第四章①『プール事件』
十五年前の春――。
要は百瀬梨花とその取り巻きである萩野太一と草部一也、森彩花に呼ばれ、学校のプールサイドに無理矢理連れて行かれた。
当時の百瀬梨花曰く、要に大事な話があるという。
要の背後には、夏以来清掃されていない淀んだ緑に濁った水の浮かぶプール。
逃げたくても逃げられない位置に追い詰められ、怯える表情の要に向かって、百瀬梨花は単刀直入に告げた。
『あんたさ、ゆー君の一体何のつもり?』
唐突な質問の意味がよく分からず、「えっと……」と言い淀む要に、百瀬梨花は苛立ったようにまくしたてる。
『あんたはさ、勘違いしているだろうけど、調子に乗らないでよね! ゆー君は優しいから、ちょっとだけあんたに手を差し伸べただけ! あんたに特別な感情なんか、これっぽちもないんだからね!』
ゆー君とは幽花のことで、彼に恋慕を寄せる百瀬梨花が一方的に呼んでいるらしい。
この間、要はテストの日に筆箱を隠されてしまい、途方に暮れていた。
担任の鹿島先生に言っても「どうせ忘れてきたんでしょう? 友達にでも頼んでみなさい」、と鉛筆一つすら貸してもらえなかった。
当然ながら要に筆記用具を貸してくれる同級生も友達も一人もいるはずがなかった――彼一人を除いて。
テスト直前に幽花の方から要へ歩み寄り、「これ、余ってるから、使って」、と鉛筆と消しゴムを貸してくれたのだ。
今までは傍観者に徹していた幽花が人目も憚らずに、初めて要を助けてくれたのだ。
当然要はそんな幽花の優しさに涙が出そうになったが、堪えて、返す際に「ありがとう」と互いに微笑んだ。
しかし、当然ながら学級委員でもある百瀬梨花と取り巻きは、それを決して見逃さず――今に至る。
『それに、ゆー君は花山院家の子息だから、将来的には百瀬家の息女であるこの梨花の旦那様になるかもしれないのよ! つまり、あんたなんか眼中にないってわけ! そういうことだから――』
百瀬梨花が指で合図を送ると、萩野と草部の二人が要を押さえつけた。
その様子を見守っていた森彩花は縄跳びを持って要へ近付き、手足に巻いていく。
要は両手足を縄跳びで固く縛られ、固くごわついたプールサイドの床に転がされた。
『誓えよ――二度とゆー君と口利かないって。そしたら、許してあげる』
要の眼前に右足を踏み込んだ百瀬梨花は、冷たく見下ろしてくる。
つまり要が条件を呑めば、この不穏な状況から解放してくれるとのこと。
となれば、要の選ぶべき正解は簡単だ。
ただ、幽花と二度口を利かないと誓うだけでいい。
けれど、要はどうしても肯くことはできなかった。
『い――やだ――』
『はあ? 今何て――』
一瞬自分の聞き間違いかと錯覚した百瀬梨花が、鬱陶しそうに要へ問い詰める。
けれど、要の決心は既に固まっていた。
『嫌だ――!!』
幽花と二度と話さない。
たとえ百瀬梨花に詰められても、その命令だけは聞けなかった。
要にとって幽花は唯一自分をただの要として認めて、笑いかけてくれた大切な友達だ。
たとえ、学校では友達同士として堂々と語り合えなくても。
それでもこの前、幽花は勇気を振り絞って要を助けてくれた。
ならば、今度は要が勇気を出す出番だ。
『なら、マジで消えろよ――』
要の返答が気に食わない百瀬梨花は、冷たい炎の眼差しでそう吐き捨てた。
途端、百瀬梨花の言葉を合図に、萩野と草部、森の三人は要の体を起こしてから――そのままプールへ突き落とした。
『っ――がっ――ぽ――っ!』
苦しい……息ができない……気持ち悪い……怖いよ……っ。
藻屑に満ちた汚水へ突き落とされた要は、体を揺らしながら一心不乱に藻掻く。
しかし、両手足を固く縛られている状態では思うように体を動かせない。
息苦しさから水中で手足をばたつかせると、雲みたいな藻屑が絡み、さらに体は重く沈んでいく。
酸素を求めて反射的に口を開けると、汚水が鼻や口を侵していく。
どうしよう……このまま、私……死んじゃうのかな……?
水面を照らす太陽と空の距離がどんどん開いていく。
雲がかかるように薄れゆく意識の中、要は死を覚悟した――。
『要――っ!!』
要が溺れているプールへ飛び込んできた人影。
見覚えのある人影は藻屑を掻き分けるように、半狂乱になって要の元へ駆けつける。
『要……要……要……っ!!』
要に辿り着いた人物は慌てて彼女を引き上げて、失われた酸素を取り込ませる。
顔を上げた要は激しく咳き込みながら、水を吐き出していく。
要を救った人物は彼女をプールサイドへ引き上げ、手足の縄跳びも解いてくれた。
『要……ごめん……僕の、せいで……っ』
幽花……?
意識が朦朧としている要を掻き抱きながら、彼女へ懸命に謝罪し続ける幽花。
要は幽花の言葉を否定したかったが、口から喉に藻や水が詰まり、咳き込むせいで上手く話せなかった。
そうしている間に、騒ぎを聞きつけた先生や他の生徒達が駆けつけ、逃げるタイミングを失った百瀬梨花は呆然と立ち尽くしていた。
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