断章『或る猫の語り』

 僕は物心ついた頃には“蘇っていた”。


 最初に目覚めた時は、雨で土が柔らかくなっていたため、身体中泥だらけだった。

 けれど不思議なことに濡れて汚れた感触はあるが、不快感や空腹感もない体だった。

 降りしきる雨の中、やたら白百合の花が咲き満ちる場所で彷徨いている所を、僕は拾われた。


 「大丈夫? こんなに濡れて大変だ……よかったら、うちにおいで」


 頭上から柔らかな低い声が注がれたかと思えば、僕はそっと大きな両手に抱きかかえられていた。

 本来であればいきなり声をかけられながら触れられたことに、本能的な驚きと警戒を抱くはずが、そんな気にはなれなかった。

 雨の中、青年は僕を抱えたまま、大きな屋敷へ入っていった。


 「うん、これで綺麗になってよかった……お腹すいたよね。食べていいんだよ」


 連れて帰られた僕は青年の手によって風呂に入れられ、体を乾かされた。

 泥や汚れは一つ残らず綺麗に落とされ、すっきりした所で、ようやく僕は気付いたのだ。

 たんぽぽの綿毛さながらふわふわとした白い体毛。

 桃のように柔らかな肉球。

 自分の足元へ意図せず纏わりついてくる長い尻尾。

 やたらよく聴こえる三角型に毛の生えた耳。

 そう、僕は――猫なのだ。


 「美味しいかい?」


 骨を抜いた魚の身が入った味噌汁ご飯――いわゆる猫まんまを与えられる。

 新鮮な魚を焼いた臭みのない風味に、出汁の深い味わいが意外とイケる。

 この体には不思議なことに空腹感というものはまるでないらしいが。


 「君はミーコそっくりだなあ。ミーコ“二号”と名付けようかな」


 呑気な口調で呟いた青年に、僕は内心抗議したくなった。

 ミーコってやたら女々しい名前を付けないでおくれよ。

 そもそも僕は雄? だし一応その辺を分かって言っているのか?

 まあ、名前の響きや懐かしそうに話す様子から、よっぽど“良い雌”だったのだろう。


 「今日からここが君のお家だから、好きに出入りしても構わないんだよ」


 今日のところは雨宿りをおすすめするけれど。

 温和に告げた青年に撫でられると、意外と僕は悪い気持ちはしなかった。

 気付けば天然のマタタビに釣られたように、僕は僕を撫で回す青年の手腕と膝のすっかり虜になってしまっていた。


 *


 後日、僕は青年の住む屋敷に入り浸るようになった。

 青年は中庭や自室の窓を小さく開けておいてくれるため、そこから自由に出入りできた。

 まさに猫にとっては理想の環境だ――なんて、中身まで猫らしいことを考えながら、僕は青年の膝で喉を鳴らす。

 青年のもとで過ごしている内に、色々と分かってきたこと、思い出せてきたことがある。


 僕は部分的な記憶喪失であることだ。

 きっと猫に生まれ変わる前の僕は、青年と同じ人間の雄だったのだ。

 そして何かを探している最中だったこと。

 けれど、肝心な探し物が何なのか、まるで思い出せないのだ。


 「要――要、要、要――っ」


 青年のいつもの“発作”が現れた。

 普段から自室で静かに本を読んだり、窓からの景色をぼうっと眺めたりしているだけの青年は、毎日こうなる。

 誰とも知れない女の人の名前を絞り出しながら、苦しげに胸を押さえ、荒い呼吸を不規則に繰り返す。

 虚ろに見開いた双眼からは涙が滝のように溢れている。

 それは数分程度で終わる時もあれば、一日中そうしている時があったりして、見ているこっちが心配になってくるほどだ。

 猫の身ではどうにもしてあげられないというのに。


 「要、要、要、ごめん……ごめん……会いたい……でも……うぅっ」


 青年と要という女性――二人の間にどんな事情があるか分からないが、そんなに泣いて苦しむくらいから会いに行けばいいというのに。

 遠回しにそう訴えたくなった僕はミャアッと鳴きながら、青年の足に擦り寄ってみた。


 「っ……ミーコ……ありがとう……僕を慰めてくれているんだね……」


 別にそんなつもりもなかったが、心無しか笑ってみせた青年の瞳に柔らかさが戻ったため、悪い気はしなかった。


 「僕はね……要とは友達だったんだ……本当に大切な、唯一の……でも、僕が弱かったから……要を助けてあげられなかったから……僕らは離れ離れになってしまったんだ……」


 猫のような気まぐれか否か、やがて青年は僕を膝に抱きながら、要という女性について色々と語ってくれるようになった。

 こんな不健康な隠遁生活を送っているからだろうが、きっと青年には話を聞いてくれそうな人間の友達がいないのだろう。

 仕方ないから僕が聞き役に徹してあげようと思った。


 「本当はこんな島なんか捨てて、要に会いに行きたいよ……」


 なら、そうしたらいいだけじゃないか。


 「でも、それだけはできないんだ……」


 何故だ?


 「僕は……百合神様の"巫子"だから……この地を離れることは叶わない……」


 百合神様の巫子――。

 その名前を耳にした途端、僕は雷に打たれたような衝撃を覚えた。

 同時に僕の脳裏には“誰かの記憶”が走馬灯のように蘇ってきたのだ。


 ああ、なんてことだろう――僕は。


 “僕”には、大切な女性がいたはずだった――青年でいう要に当たるような誰かが。


 けれど、僕と彼女は“何かのせいで”離ればなれになってしまったのだ。


 彼女は今どこにいるのか? 今もどこかで生きているのか。


 彼女に会いたい――恋してたまらない。


 ああ、けれど、まずはその前に僕の――。


 しかし、全てを知った所で、ただの猫でしかない僕にはどうすることもできなかった。


 たとえ、探し物の一つの居場所に目星が着いた所で、それを手に入れるための力も術も持たない。


 ましてや、僕が外へ探し物を散策しているという非常に間の悪い時に、青年が自室で首吊り自殺を図り、それを食い止めることですらできなかったというのに。


 「おいで、ミーコ」


 自然界のあらゆる事象に人間よりも遥かに敏感な猫の身であれば、摩訶不思議な現象にも遭遇するらしい。

 首吊り自殺を図ったはずの青年は、何故か後日には以前と変わらない微笑みで僕を迎えたのだ。

 しかし、野生の勘に併せて第六感で分かる。

 青年は幽霊となって今も屋敷に住まい、現世を彷徨っているのだと。

 そして、今も要という唯一人の女性を待ち侘びている。

 彼女への想いは死して尚も強く、やがて深い未練と執念となって現世に留まっている。


 「ミーコ。もうすぐ紹介してあげるね。要がね、この島に帰ってきたんだよ……きっと、僕に会いにきてくれたのかも……」


 霊的な力によるものなのか、青年は未だ訪れてもいない要という女性の気配を感じ取れたらしい。

 母親に再会できる子どもさながら屈託ない笑顔で伝えてくる青年に、僕は心のあるはずのない胸の辺りがキュッと締め付けられるのを感じた。

 霊体となった青年と共に在るようになって八年も経った。

 今では青年にさりげなく取り憑いている“百合神様”の気配を、僕も薄々とだが感じ取れるようになっていた。


 もどかしい。

 どうすれば、誰に伝えればいいのだろう。

 どうすれば、元に戻れるのだろう。

 どうすれば“彼女”に会えるのだろう。


 悲願とは裏腹に変わり映えしない年月だけが過ぎ去り、僕の心にも諦めが支配しつつあった。


 けれど、機は熟してくれたのだ。


 導くのであれば、今しかない。


 言葉を介さずとも伝えよう、と一縷の望みに賭けた。


 長いもの間、独りぼっちで唯一人を想い続けた青年。

 そんな彼に報いるように帰ってきてくれた女性に。


 僕は屋敷でも要という女性を、例の祠のもとへ懸命に誘った。


 僕が一度死んだ後、猫の死骸に憑いて蘇ったあの場所――白百合の祠の前へと。


 *


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