第四章⑩『白百合の巫子』

 「要……」


 気配を感じ取れた要は、弾かれたように振り返った。

 背後から響いてきたのは、幽花の呼び声だった。

 それは先程のように狂気に囚われたものではなく、親に叱られた子どものような声音だった。

 幽花を見てみると、案の定反省した子どものような表情を浮かべていた。

 幸い、ゆりと同様に幽花も異形の姿から生前と同じ姿に戻っていた。


 「幽花……」


 今かけるべき言葉は何も浮かばない。

 それでも幽花に応えるように呼び返した要の声と表情を見れば、十分だった。

 幽花は深い安堵や罪悪感、寂しさがないまぜになった眼差しで、要、そしてゆりと壱郎を見つめていた。

 要と幽花の視線に気づいたゆりと壱郎は、互いに寄り添って離れないまま、二人と向き合い――。


 ありがとう――。


 二人の声が重なった後、二人は再び蛍のような光に包まれていき、姿が薄く透き通っていった後――天に昇るように消えていった。

 二人とも、成仏できたということだろうか……。

 生前の無念を晴らしたことによって心満たされて、未練なくあの世へ行けたのならば、要も安心できる。

 ならば、要自身も彼女にとって大切な人が成仏できるように、できる限りのことをしようと思った。


 「要……早く、ここから、離れて……」


 幽花と向き直った要に、彼がどこか焦っている様子で零した直後――。


 ゴゴゴゴゴ……。


 要と幽花の立っている場所で、微かな地鳴りと共に地面が轟く気配を感じた。

 地震が来たのかと身構えた要に、幽花は自分の頭上を指差した。

 要の目線が指先を追って、天を仰いだ。


 コノ……シマ、ケガレ……イッソウ……セネバ……。


 幽花の首元から管のような茎で繋がっているのは、ゆりの霊体から分離した百合神様自身だった。

 頭部や両眼部分から白百合の花を咲かせ、虚のように開いた口から意味深な言葉を念仏さながら呟いている。

 その間も地面の振動は続いており、遠くから海の潮を打ち付けるような音まで響いてきた。

 さらには夜空に蓄積してきた黒い積乱雲から雷の気配もする。

 これは、まさか……。


 「そうだよ……五百年ぶりの天災が今、この島へ降ってこようとしているんだ……百合神様が……この島の穢れを一掃するために……」


 要の推測を察した口調で、幽花は状況を淡々と説明した。

 つまり、このまま島にいれば、百合神様の起こす天災に巻き込まれるのだ。


 「だから、要は早く……安全な場所へ避難して……」


 幽花の言うことは正しいし、理解はできる。しかし。


 「幽花は――どうするの」


 要にとって今、最も恐れていた質問を投げかける。

 薄々気付いていながらも、目を背けようとしていた残酷な現実に。

 幽花は既に先程の子どもらしい表情ではなくなっていた。

 要は本物の父親にすら、優しい眼差しで頭を撫でられたりされたことはなかった。

 しかし、今の幽花は実にそれらしい眼差しで要の頬を、花に触れるように優しく撫でた。


 「僕は――“巫子”として生まれた自分の役割を果たすよ」


 ごめんね、君を怖がらせて、縛ろうとした僕を、許してほしい。

 耳元で柔らかく囁いた幽花の手が、スーッと要から離れていく。

 幽花の言葉から、彼が今からしようとしていることを悟った要は声を失った。


 嫌だ、そんなのは間違っている。

 あなたが自分を犠牲にするなんて。

 私を――この島を守るために。

 

 どうしてっと絶句する要へ弁明するように、幽花は穏やかな口調で続けた。


 「要……以前の僕は、この島も、この島の人間も、みんな嫌いだった……いっそ、全て滅んでしまえばいいって思っていたことがあった……」


 だったら、どうして……っ。


 「でも、この島で僕として生まれ育ったからこそ、僕は要と出逢えた……君と友達になれた……離れて苦しくて、初めてどれほど君を想っているのかも分かった……だから、僕は君を守りたい」


 僕と君を出逢わせてくれたこの島ごと全て――。


 白百合の花を彷彿とさせる凛と儚げな微笑みを咲かせた幽花は――頭上を浮遊する百合神様と共に真っ白な光に包まれていく。

 要はその様子を数秒ほど静かに見守った後――。


 「っ――ありがとう、幽花――私も――君のことを――っ」


 もう、一人にはしないよ――。


 花びらの落ちた音のように小さく呟いた要は、ようやく歩み始めた。

 “島の最も深い場所”へ歩み寄る最中、要は目にした。

 幽花の左胸に宿った白百合の紋様らしき、白いアザを。

 それとまったく同じアザが、自身の左胸へ新たに刻まれた気配も感じて。


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