第四章⑦『花山院神社』
幸い、火による足止めが効いているらしく、奴らが間近に迫っている気配はなかった。
しかし、石階段を駆け上がって逃げた先は花山院神社があるのみで、百合神様の領域から抜け出せていないことに変わりはない。
「葉山さん! これからどうするんですか……!?」
「とりあえず、神社の本殿へ避難します!」
そう言った葉山は神社の本殿に入るための鍵――花山院当主の遺体を調べていた時に見つけたそれを取り出した。
石階段を登り切った二人は朱い鳥居を潜り抜け、神社の奥内へ逃げ込めた。
「建物の中にさえいれば、暫くは奴らも追っては来られないでしょう……」
互いに激しく息を切らしながらも、二人は本殿の中で腰を下ろした。
島の夜は出歩かない代わりに、家の中にさえいれば安心。
果たしてそのセオリーが今回にも、しかも百合神様自身にも通用するのか、要は内心不安しかなかったが。
互いの落ち着いてきた呼吸の息遣いだけが流れる沈黙の最中。
要は事実を思い出した様子で、自分自身を抱きながら、涙を零した。
要の異変に気付いた葉山は、心中を察した様子で彼女を案ずる。
「要さん……大変なことになってしまって……すみません……私も、もう少し早く気付いていれば……」
「いえ……葉山さんは何も悪くありません……何度も私を助けてくださいました……でも……まさか……幽花が、もう……っ」
要は雪のように降り積もった罪の意識、受け入れ難い残酷な真実に、心が押しつぶされそうだ。
まさか、幽花が自殺によって百合神様と同化することを望むほど、心追い詰められていたなんて。
幽花は、要を虐げて自分達を引き裂いた人間への復讐と憎悪、そして要への愛情と執着に身を焦がす怪異――百合神様となってしまった。
「私のせい、なんです……私がいたから、幽花は狂ってしまった……私が……っ」
「そんなことはありません……彼は、あなたを大切に想い、愛した……ただ、それだけのことなんです……」
「っ……でも……」
「今はとにかく生きて帰ることを考えましょう」
とは言われても、要の頭を占めるのは絶望の二文字だけだ。
たとえ朝日が昇る時間までに、百合神様達から物理的に逃げられたとしても、二人に刻まれた呪いのアザが消えない限りは解放されない。
しかも、アザの呪いは島の外に出たとしても効力を発するらしく、森彩花のように呪い殺される可能性は高い。
何をしても逃れられないのであれば――いっそ幽花の望みを叶えるのもやぶさかではない、なんて諦めの感情に支配されかけていた最中――。
ミャアァ……。
足元に纏わり付く綿毛のような感触、空気を撫でるような鳴き声に、要の意識は現実に引き戻された。
「ミーコ……? どうして、こんな場所に……」
「またお前か……一体……」
気配も足音なく突如現れた猫のミーコ二号に、要と葉山は戸惑いを隠せなかった。
元々は幽花の所に居座っていた猫であるため、一瞬身構えてしまった。
しかし、ミーコ二号は要達の心中を露程も知らないとばかりに、呑気に彼女の足に顔を寄せ、可愛らしく鳴いてみせる。
そんな無邪気な様子を眺めていると、恐怖と絶望感で凍りついていたはずの心が緩むのを感じた。
ミーコの生き写しである事といい、前から不思議な雰囲気の猫である。
綿毛のように柔らかな背中や頭を優しく撫でてあげている最中。
ミーコ二号は要の手から逃れると、背を向けて本殿の奥をトテトテと歩き出した。
ミャアァ……。
「まさか、また誘っているのか……?」
ミーコ二号の鳴き声と行動に反応した葉山は、慎重に跡を追った。
要もミーコ二号の行き先を気にして、葉山に続いた。
本殿の奥には御神体とされる、しめ縄の巻かれた細長い岩が置かれた祭壇がある。
長年手入れされていないせいか、積もった埃とその匂いに満ちていた。
そのまま行き先を見守っていると、ミーコ二号は御神体岩の裏側へ回ってしまった。
最も神聖な場所へ立ち入ってしまったミーコ二号を要は案じるが、葉山は何かを勘付いた。
「まさか……そこに、何かあるのか……?」
「葉山さん……!? まさか、入るのですか」
「罰当たりなのは承知だが、俺達には今更だろう」
既に呪われている身なのだから、生き残る手がかりを見つけるために、罰当たりなことも厭わなくなったのだろう。
御神体岩のある領域へ土足で踏み込んでいく葉山を、要は困惑の眼差しで見守った。
「っ――」
「――葉山さん?」
しかし、御神体岩の裏側を凝視したまま佇んでいる葉山に、要は異変を察知した。
不意に葉山に声をかけても、一向に返事は返って来ない。
ミーコ二号の行方も気になり、心配になった要も反対側から祭壇を踏み越えて、御神体岩の裏側を覗き見た。
「っ――ひっ!?」
御神体岩の裏側にはミーコ二号の姿は足跡すらなかった。
代わりにいたのは、御神体岩を背に腰掛けている女性らしき――白骨遺体だった。
しかも骸骨の手足や眼科からは、例の赤い百合の花が咲いており、床には黒く固まった血の跡もあった。
この女性も恐らくは自分達と同じように神社へ逃げ込み、最後にはアザの呪いによって無惨に独り死を遂げたのだろう。
自分達の末路を象徴したような白骨遺体に、要の心には再び絶望の暗雲が立ち込めた。
……待っていた……ここに……。
「え……? 葉山さん、今……」
「っ……ああ……」
要だけでなく葉山も確かに聞こえたのだ。
目の前の白骨遺体ら動いたわけではないが、自分達へ語りかけたような気がしたのだ。
まるで、頭の中へ声が直接入り込むように。
要と葉山は聞こえてきた声へ引き寄せられるように、おぞましいはずの骸骨へ手を伸ばしていた。
「要さん……この遺体が持っているのは……古い、本みたいですね……」
「はい……手に取ってみましょう……」
骸骨の両腕に大事そうに抱えられている古びた本へ、要と葉山は手を伸ばした。
要の指先がさきに骸骨の指に触れた瞬間――。
「要さん――?」
要の目の前は真っ白な霧に覆われた。
要にとって未知の時代の見知らぬ景色が脳裏へ流れ込んでくる――。
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