第三章②『赤いアザ』
真夏がぶり返したように燦々と照り晴れた翌日。
百合島病院にて、要の父親のがん摘出手術は施行された。
家族用待合室で母親と何もせずに、長い一瞬を五時間分も繰り返した。
それでも要は時々スマホに入ってくる、幽花からのメッセージを読んで心を和ませることができた。
昨日、連絡先を交換してからは、幽花からマメにメッセージが届いていた。
寝る時間の確認とおやすみのメッセージから始まり、朝からはおはようのあいさつ、そして手術を受ける要の父親と彼女自身を案ずる優しい言葉を送ってくれる。
まるで付き合いたての彼氏彼女みたいなやりとりには、要も今の状況で不謹慎ながらも胸が甘く締め付けられるものがあった。
一方で長いようであっという間だった手術は何事もなく終わった――はずだった。
「父の意識が未だ戻らない、のですか」
手術自体が終わって一時間は回り、時計は既に十四時を指していた。
要と母親はご家族に手術の経過などの説明を受けるための部屋へ通されていた。
「はい。ですが、呼吸・心拍は安定しているので今の所は心配ありません……ですが、今の様子では目を覚ますのは明日以降になるかもしれません。今日は暗くなる前にお帰りになったほうがよろしいですね……ですが、その前に……」
ご家族であるお二人には説明しておきたいことがありまして。
沈鬱な表情でそう語った主治医の様子に、要も母親と共に不穏なものを感じた。
主治医が手術中に撮影した写真の内、一枚をそっと慎重に机の上に置いた。
瞬間、要と母親の両者に戦慄が走った。
「これは……アザか何かでしょうか……」
「はい。手術中に突如、お父様の腹部に浮かび上がったのです……」
写真にうつっているのは痛々しい手術の縫合跡のある腹部に浮かんだ、鮮やかな赤い花みたいなアザ。
不気味なアザに見覚えのある要は、主治医からの説明を受けている間、生きた心地がしなかった。
何故、要の父親にも突如、要の左胸と同じアザが浮かんだのか。
百瀬梨花達といい、不可解なことの連続に要の心に巣食っている不安の渦が増していく。
主治医からの丁寧な説明を受けた後、心の憔悴した要と母親は、時間ギリギリのバスへ急いで乗り込んだ。
一旦帰宅すると、特別体を動かしたわけでもないのにどっと疲れが波のように押し寄せてきた。
家に入って早々、畳の座布団へ倒れ込むように横たわった要に、母親は「大丈夫?」、と心配してくれた。
母親だって今日一日疲労しているはずなのに、率先して動けない自分に情けなくなる。
沼のように重い手足を無理やり起こそうとすると、母親は慌てて制止した。
「大丈夫よ、要。こんなこともあろうかと、朝に夕飯を作っておいたの。レンジで温めてくるから、要はゆっくり休んで」
母親だって不安でたまらないはずなのに、その気遣いと優しさが本当にありがたい。
母親の言葉に甘えて、要は温めてもらった肉野菜炒めと熱々のご飯、喉越しの良い麦茶をお腹へかき込むように食べた。
母親と共に食器を片付けて、風呂も沸かした。
母親が先に入浴している間に、要は幽花へメッセージを返信していた。
自分の近況を報告するついでのように、今日はどう過ごしたのかも伺ってみた。
『今日も一日ミーコとゆっくり過ごしていたよ。さっきお参りにも行ってきた』
『夜にお参りに行くの?』
『うん。今の僕にとって、夜が一番安全だからね』
やはり今日も幽花は昼間家の外から出ていないらしい。
しかも、家の中で仕事らしい仕事をしているわけでもなさそうだ。
さらに、あえて外出が原則禁じられている夜に祠のお参りに行っているらしい。
ここまで状況を見れば、職業柄もあり、要は幽花に対して幾つかの結論を出すことができた。
やっぱり、幽花も同じ……うつ病、なのかな……?
八年前から始まった隠遁生活。
手入れも施していない、伸ばしっぱなしの蓬髪。
小塔さながら積まれた本と必要なもの以外は置いていない、殺風景な部屋。
お手伝いさんにほとんど面倒を見てもらい、仕事もしていない様子。
夜になら安心して外に出られる事。
うつ病だと明かした要に対する深い理解。
あらゆる事柄を掻き集めてみると、辻褄が合ってくる気がした。
もしも、それが事実なのだとすれば、要が友人として精神保健福祉士として、自分が最終的にすべきことは明確だ。
そのうち、折を見て、幽花には一緒に病院へ行くように勧めてみようかな……。
旅行鞄から着替えを用意しながらそう考えている最中。
布団に置きっぱなしにしていたスマホが一、二度振動した。
もしかして、また幽花からかな?
メッセージの受信をいち早く察知した要は、淡い期待を胸にスマホの画面を確認した。
「っ――ぇ――」
瞬間、思わず要はスマホを床へ落としてしまった。
まさか――どうして――。
手の震えを何とか抑えようとしながら、床に落ちたスマホをそっと拾おうとする。
すると指先が触れる前に再びスマホが一、二度振動したため、肩が大きく揺れた。
スマホの画面で一瞬だけ確認できた内容が、正直今も信じられない。
けれど、確かめなければならない、守るためにも。
今度こそスマホを手に取り、届いたばかりのメッセージ欄を恐る恐る開いてみた。
本当は目を背けたくて、このまま逃げたくてたまらなかった。
けれど、メッセージに記された甘くも残酷な悪意がそれを決して許さなかった。
行かないと――ダメだ。
やっぱり、ちゃんと決着をつけなければ、いつまでも付き纏うのだ。
枝先を切るのではなく、根っこを断ち切らなくては。
居ても立っても居られなくなった要は、風呂を済ませた母親と入れ違いで廊下に出た。
風呂場へ向かったように見せかけて、忍び足で廊下を突き抜けると、音を立てないように玄関から外へ出た。
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