第二章⑨『弔いの花』
大切だったものが壊れた瞬間とは。
こなごなに割れてしまった硝子玉のカケラを必死に掻き集めるような気持ちなのだろう。
その感触は破片が指に突き刺さるような痛みなのだろう。
『ミーコが……死んじゃった……っ』
二人だけの秘密の小丘に行くと、猫のミーコが死んでいるのを見つけた。
愛らしい硝子玉みたいな瞳は虚ろに上向き、半開きになった口から舌と唾液を垂らして。
体には外傷はなく、生きている頃と変わらず滑らかなで柔らかい。
もちろん世話をしている二人は、猫に毒になるような物を与えた記憶がない。
だから、要にとっても、ミーコが死んだことはあまりに突然で不可解で、悲しかった。
『ミーコ……』
冷たくなったミーコを抱き上げながら鳴咽を零して泣く要に、幽花も心苦しそうに立ち尽くしていた。
もう一度、ミーコに触れてみれば、まだ柔らかくて、ほんの少しだけ温かい。
けれど、二度無邪気に動き回ることも、こちらを愛らしく見上げてくれることはない。
抱き心地の良かったこの身体もいずれは冷たく重くなり、朽ちていくのを待つしかないのだ。
そんな未来を想像して胸が締め付けられた幽花は、せめてものの望みにかけてみたくなった。
『ミーコのお墓を作ってあげよう』
泣きじゃくる要にはそう優しく言い聞かせて、ミーコの亡骸を“あの場所”へと連れて行った。
幽花の住む屋敷と花山院神社の境にある小さな丘にある祠。
白百合の花が一部だけ群生している綺麗で不思議な場所。
昔、この地に棲みついていたとされる或る神様なのだ、と昔母親が語ってくれた。
花山院家の管理する土地の一部でありながら、当主に見放されていた祠を、幽花の母親は密かに祀っていた。
そのため幽花は父親に内緒で今も祠へ参り、水を撒き、手を合わせてお祈りしてきた。
そしたら、今はもういない母親が神様と共に見守ってくれているような気がして。
『ここなら、きっとミーコも寂しくないよ』
もしも、ミーコをこの聖なる地で埋葬すれば、ミーコの魂は神様と母親のもとへ行き、穏やかに過ごせるかもしれないと。
幽花の心遣いを知った要は幾ばくか心慰められたらしく、涙が止んでいた。
『ありがとう……神様と……幽花のお母さんなら、ミーコを可愛がってくれるよね』
『もちろん。お母さんは動物が好きで、優しい人だったから……お母さんが信じていた神様もきっと、優しくしてくれるよ……』
お母さんの話をする幽花はこのうえなく優しくて、懐かしそうに笑う。
要も話に聞いたくらいしか知らないが、幽花のお母さんは百合の花みたいに綺麗で優しくて、儚げな人だったらしい。
幽花を生んだ際に体と心を壊し、まともに動けなくなってしまったらしい。
それでも我が子である幽花にだけはいつも穏やかで、色々な本を読み聞かせてくれる優しい人だったとのこと。
体調が良い時は、幼い幽花を連れて密かに中庭から例の丘の祠へ参っていた。
幽花が八歳の頃に母親が病死してからは、彼一人でずっと毎日のように祠を祀るようになった。
それは今、幽花と要の二人だけの秘密となった。
『お父さんは、僕のことが嫌いなんだ……』
幽花はお母さんの話をする時、必ずこの悲しい言葉を紡ぐ。
幽花曰く、生まれて物心がついた頃から、父親とはまともに口を利いたことがないらしい。
父親自身は幽花本人に無関心なのか、彼が話しかけても無言か頷くだけで、忙しいからと背を向けてしまう。
父親の厳粛な雰囲気と暗鬱な表情から、幼いながらも幽花は話しかけるのを躊躇するようになった。
母親が存命だった頃も、幽花と二人で仲睦まじくしている様子を遠くから静かに睨んでいることが多かったらしい。
『お母さんが体を壊したのも、病気で死んじゃったのも、僕のせいだから……』
そんなことないよ。
要は喉の底から声をあげて全力で否定したかった。
けれど、同時に気休めにしかならない言葉も、また別の意味で幽花の心を傷つけてしまいそうで、怖くて声に奏でられなかった。
代わりに要は祠に手を合わせたまましゃがんでいる幽花を、後ろから包み込むように抱き締めた。
君は独りじゃない、と伝えるように。
要の唐突な行動に幽花は意外そうに瞬きをしてから、前に回された小さな手をそっと繋いだ。
生暖かい風が山草をすり抜けてそよぐ。
風に煽られた白百合と緑がカサカサと舞い奏でる。
幼く無垢な参拝者を歓迎し、慰めるかのように。
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