第四章③『悲愛』
翌日――。
一度家に帰ってから、資料の荷物をまとめた要は直ぐに出かけた。
午前中は母親と共に父親のお見舞いに行ってから、昼過ぎに用事があると口実をつけて丘を降りた。
母親は病院の方にもう少し残るとのことだ。
未だに意識の戻らない父親のこともアザの件も気がかりではあったが、一刻を争う要は花山院家を訪問した。
すると、またあの寡黙なお手伝いさんが現れて、客間へ案内されるという同じ流れになった。
気のせいかもしれないが、お手伝いさんは毎回同じ黒い椿模様に白地の着物、純白のエプロンという装いをしている気がした。
花山院家に仕えているとはいえ、着回しをするほどの余裕がないか無頓着な人なのかもしれない。
「こんにちは、要。昨日はいきなり帰ってしまって、ごめんね……でも、あれから本当はどこへ行っていたの……?」
幽花もまたいつもと同じ白百合色の着流し姿で、ミーコ二号を足元に連れ添って現れた。
芳しい緑茶と茶菓子をお供にまた自室へ通された要は、背筋を伸ばして腰掛けた。
昨日の夜、一緒に歩いていたはずの幽花は葉山から逃げるように突如帰ってしまった。
要も思う所がないわけではないが、幽花自身も同じらしい。
逆に幽花は本来花山院家に泊まる手筈だった要が、そのまま家に戻らなかったことも気にしていたらしい。
実際スマホには幽花から「どこにいるの?」「大丈夫?」「帰ってこれそう?」、と要を心配するメッセージが立て続けに届いていた。
要は朝に返信が遅れたことを謝罪すると共に、家に帰っていたことを知らせるメッセージを返した。
しかし、歯切れの悪い要の様子から、幽花は彼女が嘘を吐いていると見抜いたのかもしれない。
「それは……」
「僕、本当は気が狂いそうだった……寂しかった……僕が悪いって分かっているけれど……」
「……ごめんね……実は……」
いつの間にか繋がれた手へ徐々に力が籠る。
幽花は要を責めるというよりも、一時でも離れたことや、嘘を吐かれたことに悲しそうに俯く。
明らかに落ち込んでいる幽花に、要は胸が痛むのを感じながらも意を決して打ち明けることにした。
「葉山昭人さんっていう人のところへお邪魔していたの……」
「……葉山、さんの所に……? どうして……」
葉山の名前を耳にした幽花は、やはり心当たりがあるらしく、顔を上げて要を見つめてきた。
「葉山さんがね……花山院家の幽花からも、色々話を聞きたいんだって……そしたら、このアザの呪いから助かる方法も分かるかもしれないからって……」
要の説明へ耳を傾ける間、幽花は逡巡するように瞳を宙へ彷徨わせていた。
黒水晶の瞳からは感情が透けて見えないが、この調子ならば説得できるのではないかと要は前向きになれた。
「それで、幽花にお願いがあって……一度だけでもいいから、葉山さんに会ってみないかな?」
「……」
「百合神様の事とかをもっと色々と教えて……」
要以外の人間と顔を合わせることに、きっと最初は難色を示すだろうが、百も承知だ。
先ず葉山が要の知り合いであり、彼女をアザの呪いから救おうとしている旨さえ伝えれば、幽花も葉山を少しは信頼してくれるだろうと踏んだ。
「……どうして」
「……幽、花……?」
「どうして……そんなことを言うの……」
しかし、こちらに向けた顔は笑っておらず、黒水晶の瞳にも光が失われていた。
初めてみる人形のような眼差しと表情に、要は冷たい感触が首を撫でるのを感じた。
雰囲気は異なるが“この感じ”は前にも――そう渡利が支配欲という本性を露わにした時の前兆と似ている。
無機質な人形みたいに、幽花は無表情のまま要へ手を伸ばしてきた。
それに危機感を覚えた要はとっさに両目を固く閉じ、両手で頭を庇う。
幽花だけは決して違うと信じていたのに――。
身勝手な考えかもしれないが、裏切られたような失望感と悲しみの中、衝撃を待ち堪えるが――。
「っ――ご、めん――要」
要の予想した衝撃は来る事なく、代わりに優しくも力強い温もりが、彼女の体を包み込んだ。
抱き締められた要は、渡利の時のように叩かれることがなくて安堵する反面、戸惑いを隠せない。
「僕は――ひどい人間だ――っ」
要の肩に顎を預けている幽花が、向こう側で泣いているのが分かった。
幽花の声が悲しみに震えているのと、冷たい雫が要の肩から背中を濡らしたからだ。
言葉の意味を待ち侘びるように、要は黙って幽花の背中へ両手を伸ばす。
「僕は……君を救えなかった……いつも見ていることしかできなかった……勇気を振り絞ってみたら、余計に君が苦しむ結果になって……しかも、そのせいで、君を失いかけた……あんな想いはもう、二度……っ!」
苦悩と悔恨に満ちた涙声から、十数年前のいじめと事件について語っているのは明白だった。
いつも要がいじめられていても、見ていることしかできなかったこと。
或る日、思い切って勇気を振り絞って手を差し伸べた結果、要がプールで溺死しかける事件が起きてしまったこと。
幽花は未だに無力感と罪悪感に苛まれているのだろうか。
「だから……君が帰ってきてくれた時は本当に嬉しかった……ずっと君は僕を恨んでいるんじゃないかって思っていたから……っ」
「……そんなことないよ……っ」
「僕の想いが……要を縛り付けてしまうことも……それが要を苦しめてしまうことも、分かっているのに……止められないんだ……っ」
「幽花……」
「ごめん……でも、僕は……もう二度と、君を奪われたくないんだ……!」
だから、どうか……僕以外の男なんかに頼らないで――。
絞り出すように漏れた言葉は、精一杯の不安と深い嫉妬の声だった。
きっとこの十数年間、幽花は苦しかったのかもしれない。
「うん――分かった。葉山さんには、頼らないよ」
「ごめん……でも、安心して……百合神様は要を殺さないから……大丈夫だから……僕からもお願いしておくから……きっと、もう少しの辛抱だから……」
不思議な確信に満ちた台詞に、要は祈る力を信じてみようと思った。
何よりも自分のために泣きながら謝ってくれた幽花を見て、ようやく要は気付けたのだ。
「ありがとう……幽花」
自分は愛するのも愛されるのも下手だったのには、ちゃんと理由があった。
上手に愛することができなかったのは、既に必要としている存在に出逢えていたから。
上手に愛されることができなかったのは、信じられる相手が一人しかいなかったから。
しかし、全ての正解は幽花の存在だったのだ。
幽花だけは、ただの要の全てを肯定してくれた。
たとえ要が変わってしまい、昔のような煌めきを失っていても、愛してくれた。
要を束縛する想いは絹糸のように純粋で、優しさに満ちたものだった。
「愛している――幽花」
要が心から求めていた愛は、暴力でも支配でもなく――幽花は要にとっての“本当の愛情”を与えてくれる真の存在だ。
「僕も愛している、要――」
幽花が耳元で囁いてくると、催眠にかかったように要へ睡魔が降りてきた。
重くなった瞼を静かに閉じ、存在の重み全てを幽花へと委ねる。
「これからは“ずっと一緒”だよ――」
花に抱擁されるように甘く芳しい香りに誘われ、全身に絡み付く心地良い温もりに要は意識の全てを委ねた――。
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