第二章⑩『幸福』

 あれから、どれほど時間が経っただろうか。

 二人はただ肩を寄せ合わせて、窓の向こう側に咲く白百合を共に眺めていた。

 そうしていると、いつの間にか足音もなく近付いていた物体が、要の膝へ優しく頭突きしてきた。


 「あれ……ミーコ……!?」


 ミャー、ゴロゴロ。

 たんぽぽの綿毛みたいにふわふわした白い体に黒いぶち模様の猫が喉を鳴らしてきた。

 二人しかいないはずの部屋へ、扉を開けた気配も音も無く現れたような。

 しかし、それよりも要を驚かせたのは、目の前の猫が死んだはずのミーコと瓜二つであることだった。


 「この子はね、ミーコの生まれ変わりだと思うんだよ」

 「ほんとにそっくり……ぶち模様も目の色も全く同じだぁ……」


 幽花が手を伸ばすと、また頭突きをしてから頬擦りしてくる白い猫は、まるでミーコの生き写しだった。

 背中に浮かぶ小さな丸っこい天使の羽みたいな黒いぶち模様も。

 青空を映した硝子玉みたいにまん丸とした無垢な瞳も。

 やや手足が短く、お尻がちょいと出っ張っている所まで何もかもが。

 幽花曰く、八年前に例の祠へ参った際に偶然見かけて、彼が引き取った野良猫らしい。

 話を聞いた要は本当にミーコが生まれ変わって、また自分達に会いに来てくれたような気がして嬉しくなった。


 「ほら、ミーコも喜んでいるぞ」


 しかも、ミーコにそっくりさんは、人懐こい性格なのか、初対面の要に警戒することなく無邪気に擦り寄ってきてくれた。


 「やっぱり同じミーコって名前にしたの?」

 「正確にはミーコ“二号”かな」

 「あはは、何それ、面白い」


 こうして猫のミーコも加わって楽しくお話していると、十数年前へ帰ってきたような気がしてしまう。

 幽花は本当に家の外へ一歩も出なくなってしまったのか。

 それなら、今はもう二人だけの秘密の場所だった白百合の小丘も、白百合の祠にも、もう足を運んでいないのか、それとも。

 頭の隅では気になることは山程あった。

 けれど、今こうして昔と変わらず二人とミーコで穏やかに過ごせていると、些細な問題に思えてきた。

 けれど、そんなかけがえのなく、愛しい時間にも“終わり”はやってくる――。


 「そろそろ……暗くなる前に帰るね……お母さんも心配するから」


 太陽が地平線へ近付いてきた頃、潮時だと感じた要は名残惜しそうに告げる。

 要の言葉に幽花は母親と引き離される子どもみたいに悲壮な表情を見せた。

 それでも要の都合を重々理解しているからか、「うん……」と精一杯の返事をした。

 こちらをじっと上目遣いで見てくるミーコ二号の眼差しにも、後ろ髪を引かれそうになる。

 それでも、要は行かなければならない。

 しかも、明日の昼間は父親の手術も控えているのだ。

 だから明日、二人は会えない。


 「明後日、また会いに来てもいいかな」

 「! もちろん。絶対、また来て。約束、しよう?」

 「うん」


 要の提案を聞いた幽花は一転して、両目を輝かせた。

 昔とはまた違う無邪気さで喜び、笑う幽花が何だか可愛くて、愛おしくすら思えた。

 幽花の口から紡がれた“約束”という言葉に、要はまた懐かしさに駆られた。

 ずっと“友達”でいるという“約束”は、父親の不幸な発病という偶然によるものとはいえ、要が帰ってきたことで守られた。

 互いの告白によって、今までの普通の友達という関係を超えてしまったような気がするが。

 今度交わした約束はごくささやかなものではあったが、必ず守れることを信じて疑わなかった。

 それでも要の心の隅には不安と呼べる暗い渦が巻いているのを感じていた。


 陽が完全に沈む前に栗花落の家へ戻った要は、母親と共に夕飯を作った。

 離婚して手放した父親の家で、また料理して食事を取るというのも妙な気分だった。

 けれど、幽花と逢って話ができたおかげか、やや霞がかっていた心が晴れていくような気持ちだった。体調も良い気がする。


 「今日は懐かしい場所とか、色々行けた?」


 母親には今日は島の近所を散策してくる、と話していた。

 花山院家へ幽花に会いに行った話は、未だ何となく話したらいけない気がした。

 行きと帰りの道中に見かけた懐かしい駄菓子屋や、本屋が潰れて喫茶店に変わっていた事を適当に話した。


 「そういえば、幽花君は元気にしているのかしらねぇ。あなた、昔はあの子とよく遊んでいたでしょう」


 要の母親は娘がある時を境に頻繁に出かけるようになり、嬉しそうな表情をして帰ってくるようになったことを覚えていた。

 友達になった相手というのが花山院家の子息だと聞いた時、母親は驚いてはいたが素直に喜んでくれた。

 母親と同じように周りから差別され、孤立気味だった娘には、唯一の救いと楽しみがあると分かったからだった。


 「うーん……それが、よく分からないんだ……」

 「そうなの。一回、家に行ってみたらどう?」

 「……そうだね」


 いずれはちゃんと話さなければならない時がくる。

 それまでは病身の父親と明日の手術の件へ心を注いでおくべきだろう。

 それに例の呪いのアザや、百瀬梨花達の事件との関連等、気にかけるべき事柄は多い。

 それでも十数年越しに自分を想い続けてくれた幽花の存在と言葉が、心の支えとなった。


 けれど、この時、要は未だ気付いてはいなかった。


 自分が或る重要な事を見落とし、忘れてしまっていることに――。


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