第四章⑥『怪異』
大切な誰かに自分の気持ちを伝えたいのに、言葉が断片的で像を成さないようなもどかしさ。
雪の下に埋もれているような四肢の重み。
頭が繭に包まれたような朦朧感の中、自分を呼ぶ声だけは遠くから響いていた。
「要さん――!!」
頭を覆っていた繭糸が剥がされたように、意識が急激に浮上した。
目の前には自分を心配そうに見下ろしながら、息を切らしている葉山がいた。
葉山に肩を支えられている要は、未だ霞む視界で辺りを見渡し――息を呑んだ。
自分のいた部屋の有り様、そこに横たわっている白骨遺体と赤百合の花を見て、一瞬で全てを悟った。
「葉山、さん……私……っ」
「説明は後です。今すぐここを出ましょう……」
人外的な力によって昼間は人の気配のある花山院家に見えていたこの場所は、実際は荒廃しており、もはや危険でしかない。
雪を背負っているようなら冷たい倦怠感に震える要を、葉山は何とか支えながら歩き出す。
薄暗い階段を降りて廊下を突き抜け、玄関の扉から出るまでの間は、何事もなかった。
このまま要を連れて帰り、看病してから今後の対策を考えようとしていた時だった。
「どこに、いくの、要……」
枯葉まみれの石畳を渡り、寂れた門を通り抜けようとしていた矢先。
二人の背後から、もう一つの声が響いてきた。
要の背中を撫でた声は馴染み深いものでありながら、氷のような冷たさを帯びていた。
振り返ることができないまま、要は恐る恐る返事をした。
「っ……幽、花……?」
「僕達、これからは、ずっと一緒だって“約束”、したよね……?」
「っ……うん……それは……」
「なのに……知らない、男の人と、どこへ、行くの……?」
今でも思い出せる二人で交わした大切な約束。
あの時の自分の言葉と気持ちには、決して嘘はなかった。
今だって、本当は幽花と向き合いたいと願っている……ただ。
「っ……幽花……あのね……私……っ」
「振り返ったらダメだ、要さんっ!」
葉山が忠告を叫んだが、既に遅かった。
要は幽花へ優しく呼びかけながら、前を向いていた顔を後ろへ反転させた。
「か――なめ――かなめ――かなめ」
月明かりの影の下で、幼子さながら無邪気に要を呼ぶ幽花。
しかし、そこで違和感に気付いた要と葉山の背筋に戦慄が走った。
一人であるはずの幽花の頭上が大きく伸びて揺らめいているように見えた。
様子を慎重に伺っている二人に向かって、幽花の影が一、二歩前進した。
夜影から抜け出した幽花自身が月光の下に晒される――。
「かなめ――かなめかなめかなめかなめかなめかなめかなめかなめかなめかなめかなめかなめかなめかなめかなめかなめかなめかなめかなめかなめかなめかなめかなめかなめ――」
壊れた蓄音機のように響いてくる呼び声。
青白い枝木さながら痩せ細った手足。
四肢と頭に狂い咲く血のように赤い百合の花々。
手折られた茎のように長く伸び切った首の先端には、幽花本人の頭部が付いていた。
しかし青紫の血管が亀裂のように走り、真っ赤に腫れ上がった顔――そこに嵌め込まれた黒水晶の両眼には、愛憎と狂気のみが血走っている。
「っ――いや、こんなの、嫌だよ――幽、花――っ――どうして――?」
目の前の変わり果てた幽花の姿に、要は恐怖を通り越して涙が流れてきた。
否、問いかけなくても、要は眠っている間に見て聞いてしまったから、本当は知っている。
どうして、こうなってしまったのか。
それでも、涙で問い返さずにはいられないほどに、要は絶望する。
「かなめ、ぼく、やっと、ぜんいん、こらしめたよ――かなめを、いじめたやつら、ひどいやつら、ぜんいん、しんだ――」
「っ……どうして……そんな……」
「ゆりがみ、さまが――ぼくに、ちから、あたえてくれた――じゃまなやつら、ころして、かなめと、いっしょに、なるために――」
怪異と化した幽花の口から百合神様の名前を聞き、察しが付いた要と葉山は、幽花の頭上を見上げた。
幽花の伸びた首へ巻きついた茎と繋がるように、彼の頭上を漂っている“少女らしき何か”。
白い着物に身を纏い、白い頭巾を被った顔から白百合色の長い髪をなびかせている。
しかし、異質だったのは、雪肌を突き破るように身体中に咲く赤い百合の花。
まさか、彼女が“百合神様”――神と同化して、昔の百合島を滅ぼした巫女なのだろうか。
「おおぉああぁあぁ――……」
美しくもおぞましい百合神様の御身から目を離せない中。
真紅の花びらみたいな唇の隙間から、高い呪詛の悲鳴が漏れた。
血で染めたような赤い両眼は憎悪と怨念に血走っており、見る者の心を凍て付かせた。
「かなめ、かなめ、かなめ――」
百合神様の思念と呼応するように、幽花は要を求めて手を伸ばしてきた。
「逃げるぞ! 要さん! 捕まったらおしまいだ!」
「っ……」
要が迷いを払いきれない中、危機感を覚えた葉山は、慌てて彼女の手を引いて駆け出した。
「かなめは、だれにも、わたさない、にがさない……」
背後で佇む幽花が冷たく呟くのが聞こえた。
要と葉山は門の扉を叩き開くと、外に広がる夜道を真っ直ぐ駆けようとした。
しかし、花山院神社に繋がる石階段の前に差し掛かった所で、異変に気付いた葉山が足を止めた。
「まさか、あれは……いっ……ううっ」
「何ですか……あれは……っ!? うぅ……っ」
葉山は右手の甲、要は左胸に刻まれた赤い花の呪いのアザが熱を籠ったように熱く疼くのを感じた。
夜の島を歩き慣れている葉山には予想が付いたらしいが、要にとっては初めて目にする光景――常軌を逸した現象が広がっていた。
ぁ……うあぅああぁあぁ……。
ゔぅぅ……ゆ……り……あぁあぁ……。
ぎいぃあぁあ……あゔぅあぁ……。
全身の血管で蛇のように蠢く茎、そこから狂い咲く血のような赤い百合の花。
薄紅色の泥みたいに焼け爛れた皮膚には、ミミズやらカブトムシやらの虫が不気味に這い回っている。
中には藻屑を被ったように体を濡らし、腐った魚や下水道の汚水みたいに不快な匂いがこちらまで漂ってくる者もいた。
赤い百合の花が咲いた異形の人間達が迫り、左右の行く道を阻んでいる。
「この人達は……」
「ああ……きっと百合神様に呪い殺された人達の成れの果てです……っ」
「! まさか……じゃあ、あの二人は……っ」
葉山の仮説は真実であることを証するように、要の視線は或る二体の異形へ釘付けになっていた。
……が……な……め……あぁあぁ……。
……づ、ゆ……り……げあぁあぁ……。
二体ともに顔の眼球部分を赤い花に貫かれているが、髪型や着ている服から辛うじて識別できた。
病院着を纏う華奢な異形は百瀬梨花、黒いTシャツにジーンズ、シルバーアクセを纏う長身の異形は渡利の特徴と一致していた。
「僕も八年間、島で調査をして初めて気付いたが……きっと、これが夜に島を出歩いてはいけない理由の一つだ……」
夜の百合島は神様の通り道。
それは迷信でもなく、言葉の通りのものだった。
百合神様の怒りに触れた者達は呪い殺された後も、百合神様に仕える怪異として、夜の百合島を彷徨っていたのだ。
中には旧百合島が滅んだ際に亡くなった島民も含まれているらしく、時代を感じる和装の異形も見かけた。
彼らに明確な意識があるのかは定かではない。
しかし、既に人としても魂の形を保っていない悲惨な姿に、要は恐怖と絶望感に凍り付く。
「この数はさすがに捌ききれない……できたとしても大火災になりますね……ならば……」
左右から挟み込むようにこちらへ迫る赤百合人間の大群に向かって、葉山は例の特殊マッチを点火させ、棒状のそれを左右へ投げつけた。
火が命中した途端、奴らは火が弱点らしく、左右前方にいた奴らは、地鳴りのような絶叫をあげてのたうち回る。
「こちらへ逃げましょう! 要さん! 歩けますか?」
「っ……はい……!」
火の攻撃によって赤百合人間達が怯んでいる隙に、葉山は要の手を引いて石階段を駆け上がった。
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