ライトアップされてゆらめくクラゲを見ながら私は考える。

 私の選択は世間的には「最適解」だ。勉学に励み、国立の大学に入学し、卒業し、誰もが知る大企業の正社員の身分を得て、毎月給料が振り込まれる安定した立場。安心して結婚し、ローンを組んで家を建て、子供を育てられるだろう。それが最適解。最適解の人生は安心で幸せ。だから、不満を持つ理由がわからない、もったいない、贅沢な悩みだ……私が仕事に対する不満を相談するたび、様々な言い方で友人や家族はそんなことを言ったし、私自身の大脳皮質だって確かにそうだ、と判断した。

 それでも、どうしてか私はずっと不満だった。労働時間も適正で、ある程度休みも自分の意志で取れる。だが、曽理音が昨夜言ったように、今は大企業と言っても安心できない時代だ。このまま「最適解」の中でぬくぬくと彷徨っていて良いのか、これで本当に良いのか? そんなことを考えているうちに、いつの間にか私は二十五歳になっていた。


 クラゲは変わらず水中をふわふわと漂っている。この生き物には悩みと言うものがあるのだろうか? 水槽狭いな、とか、LEDが眩しいな、などと思うのだろうか。そんなことを考え、私は自分のことが自分でおかしくなって小さくクスリと笑った。

 息を吐き、周りを見回す。平日の日中の館内には、私が就職以来当たり前のように過ごしてきた週休二日の社会人というサイクルから外れている人達がいた。どこか穏やかに感じられる、平日の人々。自分も今はその一員だ。普段なら意識しないうちに過ぎ去る午後の時間が、いつもよりゆっくり流れている。トイレに行った私は、鏡に映る自分の顔の穏やかさに気がついて、戸惑った。


 今日は地球の自転が遅いのだろうか。


 相対性理論を持ち出すまでもなく、時の流れは一定ではないのだと、私は知る。


 私の耳が、十五分後にイルカショーを開催するという館内放送を捉えた。私は自然と会場であるイルカプールへと足を向けていた。イルカショーを見なければならない理由なんて何にもなかった。ただ、そこでやっていたから。それが理由だった。たまにはそんなことも良いかと思った。週末には満員になるであろう観客席は随分と空いていて、その一角には修学旅行生と思われる制服姿の若者達が座っていた。今日は、彼らに取っては青春の特別な一日なのだ。いつもは会議に出ている間に気がついたら終わっているこの時間も、外に出れば誰かの特別な時間だった。

 私は自分の不自由さを思い知る。世界は特別な時間で溢れているのに、地球は決して自転を止めてくれないのに、私は好きでもない仕事と不安を抱え、一緒に退屈な時間を回っている。なんてもったいないのだろう。

 やがて、イルカが出てきてショーを始めた。水族館に来ること自体、子供の時以来だった。灰色の体を大きく跳ねさせて、高くジャンプしてボールにタッチするイルカ。大きな水飛沫を上げて着水すると、楽しい悲鳴が空間を彩った。


 皆が働いている時間に見るイルカショー。いつもは働いている時間に見るイルカショー。名も知らぬ学校の修学旅行生と一緒に見るイルカショー。


 ああ、なんて、なんて楽しいのだろう!


 私が不満を抱えて働いている間も、世界では楽しいことが行われている。こうして外に出るだけで、午後のひと時はこんなにも輝く。

 私の生きるこの世界は、本来休日以外だって、色々なことが起こっているのだ。胸の奥で久しく感じていなかったエネルギーが渦巻き、世界の彩度が上がった気がした。

 ぼんやりしている場合ではない。

 気が付くとイルカショーは終わり、私の横の通路を笑顔の修学旅行生達が通りすぎていった。若いカラフルな話し声が耳に心地よかった。その後に続いて観客席を出ようと立ち上がった私の耳に、よく響く声が割り込んだ。


「すみません、水族館の方ですか?」


 声の方を振り返ると、スーツを着た小太りの中年男性と、ひょろりとしたアロハシャツの二人組が私の前にいた。


「ええと、違いますけど」

「おっと、これは失礼。随分きっちりとした服を着ていたので勘違いしてしまいました。はははっ」

「はあ……」


 小太りの男は印象的な明るい笑顔を浮かべ、頭を掻いた。横のアロハシャツの男が言った。


「ウタちゃん、あそこの人に聞いてみようか」

「そうだな。じゃあ、失礼します。すみませんでしたね」


 チグハグな服装の二人組は私に軽く会釈すると、濡れた観客席を掃除しているスタッフの方へ歩いていった。なんとなく気になった私がその場に立ったまま見ていると、小太りの男が掃除をしているスタッフに話しかけた。その声はとてもよく通り、私のいる場所からでも内容がよく聞こえた。


「あのー、すみません。ちょっとですね、イルカを一頭、買いたいと思っておりまして、ええ。青いやつをね。できれば、イルカのトレーナーも一人引き抜けると助かる」


 気になった私はそっと彼らに近づき、会話に聞き耳を立てた。掃除用具を持ったスタッフは怪訝そうな表情を浮かべている。


「はあ? いきなり何言っているんですか? なんですか、あなた達?」

 アロハシャツの男が飼育員に名刺らしきものを差し出す。

「私達、こういうものでして……」


 名刺を見つめたスタッフは首を傾げ、面倒くさそうにため息をついて言った。


「怪しいな……ここにはもう本物のイルカはいないよ。動物にショーをさせるのは二年前から全面禁止になったから、さっきのイルカは全部ロボットだ」

「え、そうなの? それはそれで興味深いけど」

「わかったら帰ってください。宇宙イルカもいません。まだ仕事があるので。じゃあ」


 ステージの裏に去っていくスタッフを見送りながら、小太りの男はニッコリと笑ってアロハシャツの男の肩をパンパンと叩いて言った。


「はははっ、ダメだったな、社長。ま、次行こうぜー」

「水族館じゃなくて大学とかの方が良いのですかね? そんなコネないですよ」

 その時の私はどうかしていたのかも知れない。気がつくと、普段の私なら絶対にしないことをしていた。自らの好奇心の赴くまま、私はその二人に話しかけたのだ。

「あの……あなた達、イルカで何をするのですか?」


 小太りの男は丸い顔にニコニコと笑顔を浮かべ、まるでイタズラを考えている子供のように言った。


「あ、さっきの人じゃないですか。気になります? 実はですねー、俺達、『宇宙イルカ』と会話できるようにして、色々聞いてみよう! と思ってるんですよ」

「あの、『宇宙イルカ』ですか?」

「そう。あの『宇宙イルカ』だよ」

「会話するんですか?」

「そう。双方向のコミュニケーション。楽しくお話ししよう! と思ってます」


 好奇心に突き動かされ、まるで何年も前から予定されていたように、気がつけば私の口は自然に動いていた。


「興味深いですね。私も仲間に入れてください」


 そんな突拍子もない私の言葉に驚くことも、顔を顰めることもなく、小太りの男はニッコリ笑って言った。


「お、そう? 一緒にやる? ウチの会社入る?」

 それが私と、〈ミカギテクノロジー〉との出会いだった。

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