第三章④『忍び寄る影』

 群青色の闇に染まる閑散とした世界を歩く。

 雲間から降り注ぐわずかな月明かりを頼りに。

 生温い夜風にそよぐ草の音、と鈴虫の鳴き声が静寂に響き渡る。

 砂利を踏む足裏の感触がやけに重く感じる。

 首筋や背中を伝う汗がやたら突き刺すように冷たい。

 子どもの頃は夏祭りの日以外、決して出ることのなかった夜の島。

 人気も街灯もない夜道を一人歩く恐怖に耐えながら、何とか指定の場所へと辿り着いた。


 「よぉ、待っていたぜ。要」


 夜闇の静寂に包まれた港の一角にある船乗り場の前に、一人の男が待ち構えていた。

 やがて闇に慣れてきた要の瞳に映り込んだのは、甘い悪意に満ちた笑みを浮かべている元彼氏の渡利だった。


 「どうして……ここにいるって……」

 「愛の力って奴だよ。調べようと思えば、要のいる場所なんて簡単に分かるさ」


 渡利と半同棲していたトーキョーのマンションから密かに脱け出し、保護シェルターへ逃げ込んでからはメッセージも連絡も全てブロックしていた。

 しかし、渡利は別のアカウントを取得して要のメッセージアカウントへ接触してきた。

 しかも、今要が母親と共に元故郷の百合島にいることを突き止めたのだ。


 「前に要が生まれ育った場所が百合島って言っていただろ? お前の母親がいる実家にはいなかったし……なら、百合島に行ったんじゃねぇかと思って船を調べたんだよ。ちなみに家は民家の人が親切に教えてくれたぜ。お前もそこそこ有名だったんだなー」


 まさか、こんなにも、あっけなく見つかってしまうとは、夢にも思わなかった。

 出身地という本当に何気無い話から、居所を特定されてしまうなんて。

 百合島という辺境の田舎へ逃げれば、さすがの渡利も追っては来ないと思ったが、考えが甘かった。

 何よりも要を戦慄させたのは、こんな島にまで自分を追ってきた執念だけではない。


 「それで……何をしに来たの……」

 「つれないことを言うなよ。メッセージの通り、ただお前とちゃんと“話し合い”たいだけなんだよ」

 「話って……」


 ただ“話し合い”をするためだけに、あんなメッセージを送信してくるとは誰が思うのか。


 [久しぶり、要。元気していた?]

 [俺は要がいないせいで、寂しくて苦しくて、怒りで気が狂いそうだったよ]

 [ちゃんと話し合いをしたいから、今すぐ三番港の雅丸って書いてある船がある沖に来て]

 [必ず来いよ。もし来ないんなら]

 [お前と母親のいる家に火をつけてやるからな]

 [栗花落の家はもう知っているからな]

 [俺から逃げられると思うなよ]


 栗花落の家を特定しており、母親もいるその家に火をつけるとまで脅されてしまえば、要には行く以外の選択肢はなかった。

 夜は家にいるという島のルールを破り、隠密に家の外へ出ている間も気が気ではなかった。

 しかも、遠くに見える民家は所々明かりが灯っているが、港には渡利と要の二人しかおらず、背後には海が迫っている。

 もはや逃げ場を奪われた要は、この場で己を貫き続ける他ない。


 「なあ、要……前に届いたメッセージはほんの気の迷いなんだろ? 俺と別れたいなんて、本気で思ってはないんだろ?」

 「いいえ……本気よ……私はもうこれ以上あなたと一緒にはいたくないの……」

 「またそんなこと言って……いつまでも不貞腐れているんだよ……こんな俺の気を引くために、わざわざ俺を失望させるような真似をして楽しいのか? こんなことしなくたって、俺は本当にお前のことを愛して……」

 「違う……!!」


 あくまで己の見解ばかりを主張し、自分の気持ちを聞く気の全くない渡利へ、要は否定を叫んだ。


 「あなたが愛しているのは“自分の思い通りに支配できる”女よ!」

 「はあ? 何を言っているんだ、要!」

 「違わないわ! あなたは私をまったく信じてくれなくなった。少しでもあなたの予定や理想とズレたことをしただけで、あなたは私を詰って、縛り付けて、叩いたわ」

 「だけど……その後は、いつもちゃんと謝って、仲直りしたじゃないか! その度に俺達の絆は深まって……」

 「そう思っているのは、あなただけよ……あの時から、あなたのことが怖くなった


 私は……ただあなたの機嫌をなるべく損ねないように、顔色を伺うようになった……でも、今思えばそれがおかしかった」

 そう、おかしかったことに気付けなくなるほど、自分は壊れかけていたのだ。

 今思うとゾッとするのは、もしも自分があのまま渡利の笑顔が自分の幸せだと錯覚したままだったら、今頃自分はズタボロの人形にされていたのかもしれないことだ。

 けれど、そうなる前にあのトーキョーのマンションから逃げ出し、自分を守ろうとできたのは……幽花の存在のおかげだ。


 百合島では辛い記憶のほうが多かったが、唯一幽花とミーコとの優しい思い出があった。

 幽花は要を大切にしてくれた。

 花や猫に触れるように優しくしてくれた。

 要が笑顔を咲かせると、もっと咲いてと照らしてくる太陽みたいに一緒に笑ってくれた。

 要が苦しんでいると、穏やかな雨のように泣いて慰めてくれた。

 幽花に大切にされた記憶、彼のくれた優しさは、たとえ長い時が過ぎて離れてしまっても、要を守ってくれたのだ。


 「私はあなたの人形でも奴隷でもない……!!」


 要が叫んだ明確な拒絶に、渇いた音が海音と重なって響いた。

 左頬に火花が散ったような痛みがする。

 同時に群青色の闇越しに痺れるような怒りの気配を肌に感じられた。


 「ふざけるなよ……ああ、そっか。つまり、そういうことかよ? つまり“男”がいたんだろ? おい!」


 後ずさろうにも背後には夜の海闇が広がっている。

 反応の遅れた要は左腕を掴まれ、もう片手で髪の毛を引っ張り上げられる。


 「痛っ……! 違う……! やめて! 私はもうあなたなんか……」

 「だから俺を弄んで捨てようとしているんだろう!!」

 「違う! ちゃんと、私の……話を聞いて……っ」

 「答えろよ! どこの男なんだよ! マンションの隣の奴か? それともクリニックの誰か? もしかして、この島でさっそく男を作ったのかよ! この雌豚がよ!」


 “男”と耳にした瞬間、要の脳裏に幽花の笑顔が過った。

 子どもの頃に見た、はにかむような眩い笑顔。

 大人になってから見せた、花を慈しむような微笑み。

 どちらの幽花も昔から変わらず、要の心を晴れやかに照らす日向であり、儚げな百合の花のようでもあった。


 今から自分がどうなってしまうのか、まったく想像もつかない中、要は憤慨する渡利の手から逃れようと藻掻く。

 けれど、やはり男の力は強過ぎて全く振り解けない。


 もしかしたら、このまま、もう会えなくなってしまうの?


 そんなのは嫌だ……。


 暴れる手足や引っ張られる髪へ走る激痛。

 幽花への恋しさや、胸が張り裂けそうな悲しみ。

 たまらず固く閉じた瞼の隙間から涙が零れてくる。


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