第一章⑦『百瀬梨花』

 百合島で生まれた要が、狭い外の世界で体験したのは“いじめ”だった。

 都会の女が嫁いできただけでも、当時はかなり珍しかったらしい。

 要の母親は清楚でか弱く、美しい女性であり、田舎では十分に目立っていた。

 しかも嫁ぎ先は、ビャクゴウを始めとする市販薬を販売して儲けている、田舎では裕福な部類に入っていた栗花落家の跡取り息子だ。

 島中の人間から嫉妬や羨望、好奇の目に晒され、故に排斥される理由は理不尽ではあるが十分にあった。

 しかも、それは“他所者の娘”である要に対しても、例外無く向けられたのである。


 「……」


 森彩花。萩野太一。草部一也。

 百合島の小学校に通っていた要の同級生。

 要をいじめていた三人はもうこの世にはいないのだ。

 そう伝えられても、何だか未だ実感が湧いてこない。

 安堵とも失望ともつかない、不謹慎で複雑な感情を抱きながら、要は三人――、そしてもう一人のことを思い出していた。


 「もう、どこへ行っていたの? 急にいなくなるから心配したわよ」


 丘へ繋がる険しい坂道を何とか登り歩き、ようやく総合病院へ戻ってきた頃には昼を過ぎていた。

 急に病院から姿を消した要が戻ってきた母親は、呆れながらも安堵を漏らしてきた。

 ふと言われて携帯のスマホを見れば、母親から着信とメールが入っているのに気付いた。


 「ごめんなさい……ちょっと、用事を思い出しちゃって……」


 我ながら苦しい言い訳だが、母親は首を傾げながらも深くは追求してこなかった。

 母親曰く、父親は本日最後の検査を終えて、昼休憩に入っているらしい。

 ちょうど院内食堂で昼食を取ろうとしていた母親に誘われて、要は力無く返事しながら歩き出した。

 今は腹ごしらえをすべきだろうが、あまりお腹は空いていなかった。


 「あのね……お母さん……」

 「どうしたの、要」

 「……ううん、何でもない」


 不意に例の三人を覚えているか、と問いかけて、止めた。

 要が学校でいじめを受けたことについては、母親はかなり悔やんでいる。

 娘までいじめられたのは、他所者である自分のせいだと、母親は自責の念に駆られた。

 当時の思い出したくない事を蒸し返すのも、申し訳なくて訊けなかった。


 『ここにいる間、何かあればいつでも連絡をくれてもいいから』


 だから、自分の手で調べてみるしかない、と思った。

 親切なことに、森叔母さんが渡してくれた連絡先のメモをカバンの中で大事に撫でた。

 昼食を取った後、母親は先に父親の病室へ、要はトイレに行くと言って異なる方向を歩き出した。


 正直、怖いし、気も進まない。

 けれど、確かめなければいけない気がした。


 要は院内の廊下を慎重に歩き回り、四階へ続くエレベーターに乗り上げる。

 そう、確か、この廊下を真っ直ぐ奥へ行った先に……。


 [四〇四号室 百瀬ももせ梨花りか


 心のどこかでは気のせいであって欲しかったのかもしれない。

 けれど、目に映り込む名前は確かに“あの”百瀬梨花だった。

 十数年ぶりに顔を合わせる百瀬梨花が、自分を見てどんな反応をするのか。

 まるで“あんな事”なんてなかったかのように、笑顔で再会を喜ぶのか。

 それとも、逃げるように去ってから、今更帰ってきた自分を嘲笑うのか。

 緊張と恐怖で胃が引き攣り、足がすくみそうになる。

 けれど、唯一未だ生きている百瀬梨花なら、詳しく知っているのかもしれない。

 不審な死を遂げた三人の事件についても。


 そして“彼”の現在についても――。


 扉を恐る恐るノックしてみたが、待っていても沈黙が流れるのみで返事はなかった。

 もしかして、検査か何かで留守にしているのだろうか。

 落胆と安堵を同時に噛み締めながら、要は踵を返そうとした。


 「いっ――!?」


 突如、火を押し当てられたような鋭い痛みが左胸に走った。

 激しい痛みは一瞬で治まったが、左胸辺りは未だ熱がこもったように疼いている気がした。

 まただ……以前にも、時々、こんな風に左胸が熱く、疼くように痛むのを感じた。

 原因は間違いなく、この不気味なアザだ。

 けれど、このアザが一体何なのか、どういう時にこんな痛みを与えてくるのか不明だった。

 左胸は未だ熱いのに、脳髄が凍りつきそうな薄気味悪さと恐怖を感じている最中。


 「……ぅ……あぁ……ぅぐっ……っ!」


 苦悶に満ちた呻き声が耳朶を掠めた。

 そっと耳を澄ませてみれば、苦しげな声は間違いなく百瀬梨花の病室から響いてきた。


 「うぅ……あぅあっ……ぐぇっ……えあぁ……っ」


 しかも、喉を捻り潰したように苦しげな呻き声は段々と大きくなっていく。

 固唾を呑んで耳を澄ましている内に、要の手は扉にかかっていた。


 「失礼、いたします……っ」


 個室になっている室内には、洗面所と小さな冷蔵庫にテレビ、窓際には一つの寝台が設けられている。

 真っ白な寝台には、こちらに背を向けてうずくまる患者の姿があった。

 百瀬梨花は記憶の中と同じ長い髪を振り乱しながら、首元を苦しそうに押さえつけている。

 声をかけるのを躊躇する代わりに、足は徐々に近づいて行く。

 手を伸ばせば触れられる距離まで迫った瞬間。


 「あぅあぁぁ……っ!」


 こちらへ背を向けていた百瀬梨花が勢いよくのけぞった。

 途端、要は口元を押さえて、声にならない悲鳴をあげた。


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