断章『母の想い』

 子は親を選べない。


 同時に親も子を選べない。


 私の元には娘が生まれてきた。


 私にとって唯一人の娘は本当に可愛くて愛おしいに尽きる。

 艶やかな漆黒の柔らかい髪。

 黒曜石みたいにまぁるく澄んだ瞳。

 淡雪みたいに儚げな肌色。

 何もかもが母親である私にそっくり。

 幸いなことに素直で天真爛漫な娘は母親として私を慕い、よく手を繋ぎたがってくれた。

 できれば、大切に育てていきたかったし、幸せにもしたかった。

 けれど、私は自分の“身勝手な選択”によって、結果的に娘を不幸にしてしまった。


 私がこの百合島であなたのお父さんと結婚してしまったから。

 娘ではなく“息子”を所望する男を夫に選んでしまったから。

 百合島と家の風習に従うことしかできない憐れな嫡男だから。

 何よりも、そういう男を選んだ私が浅はかで愚かだったから。


 「……」


 白い個室の病室にある病床にて、バイタルサインを常時見守る医療機器に繋がれたまま眠る元夫を、横から無言で見守る。

 すっかり枯れ木のように痩せ細った体躯。

 憔悴の色に染まったこけた顔。

 じっと眺めていると、本当にこのまま目覚めないのではないかと不安に駆られそうになる。

 私は一人娘の要と共に、一度捨てたはずの百合島へ戻ってきた。

 別れた元夫が癌を患ってしまい、手術を受けなければならない、と急遽連絡が入ったからだ。

 正直私は迷っていた。

 “元家族”とはいえ、十数年前に娘を襲った不幸な事件を機に縁を切ったはずの元夫に会うのも、娘と会わせることも。

 最初は元夫の弟からの連絡で私は断ろうとしていた。

 何故なら、元妻と元娘が傍についていたって、出来ることは実に限られているからだ。

 強いて言えば無事を祈ることくらいだが、それなら遠くにいたって不可能ではないはずだ。

 けれど、私の重い腰を上げさせたのは、夫からの意外な一言だった。


 『きっと、俺は死ぬのかもしれない……だから、最後にもう一度だけ……君と……要に……』


 腹の奥から絞り出したような声で紡がれたのは、生への諦念と未練だった。

 単に病身で弱気になっているだけかとも思ったが、妙に真に迫っていた気迫で電話口に囁かれた私は肯くしかなかった。

 死ぬ前に一縷の希望に縋ろうとする人間を突き放すのも、さすがに胸が痛くなったからだ。

 ただ、要には死の予感については伏せておくことを互いに了承したうえで、日程を決めた。


 『お母さんが行くなら、私も行くよ。ちょうど、有給休暇をもらえた所だったから、大丈夫』


 要――いざという時は互いに“必要”とし合える、私の大切な一人娘。

 本当に、この子には、可哀想なことをしてしまった。

 私が“他所者の嫁”として、栗花落家に嫁いでしまったから。

 立派な“栗花落の嫁”になりきれず、周りから褒められるような存在として要領良くできなかったばかりに。

 私のせいで娘の要まで島の大人に差別されて、学校の子どもにすら蔑まれた。

 しかも、私は要が学校で酷いいじめを受けていたことにも気付けないまま――プール事件であの子を失いかけてしまった。


 要は本当に素直で優しくて、良い子。

 本当に私は子どもに恵まれたほうだと想う。

 跡取り息子が欲しかった元夫とは違い、私にとっては子どもが娘の要でよかったと心底思っている。

 そんな優しい娘だからこそ、私を心配かけさせまいとして理不尽なことや辛いことにも目を瞑って、何事もないように笑ってみせるのだ。

 今回だって、きっと、そう。

 要はトーキョーの実家からやや離れた心療内科クリニックに就職したのを機に一人暮らしを始めた。

 以降は、要に会うことはほとんどなく、連絡もそのうちまったく取らなくなっていた。

 きっと要も仕事や私生活のことで忙しかっただろうし、私もあまり干渉してあの子を煩わせたくなかった。

 けれど、久しぶりに会った要はすっかり変わり果ててしまっていた。


 綺麗だった黒髪や肌には艶がなくなり、顔から何まですっかり痩せ細っていた。

 何よりも笑ってみせるのに、作り物のような違和感と陰りが浮かんでいるのだ。

 直感で要には何かあったと察しがついた。

 けれど、要に問いかけることすら、私は怖くてできなかった。

 元夫の病気のことや煩雑な手続きのことなど、目の前のことで精一杯というのもあったが。

 きっと、母親の私なんかが訊いたって、要は笑って誤魔化すかもしれないと分かっていたから。

 要は他人の心の機微に聡くて、心優しい娘だ。

 だから、元夫が大病を患っているという状況で余計に母親である私へ負担をかけたくない、だなんて考えてしまうから。

 要らしい優しさを鑑みれば、最近の彼女に何があったのか無闇に問い詰めることもできない。


 最後にあの子が心から笑ったのを見たのは、いつ頃だったのか。

 不意に疑問を抱くと同時に一人の人物が記憶へ浮上してきた。

 花山院幽花君。

 百合島の神様を昔から代々祀り、祭事を担ってきたあの名家・花山院家の子息。

 島の人間から小耳に挟んだ話では、花山院家は代々巫女に息女、跡取りに子息という習わしらしい。

 しかし、現在の花山院家には男の子一人しか生まれてこなかったうえに、嫁さんが一度きりの出産で心身を壊したため、女の子を産むことができなかったという。

 要の母親は幽花本人とあいさつ程度しか言葉を交わしたことがないため、これは想像でしかないが。

 きっと幽花もまた名家の唯一の跡取り長男であることや、巫子として巫女の代わりを務める重圧を常に感じながら生きているのだろう。


 だから、そんな幽花が自分の娘――“他所者の娘”と蔑まれている子どもと“友達”になってくれたのは意外でもあり、嬉しかった。

 きっと自分の事のように嬉しい理由は、相手が名家の子どもだからとかでない。

 幽花のように家柄や立場に囚われずに、相手と親しくなれる純真で心優しい子が要の友達になってくれたから。

 学校ではあんなひどいことが起きてしまったけれど、幽花が要の友達でよかったと思う。


 だから、要にも幽花に会いに行ってみてはどうか、とさりげなく言ってみた。

 すると、要はどこか気まずそうな表情ではあったものの、瞳には昔の懐かしい輝きが灯っていた。

 要はやはり母親である自分には話そうとしてくれない。

 それが少しばかり寂しくて、切なくなるが、要が昔みたいに笑ってくれるのならそれでもよかった。


 元夫の手術が終わった後日。

 要は「少し出かけてくる」としか言わなかったが、母親の勘で「ああ、会いに行くんだな」というのを感じ取れた。

 今回も要からは何も訊き出そうとはしない。

 きっと、要が幽花とちゃんと会ってお話ができて、昔のちょっとしたほとぼりが冷めた頃には打ち明けてくれるだろう。

 かつて、友達と遊び足りなさそうな表情と明るい眼差しで帰ってきてくれていた時のように。


 「要……っ……うぅ……っ」


 病室の椅子で座って考え事をしていると、不意に意識のないはずの元夫が呟いたのを聞いた。

 今のは、明らかに要の名前だった。

 今思えば、皮肉としか言いようがない。

 目の前のこの人が娘である要の名前をハッキリと呼んだのは、本当に数えるほどしかない。

 長年ぶりの気まずさだけでなく、検査やら担当の主治医や看護師の説明で何気に忙しくて、元夫の真意も未だ聞き出せていない。

 しかも、がん摘出手術が終わってからはバイタルに異常はないものの、意識が一向に戻らないという不安な状況にある。

 さらに、どういうわけか、胸には赤い花を彷彿とさせる不気味なアザまで浮かんでいる。


 この人は自分の知らぬ間に死んでしまうのではないか。


 そんな不安に駆られた母親は、こうして暇さえあれば元夫に付き添っていた。

 冷たいだろうが、そうしているのは決して愛情や悲嘆からではない。

 今更になって元妻である自分、散々放っておいた一人娘を呼びつけておいて、大切なことを何も伝えないまま逝ってしまうのだけは許せないからだ。

 それは自分のためでもこの人のためでもない、娘の要のためでもある。


 「早く目を覚ましてくださいよ……」


 もしも、せめて明日でもいいから、目を覚ましてくれたら、きっと要もまた笑ってくれるかもしれない。

 久しぶりの友達である幽花と再会できて、それに心から喜びながら帰ってくる。


 そしたら、きっと……。



 母親は病室の窓から、燦々とした太陽で輝く海を眺め続けた。


 娘が笑顔で帰ってきてくれるであろう夕方、元夫が目覚めるかもしれない明日を、待ち侘びながら。


 *


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