第二章⑦『偽りの愛』

 あれから二人で長い長い話を交わした。

 客間を出た廊下の奥に突き進み、階段を上がった先にある幽花の自室で。

 透明なガラス窓を張ったベランダの向こう側に咲いた、丘の白百合を眺めながら。

 最初に幽花は要の話を色々聞いてみたい、と無邪気に微笑んだ。

 雪のように積もる話はある。

 けれど同時に百合島を離れてからの思い出や出来事を打ち明けるのに、少しばかり躊躇した。

 百合島の学校ほど辛くはないが、決して楽しくもなかった島の外の話なんか。


 「気にしなくていいんだよ。僕は要の話が聞きたい――何でも知りたいんだよ」


 どんな話をしても要を受け入れてくれる気がした幽花に背中を押されるように、要はトーキョーでの話をポツポツと語り始めた。

 幸い、トーキョーの学校ではいじめられることもなく、平穏に過ごせたこと。

 大学では福祉学部へ入学して、精神保健福祉と心理学の勉強をしたこと。

 卒業後は心療内科クリニックへ就職し、精神保健福祉士として働いているが、今は休職中であることも。


 「そっか……要は島に離れてからも、立派に頑張っていたんだね……」

 「そんなことないよ」

 「ううん。要は本当に立派だよ……島で辛いことがあっても、それでも新しい場所で自分の道を歩んで……誰かの心を救う仕事をしているんだから……」


 要を褒めてくれる幽花は心から安堵したように微笑んでいた。

 けれど、同時にそれがどこか寂しそうにも見えて、心当たりのある要は胸を締め付けられた。


 「でもね……やっぱり、幽花のいないトーキョーは……辛くもないけど……やっぱりどこかつまらなかったよ」


 罪滅ぼしをするような気持ちで零れた本音に、幽花は納得したように頷くと、手をぎゅっと握り返してきた。

 客間から自室へ移ってからも、繋がれた右手と左手は離れないままだった。


 「僕も……要のいないこの島で生きていても、意味なんかないって……この十数年間、思っていたよ……」


 幽花も同じような気持ちでいてくれたことに、要も嬉しいような申し訳ないような複雑な気持ちに駆られた。


 「要はさ……その、彼氏とか……いるの……?」

 「え……!? それは……っ」

 「いるんだね……まあ、それはそっか……そうだよね……」


 脈絡なく振られた予期せぬ話題に、急に気恥ずかしくなった要は狼狽えてしまう。

 即座に否定はしない様子から、訊かずとも容易に察知した答えに、幽花は繰り返し頷く。

 明らかに落胆したような表情と態度に、要は何だか別の意味で左胸辺りが熱くなるのを感じた。


 「えっと……ごめん、なさい……?」

 「君は何も謝ることはないよ……ただ……」


 二人の関係や十数年もの距離を鑑みれば、要には何の非もない。

 それでも要自身にも、もの惜しさや、罪悪感に似た感情が渦巻いてしまう。


 「もう、別れた、から……っ!」

 「……え? 別れたって……?」

 「相手は、未だ納得してくれてないかもだけれど……っ」


 この際なら仕方ないと何だか吹っ切れてしまった要は、現在調停中の元彼氏の渡利について打ち明けた。

 渡利はクリニックへ仕事で出入りしていた人間で、度々言葉を交わしていたが、ある日食事に誘われたのをきっかけに付き合うようになったこと。

 最初は互いに仕事のことにも理解があり、話も気が合っていた。

 渡利の印象も真面目で仕事熱心だが、気さくでこちらをリードしてくれる良い感じであった。

 渡利からも結婚を見据えた交際をしてほしいと告げられて、要は彼との将来を真剣に考えていたが――。


 「付き合いが長くなっていくと、段々と彼の“本性”が出て来たの……」


 最初のきっかけは、或る日要が緊急性の高い患者を助けるためのトラブル対応で、遅れて帰った夜のこと。

 仕事の定時から一時間半過ぎてから、要は住んでいるアパートへ帰ってきた。

 その頃渡利とは半同棲を始めており、その夜は要の家に用があって来るため、寄り道せずに帰るよう約束を交わしていた。

 しかし、帰ってきた要を出迎えたのは、真っ暗に落とされた照明、と床にぐちゃぐちゃに散乱した物やケーキらしきもの、そして――。


 『今夜は君と僕の記念日だから、早く帰ってくるって約束しただろうが!!』


 電車に揺らされる中、ちゃんとメールに遅れた事への謝罪や理由を送ったし、着信も入れた。

 けれど、たった一度のやむを得ないこの“ミス”が、渡利の中の要への信頼を壊したらしい。

 それからというもの、要の動向が気になって仕方なくなった渡利の言動は段々とエスカレートしていった。

 友人と遊びに行く際は昼間のみで、友人の彼氏でも男と一緒は言語道断。

 スマホの位置情報把握番号を渡利のスマホに登録させ、今どこで何をしているかのメールは一時間に一回おきに送る事。

 クリニックに勤めていた要には滅多になかったことだが、仕事付き合いの飲み会や忘年会でも必ず断る事。


 渡利の言い付けに少しでも疑問を示したり、うっかりミスで忘れたりした時は、「嘘吐き浮気者雌豚」などと罵倒され、頬を叩かれた。

 そして私に泣いて謝るが、また人が変わったように怒鳴って叩いてくる、の繰り返しになっていた。


 「最近になって、彼から逃げてシェルターに駆け込んだの。そこで、お父さんの病気の連絡が来たから……こうして帰ってきたんだ……ここなら、さすがの彼も追っては来られないだろうし……」


 まるで自分の担当する患者の事例を扱うように、冷静に整然と話す自分に、内心変な笑いが込み上げそうになった。

 こんな自分の重い話を幽花は横槍もいれずに最後まで耳を傾けてくれた。

 けれど、繋いでいない方の片手で作った拳を振るわせ、唇を噛んでいた。


 「さすがに呆れた、よね? バカな女だって」


 本当に馬鹿馬鹿しい話だろう。

 仕事先で偶々出逢った適当な男の人に現を抜かして。

 少し優しくされて、楽しく話ができただけで“本当の意味で”愛されているなんて勘違いして。

 滑稽な事にその相手も自分を心から“愛している”と盛大に錯覚している。


 「彼はね、私を愛しているんじゃない……“誰かを愛している”自分を愛しているだけ……」


 彼が本当に愛しているのは、“自分の思い通り”になる栗花落要であり、その相手になってくれそうだった彼女に依存しているだけ。

 ただ彼は要を支配したいだけであり、そんな自分を愛しているだけに過ぎなかったのだ。

 そんな真実に最後になってから気付いた自分に、要は内心自嘲した。

 ねぇ、今の私はもう君の知っていた栗花落要じゃないんだよ。

 十数年前、島で友達だった女がこんな浅はかで愚かな人間に成り下がったって分かって、君はどう思ったかな。

 母親にも打ち明けられなかった心の内のものを全て吐き出した清々とした気持ち。

 同時に大切なものをまた一つ失ったような感覚に、瞳の奥が焼けつくのも感じた。


 「要――」


 不意に名前を呼ばれた要は、俯かせていた顔をそっと横へ上げた。

 瞬間、懐かしくも生まれて初めて味わう感触に、双眸を大きく見開いた。

 人形のように固まってしまった要に向かって、幽花は繋いだ手を離さないまま、凛然と告げた。


 「僕は――要が好き――ずっと前から今だって――」


 嘘――まさか。


 要が信じられない目で呆然と見上げていると、幽花は見透かしたように苦笑する。


 「嘘、じゃないよ。あの雨の日、友達になってくれた時からずっと――要は僕の“特別”だった」


 まさか、そんな時からずっと、そんなふうに思ってくれていたなんて。


 「でも、もう、あれから十数年も経つんだよ……?」

 「年月は関係ないよ……要が島を出てからも……僕はずっと君だけを思っていた……君のいない島で暮らしていてもつまらなくて、人生になんの意味も持てないって絶望していたんだよ……」

 「だから、なの……? 幽花、八年前から……」


 話によれば、何がきっかけか定かではないが八年前から幽花は家に閉じこもるようになったという。

 島では生死不明とすら囁かれるくらいだから、徹底して外に出ようとはしなかったのだろう。

 その異様さから要は、幽花は自分と同じ病を患ったのではないか、と疑った。

 もしそうであれば、幽花の真意を不用意に詮索したり、無闇に外へ連れ出そうとしたりする真似は避けたかった。


 「ごめんね……決して要のせいじゃないんだよ……でも、そうなんだ……要のいない島で他の誰かと楽しく笑う気にもなれないし、ましてや好きでもない相手と付き合って結婚して、跡継ぎを残すなんて、吐き気がしたんだ……っ」


 幽花は決して要を責めたりなんかしなかった。

 けれど、幽花の要への想いが純真なものであり、故に彼をひきこもらせたという事実は、彼女の胸を突き刺した。

 そうか、これは幽花なりの全身全霊の抵抗と叫びだったのだ、と。

 十数年前、要が幽花を置いていったから――要がそうさせた。


 「っ――幽花、私――っ」


 津波のように押し寄せる悲しみと罪悪感に、要は潰されそうになる。

 幽花には謝りたくても、これ以上は謝れなかった。

 言葉だけの謝罪なんかは、時を巻き戻すことも、傷を癒すこともしてくれない無意味な自己満足でしかないからだ。

 今の要にできる精一杯のことは、ただ目の前の幽花を抱き締めながら泣くことだった。

 閉ざされた瞼の裏から零れ伝う涙が、幽花の肩口を濡らす。

 けれど、幽花は不快そうにするどころか、むしろ恍惚とした眼差しでそれを眺めていた。


 「好きだよ――僕、ずっと信じて待っていたんだ――必ず帰ってくる――これで」


 ずっと一緒にいられるね――。


 私だって、そうできるのなら、どれほど救われるのだろう。

 何のしがらみも無く、あの頃みたいに二人で無邪気に過ごせたら、どれほど幸せなのだろう――けれど。


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