第二章⑤『花山院幽花』

 白い外壁に囲われた漆黒の瓦屋根の木造屋敷。

 青々とした竹垣と百合の花で飾られた荘厳な門構えに設置されたインターホンへ、要はゆっくりと指を置いた。

 程なくして、お手伝いさんらしき女性の声が響いた後、要は声を絞り出す気持ちで静かに名乗った。


 結局は逢えないのかもしれない。

 門前払いを受けるのかもしれない。


 話によれば、花山院幽花は八年前からひきこもっているとのこと。

 家の外に出ず、島の人間とも接触を絶っており、生きているかどうかもよく分からないとのこと。

 そんな状況で花山院の人間が家族以外の人間と子息を会わせようとしてくれる可能性は低い。

 しかも相手は子息の同級生とはいえ、十数年前に島を出ていた“裏切り者”のような存在。

 しかも、“他所者の嫁”の娘として島中でさりげなく蔑まれていた人間を、名家の人間が認識していないとは思えない。

 そんな不安や緊張を噛み殺しながら、返事を待つ数秒間はひどく長く感じた。


 「どうぞ、お上がりください」


 門の向こう側からサンダルの足音が聞こえてくると、淑やかな声と共に扉が開いた。

 相手はインターホンから響いたのと同じ声をした女性で、お手伝いさんらしく着物にエプロンを巻いていた。

 お手伝いさんに恭しく招かれ、要は家の中へと案内される。

 木枯らしの舞う石畳。

 古びた木造玄関の扉。

 滑らかな漆の床と壁の廊下。

 襖の向こう側に広がる和室。

 百合の花咲く中庭が見える位置に置かれた艶やかな漆のテーブル。

 一つ一つを跨ぐごとに、暗黙の試練を通り越えているような緊張感を覚えた。


 「それでは、こちらで少々お待ちください」


 藤色の座布団に腰掛けた要へ緑茶と茶菓子を用意したお手伝いさんは、粛々と頭を下げて退室した。

 恐らくは花山院の当主でもある幽花の父親を呼びに行ったのだろう。

 事前の連絡もない予期せぬ来訪だったため、色々と準備がいるのだろう。

 さすがに無礼だったかもしれない、と自分でも内心反省した。

 実は幽花の父親とは一度しか顔を合わせたことがなかった。

 しかも、父親は同級生を紹介する息子に向かって「そうか」と厳粛に返事をしただけだった。

 要本人には一瞥もくれなかったため、その時点で他の島民の大人と同じく要を嫌っているのだと思った。


 そのため、自分が栗花落要だと分かったうえで、こうして自分に敷居を跨ぐことを許してくれたのは意外であり、同時に一抹の不安もあった。

 それでも、百合島に帰ってきてから、心の奥底で抑えていた感情が花開いていくのを感じた。


 この島で唯一人、私に優しく触れてくれた幽花。

 私を他所者でも島の仲間でもなく、ただの栗花落要として見てくれた人。

 私を“友達”だと呼んで笑って――“味方”だと泣いて抱きしめてくれた。

 もう今はそう思ってくれていないのかもしれない。

 それでも、逢えなくても、せめて私は伝えたかった。

 私はここにいるよ――あなたを忘れなかったよ、と――。

 

 あれから十分程経っただろうか。

 緑茶も飲みやすい温度まで冷めた頃、襖の扉が開いた。

 木の葉が落ちるように、けれど決して乱暴ではない丁寧な早さだった。


 「……かな、め――?」


 十数年前とは異なり、ずっと低い声だった。

 けれど川のせせらぎのように澄み渡るような声色、静穏な呼び方は昔と変わっていなかった。

 まさか、本当に――。

 弾かれたように顔を上げた要は、開いた襖の前に佇む長身の相手を見据えた。


 「っ――ゆう、か」


 白百合のように白く澄んだ肌に、血色の淡い唇。

 黒鳥の羽みたいに艶やかな髪は、すっかり伸びて肩で揺れている。

 昔は同じくらいだった身長は要を遥かに越してしまった。

 けれど、堀の深まった顔に残る面影が物語る――間違いなく“彼”だと。

 昔と変わらない夜の水晶玉にみたいに深みに澄んだ瞳が訴える――そう、ずっと――。


 「おかえり、要――ずっと、信じて待っていたよ――」


 すっかり大人びた幽花に微笑まれた瞬間、考えるよりも先に要の手と足は動いていた。


 「っ――ただ、いま――幽花――っ」


 幽花は要の伸ばしてきた手を取らなかった代わりに、そっと羽みたいに両手を広げた。

 戸惑う要を他所にそのまま彼女で両腕に優しく閉じ込める。

 それから要の頭を抱くように撫でながら、耳元で囁く。


 「要……要、要――っ」


 まさか、逢ってくれるとは思わなかった。

 こうして、また優しく名前を呼んで、触れてもらえるとは夢みたいだ。


 「っ……ごめんね、幽花……っ」


 自分を抱き締める両腕は逞しくて力強く、顔立ちにも精悍さが増した。

 それでも自分を呼ぶ優しい声も、自分を包み込む無垢な温もりも、何一つ変わっていない。


 「どうして、要が謝るの……?」

 「だって……勝手にこの島を離れた……幽花に何も言えなかった……っ……ずっと“友達”だって、約束していたのに……っ」


 百合島を離れるしかなかった――私が無力な子どもだったから。

 弱かった私は、幽花と一緒にいる幸せよりも、島にいる苦しみから逃げることを選んでしまった。

 百合島の辛い思い出も、いじわるな島民のことも一緒に、大切な友達だった幽花のことまで無意識の底へ押し沈めた。

 もう逢えない罪悪感や寂しさから逃れるように、忘れようとしていたのかもしれない。

 けれど、本当は心の底では――。


 「……もういいんだよ、謝らないで、要……僕はちゃんと分かっているつもりだから……」


 幽花は要を抱きしめて離さないまま、穏やかに囁いた。

 要の葛藤も悔恨も全て理解しているとばかりに。


 「こうして帰ってきてくれた……それだけでも、嬉しかったから……」


 母親と再会した子どものように切なく、姉に縋り付く弟さながら無邪気に腕へ力を込める幽花。

 たとえ十数年もの年月が過ぎても、忘れないでいてくれた。

 昔と変わらない優しさで自分のことを分かってくれている。

 互いに身も心も変わってしまっても、同じ温もりで触れ合える。

 ただ、それだけで、救われる想いだった――。


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