断章『森彩花』

 誰かに見られているような気がする


 夜のバイトの帰り道にある電柱の影や、暗闇の向こう側。

 けれど、目を凝らしてみても、誰もいない。

 家のフローリングを歩く際、余分に響いてきた軋む音。

 けれど、振り返っても、誰もいない。

 眠りに入った瞼越しに誰かに見下ろされているような感覚。

 けれど、瞼を開いてみても、誰もいない。

 最初は気のせいで済ませられるようなものだった。


 森彩花は小さな田舎の百合島から都心のトーキョーへ上京してきた女子大生だ。

 昼間は大学で友達と講義やサークル活動に興じ、夜間は飲み屋で遅くまで働くという、それなりに多忙で充実した生活を送っている。

 しかし、彩花には一つの悩みがあった。


 「本当にどうにかならないかなあ……このアザ……」


 どうしてなのかは説明がつかない。

 十九歳の冬、彩花の後ろ左肩辺り突如不気味な赤いアザが浮かんだのだ。

 謎のアザは焼印のように真っ赤に腫れており、心臓の血管のような筋は生々しい。

 当然ながら真っ先に皮膚科を受診したが、病名も原因も不明だと言われてしまった。

 仕方なく、多少値は張ったがアザを消すためのレーザー治療を受けてみた。

 しかしそれは、彩花にとってこのアザの薄気味悪さを余計に思い知らせる体験となった。


 レーザー治療を行なった際、医療機器に何度も不調や故障が起き、照明がひとりでに激しく揺れて落ちるなどの奇妙な現象が起きた。

 最たるものは、レーザー治療で消したはずの赤いアザが、後日には灼けるような激しい痛みと共に再び浮かび上がったことだ。

 まるで消そうとしても無駄だ、と彩花を嘲笑うように。

 結局、アザを消す方法も分からず、友人に相談してみても誰にも信じてもらえず、八方塞がりな状況であっという間に二十歳を迎えてしまった。


 「お母さん、元気にしているかなあ……」


 きっと最近やたら心細い気持ちになるからだろうか。

 故郷の百合島に残していった母親のことを不意に思い出した。

 母親からは時折野菜などの仕送りが今でも来る。

 彩花の母親は目の前に困っている人がいれば、迷いなく手を差し伸べる親切で心優しい人だ。

 子どもの頃は娘の彩花にも優しかった。

 遠足や休日のお出かけの際にはいつも彼女の好きなおかずのお弁当を作ってくれた。

 授業参観には毎回必ず訪れてくれたし、テストでは満点でなくても良い点を見れば「頑張ったね」と褒めてくれた。

 けれど彩花はそんな母親に対して、人生最大の“裏切り”を為してしまったことがある。


 『あなたという子は……自分が何をしでかしたのか分かっているの……!?』


 『本当にごめんなさい……! 要ちゃん……っ』


 百合島にいた十二歳の時、生まれて初めて彩花は母親に頬を叩かれた。

 理由は彩花が“いじめ”に加担し、いじめられていた女子生徒を危うく死なせかけたからだ。

 小学校時代、彩花は学級委員長の百瀬梨花と友達だった。

 百瀬梨花はあの大手もも製薬の息女であり、申し分ないほどに美人で学校の成績も良く、先生と生徒から贔屓にされていた。

 最初は彩花も皆の憧れの的である百瀬梨花に好意を抱き、友達の一人になれたことを光栄に思っていた。けれど。


 『面白いから、彩花もやってみなよ。できない、なんて言わないわよね? 私達は“友達”だものね?』


 皮肉にも人間関係に聡かった彩花は、百瀬梨花のその一言で瞬時に全てを悟ってしまった。

 百瀬梨花が愉悦のためにいじめを行なっていること。

 しかも標的は島でも“他所者の娘”と蔑まれている同級生・栗花落要であること。

 そんな彼女の味方をしていじめを止めようとすれば、彩花まで一緒にいじめられて、島で孤立してしまうこと。

 それだけは何としても避けたかった彩花は“仕方なく”百瀬梨花のいじめに加担したのだ。


 そう、あれは仕方のないことだったの。

 だって、本当はお母さんだって、自分の娘がいじめの標的にされたら嫌でしょう?

 なのに、あの時のお母さんは私を泣いて責めるばかりで、私の精一杯の弁明言い訳に聞く耳すら持ってくれなかった。

 むしろ、いじめの原因そのものである“他所者”の娘に対して、どうしてそこまで頭を下げるの。

 悪いのはいじめに立ち向かえない栗花落要で、またそんな彼女をよってたかっていじめた百瀬梨花とその取り巻きの萩野と草部だよ。

 つまり私は気が進まないのに嫌々加担させられていた、むしろ一番の被害者だというのに。

 なのに、どうしてお母さんが栗花落要なんかを庇うのか、正直今でも理解に苦しむ。

 あーあ、お母さんのことを思い出したら、一緒に嫌なことまで思い出しちゃった。


 結局、形だけではあるが栗花落要とその母親へ頭を下げて謝罪するという屈辱を味わわされた。

 挙句、娘の彩花がいじめに加担していたという出来事を気に、母親と父親の仲に亀裂が走った。

 お前が彩花をちゃんと見ていなかったから、あんなことになったんだ。

 そんな父親の無神経な一言から常に諍いが絶えなくなった。

 程なくして両親が別居したのを機に、彩花は別区の中高へ通うようになったため、百瀬梨花とも逢わなくなった。

 彩花としては自分の不幸の原因の一つである百瀬梨花と離れられて清々した。

 とはいえ、家でも母親と何となく気まずくなってしまい、退屈な百合島にも嫌気が差した彩花は、トーキョーの大学へ進学し、今に至るのだ。

 偏狭で退屈な百合島を出るまでに紆余曲折あったが、今は都会に出られて本当によかったと思う。

 後はこの不気味なアザさえ消えて、素敵な彼氏の一人でもできれば、彩花の人生は完璧なものになるのに。

 今度はより高度で高価なレーザー治療の費用を稼ぐために、彩花は夜の飲み屋のバイトにこれまで以上に勤しむことにした、のだが――。


 「きゃ……!?」


 ガシャーンッ、というけたましい音と共にジョッキが地面に落ちて割れ、ビールがぶちまけられた。

 「何してるんだよ!」という酔った客と店長の怒声に、彩花は慌てて「すみません」と片付けにかかる。

 けれど、今確かに変な感じがしたのだ。

 ビールをなみなみと注いだジョッキを運んでいた最中、彩花の首筋をスッと撫でた氷のような感触を。

 驚いて振り返ってみたが、誰もいなかった。

 けれど、仕事中も度々そういう奇妙なことは起きた。

 空いた席に新しい客が入った気がして、注文を取りに行こうとしたら、そこに誰もいなかった。

 人数分の水を持っていくと、余分に一人分多かった。

 何もない廊下で誰かに足を引っ掛けられたような気がした。

 気のせいで済ませられそうな違和感は、やはり帰路や家の中でも日増しに強くなっていた。


 誰かの気配を感じるようになったのだ。

 夜の帰り道、後ろから余分にもう一つ重なり響いてくる足音。

 背後に間近に迫ってきているような、冷たい重圧感。

 けれど、何度か振り返ってみても、そこには誰もいないのだ。

 家へ駆け込むように帰って一息吐くのも束の間。

 自分以外誰もいないはずの家に、時折響いてくる床や壁が大きく軋んだ音。

 いつの間にか配置があらぬ場所に変わっている小物。

 洗面台やお風呂の鏡に一瞬だけぼんやりと映った影。


 何よりも悪夢を見るようになった。

 暗闇の中で誰かが覆い被さっている。

 寝台から伸びてきた誰かに両足を引っ張られる。

 寝台に近づいてきた誰かに体を大きく揺さぶられる。

 悪夢の影響か何かのせいか知らないが、慌てて目を覚ますと、例の不気味なアザが痛みに疼いている気もした。

 こんなことが毎日のように続いている内に、彩花は日に日に憔悴していった。

 講義では居眠りが絶えなくなり、バイトではミスを連発して、言動に精彩が欠けつつあった。

 或る日、そんな彩花を見かねた友人はオカルトマニアの知り合いを紹介してくれた。


 「私から見るに彩花さんは百パーセント、間違いなく何かの霊に憑かれていますね! こういう場合はお祓いをして、お守りを持っておくといいですよー」


 正直胡散臭いしお節介だ、と彩花は内心吐き捨てていた。

 しかし、友人とそのオカルトマニアの圧に逆らうのも億劫だったため、渋々付き合ってあげた。

 友人とオカルトマニアを自室へ招くと、摩訶不思議な魔法陣を描いた布の上に正座させられ、意味不明な呪文を唱えられた。

 また自宅の所々に魔除けの盛り塩を置かれて、錆びた鈴のついた赤いお守りを押し付けられた。

 本当に馬鹿馬鹿しい。

 内心呆れていた彩花は、適当に愛想笑いでお礼を述べて友人とオカルトマニアを帰した。

 ただの食塩で家が守られるなんて信じていなかった彩花は、盛り塩を即座に片付けた。

 お守りは汚らしくて触れていたくもないため、そのままゴミ箱に捨てた。


 翌朝、久しぶりに深い眠りにつけたおかげか悪夢らしいものを見なかったため、目覚めは良かった。

 霊的なものには懐疑的だが、オカルトマニアの胡散臭いばかりのお祓いも、何かしらの効果を与えたのだろうか。

 朝は基本的に食欲がないため、温かいコーヒー一杯をお腹へ流し込んでから、着替えと準備を始める。

 お気に入りのレモンイエローのカットソーに、ぴったりのペールブルーのショートパンツを合わせてみる。

 気分が上がってきた所で、この際髪に編み込みアレンジでもしようか。

 思い立った彩花は櫛を手にすると、洗面台の鏡に映る自分と付き合った。


 「ひっ……!?」


 一瞬だったが今度はハッキリと映っているのが見えてしまった。

 真っ白な布を頭から被ったような、長い髪の少女らしき人影を。

 びっくりして思わず固く閉ざした両目の瞼を開くのが、怖い。

 それでも本能に逆らうように、彩花は瞼をゆっくりと上げた。

 鏡の中には蒼白な顔をした彩花しか映っていなかった。


 よかった……やっぱりただの気のせいだったんだよ。


 たまたま背景の白い壁の模様が、人の顔に見えてしまった、きっとそれだけだ。

 自分でも意識過剰になっているのを自嘲しながら、彩花は自室に忘れてきたヘアアクセサリーを取りに振り返った。


 「きゃああああ――!」


 頭で考えるよりも先に足が動いた。

 彩花は何かを押し除けるように脱衣所から飛び出すと、慌てて駆け出した。

 鞄も持たず、靴も履かないまま、そのままマンションの部屋から逃げ出した。

 確かにいたのだ、あの部屋に。

 振り返った彩花の真後ろに、白い着物に長い白髪の不気味な少女が――。

 同じマンションの住民が訝しげに彩花を見たり、あいさつしてきたりしているが、今はなりふり構ってはいられない。


 とにかく、できるだけ遠くへ逃げるべきだ、と本能が全力で告げていた。

 彩花の危機感を裏付けるように、走りながらも不意に振り返ると、確かに“ソレ”は彼女を見つめていた。

 電柱の後ろや通行人の影、建物の窓の中から“ソレ”は絶えず彩花を見ていた――追っていた。

 そうだ、このまま大学校内へ逃げ込めばいい。

 真昼間の人の気配も目も多い学校内なら、さすがに“悪さ”はしないはずだ。

 根拠も確証もない考えのもと、彩花は血だらけの裸足で、交差点の道を曲がろうとした。


 ドンッ――!!


 彩花の華奢な体躯はマネキン人形さながら、道路の向こう側へと投げ飛ばされた。

 彩花を轢いてしまった自家用車の運転手は慌てて彼女のもとへ駆け付けた。

 付近の通行人へ救急車を呼ぶように頼むと、道路の上でうつ伏せに倒れ込んでいる彩花へ必死に声をかける。


 痛い――全身が静かな炎を纏ったみたいに熱くて痛い。

 痛くてたまらないのに、悲鳴をあげてのたうち回る気力すら湧いてこない。

 薄れゆく意識の中、彩花は妙な感覚に襲われた。

 上手く説明できないが、まるで全身の血液中で何か生き物が蠢き、暴れているような、気持ち悪い感覚だ。

 やがて君の悪い感覚は頭の中にまで及び、目の前が真っ暗に沈んでいくと――。


 ブシャァッ――。


 柔らかい蜜柑を握り潰したような音と感触と共に、酸えた臭いが鼻腔を突き刺した。


 「――……」


 痛みも体の感覚、意識すら失っていく中で、何故か“アレ”らしきか細い声が頭に響いてきた。

 けれど、言葉という像をまるで描かない声を理解することは最後まで叶わなかった。


 *


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