第一章⑤『同級生』
今振り返れば、苦い記憶ばかりの過去で唯一“彼”の存在に救われていた。
過去を追想することで喉から胃が痙攣するような気分の悪さを感じても、多少は正気を保っていられるのだろう。
けれど、今は“彼”の存在おかげというよりかは、ただの時間という薬のおかげであり――それが少し寂しく感じた。
「本当にごめんなさいね、要ちゃん。辛かったのに、無神経だったわよね……」
茶水晶に澄んだ麦茶の向こう側で、涙を溜めながら謝る森叔母さんに、要は力無く首を振った。
「いえ、そんなことは……私こそ突然、お邪魔してすみません……」
「そんなこと、気にしなくていいのよ。楽にしていていいから」
先程、病院の麓にある港で気分の悪くなった私の背中を撫でて介抱してくれた森叔母さん。
この近くに住んでいるから休んでいって、と家へ招いてくれた。
懐かしく香しさに澄んだ麦茶と束の間の休息のおかげか、少しだけ楽になった気がする。
「……」
玄関に飾られていた写真には、百合花畑を背景に微笑む森叔母さんと小学校の娘である“彼女”。
恐らく父親が撮ったのだろうが、当人の気配も痕跡も部屋からは少しも見当たらない。
昔と変わらない森叔母さんの親切心や、初めて踏み入れた家具の匂いと“彼女”の痕跡に、ほんの少しだけ居心地が悪くなる。
「安心して……というのも何だけれど、あの子は一度トーキョーへ行ったから」
「そう、なんですか」
あの子――
思えば、都心の大学に通うために地方の実家を出るのはもう珍しい話ではない。
ただ、小学校時代の同級生だった“あの”森下彩花も、まさか自分と同じトーキョーに居たとは。
もしかしたら、互いに気付かない内に街中ですれ違っていたのかもしれない。
けれど、要にとって想像するだけで背筋が冷える話は、そこに留まらなかった。
「それと……
森叔母さんから立て続けに出た名前に、要は舌の上に苦いものが広がるのを感じた。
要にとっては今耳にしても忌まわしい響きだが、懐かしさや僅かな好奇心が彼女を逃してはくれなかった。
「そうですか……皆……お元気、してますかね?」
当たり障りのない世間話のつもりで何気無く話を振った要だが、次の瞬間に“失敗”だったと判明した。
「っ……ごめん、なさい……」
森叔母さんはまた泣いていた。
先程と同じく口元を押さえて震えながら。
よくよく観察してみれば、森叔母さんにも深い隈が浮かび、枯れ木のようにやつれている。
もしも、昔のように優しく話しかけられなければ、泣かれなければ、森叔母さんだとは直ぐに分からなかっただろう。
彼女の尋常ならぬ様子から、自分が聞いてはいけないことを訊いたのは明白だった。
これも、よくある話だ。
我が子の起こした“トラブル”を機に家族が不仲になり、互いに離別を歩んでしまうことも。
我が子が狭い場所から広い世界へ旅立ったきり、二度帰ってこなくなることも。
「……よかったら、こっちへ来てくれる?」
森叔母さんに遠慮がちに問われ、要は迷いなく頷いた。
椅子からゆっくりと立ち上がった森叔母さんに案内されて、要は居間から直ぐに繋がっている襖の前に立つ。
襖に指をかけたまま、森叔母さんは振り返らずに呟いた。
「……こんなことを言うのはなんだけれど……私達にとっては、たった一人の大切な娘だったの……」
「はい……」
「だからこそ、私達はあの子を許すことはできなかった……でもね、今思えばきっと……あの子もただ、怖かっただけなのかもしれない……だから……」
要だけは言葉の意味を薄々理解しながら、ただ力無く肯いた。
一通り言い終えたらしい森叔母さんは、手にかけていた襖をようやく横開く。
瞬間、畳の井草の匂いに混じって線香の芳香が漂ってきた。
畳の左奥には、仏壇が設けられていた。
何も話を聞かなければ、森叔母さんの両親か父親へお線香をあげよう、と思うくらいで済んだに違いない。
「……」
仏壇の中央に飾られていた遺影には、“それらしい”顔皺も白髪も見当たらなかった。
代わりに瑞々しく明るい茶髪のショートヘアに、つけまつ毛とアイライナーで強調した両眼、艶やかな唇で描いた笑顔があった。
「ただいま、彩花……要ちゃんがね、来てくれたのよ……ちゃんと、ごあいさつしてね……」
今ここで初めて合わせた女の顔には、確かに記憶で手繰り寄せられる“彼女”の面影があった。
「どうして……」
「“死んだのよ”……彩花は……二十歳の時、交通事故で……っ」
それは“よくあること”の内の最悪なことが揃っていた。
“あの時”――彩花本人からは作り物みたいな謝罪だけをもらい、互いに真っ直ぐ目も合わせることができなかった。
それから直ぐに要は母親と共に百合島を出たため、彩花とはそれっきりだった。
まさか今になって、生者と死者として再び顔を合わせるとは想像もしなかったが。
“あの”森彩花が死んだと聞いて、要は、また別の苦いものが口に広がるような、何とも言えない気持ちになった。
しかし、要をさらに複雑な想いにさせたのは、彩花の件に留まらなかった。
「萩野君と草部君も亡くなってしまったの……」
「二人が……?」
「ええ……しかも、草部君は“首つり自殺”だったから……島中で噂になって……」
それからというもの、森叔母さんは堰を切ったように、三人の死やそれに纏わる話を詳しく語ってくれた。
もしかしたら、叔母さんも誰にも打ち明けられずに苦しんでいたのかもしれない。
森彩花は二十歳の時、大学へ向かう道中、車に轢かれて死亡。
萩野太一は二十三歳の春頃、飲み屋で揉めた不良客から暴行を受けた末に亡くなる。
草部一也は二十六歳の梅雨時、自室で首を吊って死んでいるのを家族に発見される。
事実のみを切り取って語られると、随分と淡々とした気持ちになる。
それにしても、この三人が立て続けに亡くなったというのは、果たして単なる偶然なのだろうか。
要の胸には暗鬱としたおぞましい感触がとぐろを巻いているのを感じる。
「これは近所や知り合いから聞いたお話なんだけどね……草部君は死ぬ寸前……数年前から“ひきこもり”になっていたらしいの……」
「……うつ病か何かだったのでしょうか……」
ひきこもりの末に自殺を招きやすい病といえば“うつ病”が真っ先に頭へ浮かんだ。
精神保健福祉士として心療内科クリニックに勤めてきた要は、そういった患者を多く見てきた。
うつ病の症状によって苦しみ、ひきこもらざるを得なくなり、どうしようもなくなった末に自死を望むこともある。
うつ病になった人間は、心だけでなく身体まで無気力に蝕まれ、今までの自分を奪われて、生きる意味も自分の価値も失って絶望していくのだ。
皮肉ながら、最近になってシェルターにいた医者から診断を受けた要にも、ひどく馴染みのある感覚となった。
「はっきりしたことはよく分からないけれど……ああ、そういえばね……」
残念ながら草部の自殺の理由などのより詳しい背景ついて、これ以上は叔母さんは知り得ないらしい。
代わりに叔母さんは思い出した様子で、引き出しから一枚の写真を取り出した。
「これ……申し訳ないけれど、気味が悪くて……けれど、気になっているから……一緒に確認してくれるかしら……」
気色の悪い毒虫に見て触れたような顔色で、叔母さんは申し訳なさそうに懇願する。
ここまで来れば、引き返せない気持ちになった要はそっと写真を覗き見た。
「……これ……何なんですか……どうして……っ」
「あの子が亡くなった際に、警察の方が気になって撮影したらしいのだけれど……どうして、こんなものを……」
事故の衝撃によって破れた衣服から剥き出しになった背中の写真。
背中の中央辺りは皮が剥がれたように赤黒く、筋繊維まで覗くおぞましい創傷があった。
しかし、それ以上に目を引いたのは、左肩辺りに咲いている真紅の花みたいな模様だった。
「どうして、これが……」
「要ちゃん……大丈夫? ごめんなさい……怖いもの見せてしまって……」
「いえ、そうではなくて……っ」
顔面蒼白になって強張る要の瞳に映る赤い花。
百合の花びらみたいに広がり、心臓の筋繊維みたいに浮き出た真紅。
まさに要の左胸に浮かんでいるのとまったく同じアザだった。
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