第一章③『百合島病院』

 懐かしい人形達に見つめられながら、浅い眠りに沈んでいた夜を超えて。

 要は母親と共に二時間に一本しか来ないバスに乗り、父親が入院中の百合島病院に着いた。

 百合島病院は坂道を登った先にある丘の上に佇む、島で唯一の総合病院だ。

 真っ白に塗られた壁に深緑の蔦が隅で絡みついた、趣のある建物内へ要達は入っていった。

 総合案内所で受け付けをし、担当の看護師に案内された病室に、父親の姿はあった。


 「……大きくなったな……要……」


 昔、父親に名前を呼んでもらった記憶は数えるほどしかない。

 今回は何だか初めて名前で呼ばれたような違和感を覚えたのには、理由が明白だった。

 十数年ぶりに再会した父親は、記憶と想像を超えて老け込み、だいぶやつれていたため、要は内心動揺してしまった。

 元々日に焼けていた肌と手足は、枯れ木のように痩せ細っている。

 くすみ青紫の隈が浮かぶ顔や声にも生気が欠けている。

 事前に受けていた説明曰く、がんの摘出手術は三日後に迫っている。

 しかし、目の前の父親は苦行のがん手術と抗がん剤治療を長年繰り返した末に死に近づいている末期患者そのものだった。

 変わり果てた父親の姿に愕然とする要を他所に、母親は担当看護師と共に予定の打ち合わせを始めた。


 「まず、栗花落さんの体を精密検査して、治療に万全な状態を確認したうえで摘出手術を行います」


 父親のことであるはずなのに、名字で呼ばれると、自分の事のように不安に囚われそうになる。

 離婚した際、どういうわけか父親は親権を渡す代わりに、『栗花落』からの娘の除籍だけは拒否したとのこと。

 母親はどうせ女の子で結婚すれば名字は変わるし、と深くは考えずに父親の要求を快諾した。

 何故に父親が栗花落の名、と娘の籍と名字にこだわったのかは定かではない。

 少なくとも、優しく頭を撫でたり、愛しそうに名前を呼んだりしたことのない娘への愛情や執着ではないのは確かだ。


 考え事をしている間に、先ずはがんの転移の有無を確認するための検査を受けるために、父親と共に案内された。

 検査受付所に着くと、父親だけは奥内へ案内され、要と母親は廊下にある待合椅子で待つことになった。


 「……」

 「……」


 どこか沈鬱とした雰囲気によるものだろうか。

 暇潰しに母親と雑談して待つことにも不謹慎さや罪悪感が生まれてしまう。

 途中、トイレに行きたくなった要は、母親を残して廊下を歩き出した。

 命を治して救う場所である病院、と医療者に対して不謹慎かもしれないが、病院を好きな人なんてどのくらいいるのだろうか。

 空虚な白い空間に漂う薬の匂いに、傷病と死の気配。

 じっと目を凝らして見渡せば、そこらを徘徊するのは身も心も朽ちかける寸前の命達。

 子どもの頃はそんな病院がひどく怖かった。

 けれど、幼かった要は未だ知らなかったのだ。


 「え――」


 この世にはさらに恐ろしいものが存在することを。

 しかも“ソレ”は、生まれた時からずっと自分の身近に棲みついており――死ぬ時まで永遠に離れてくれないものだということを。


 [四〇四号室 百瀬ももせ梨花りか]


 偶然、道中の廊下で何気なく視界へ入れた或る病室。

 今にも横開きそうな扉の横に刻まれた患者名を視認した瞬間――気付かない内に、要は病院の外へ駆け出していた。


 いる――あいつが、いる――?


 “あの”百瀬梨花が――この病院に――っ。


 私を――てきた、あいつが――。


 「ねぇ、大丈夫かしら?」


 突如、後ろから肩に優しく触れられ、声をかけられた要は、弾かれたように振り返った。

 目の前には地元の者らしき中年女性がいた。


 「あなたよ、大丈夫? 顔色悪いけれど……」


 化粧気はなく日にも焼けているが、シミの少ない滑らかな肌。

 猫の描かれたTシャツにジーンズ、サンダルという軽やかな身なりからも、気さくな雰囲気が見て取れた。


 「あの、すみません、私……」


 我に返って辺りを見渡すと、船の浮かぶ海原や、砂利道に停まった小トラックがある。

 後ろを振り返れば、白い巨塔が覗く緑、その内赤い彼岸花がちらほらと咲いているのも見えた。

 いつの間にか、病院の建つ丘を駆け降りて、麓にある港まで来てしまったらしい。


 「ひどい汗ね。これ使っていいわよ」


 要を心配した中年女性にタオルハンカチを手渡される。

 一瞬躊躇したが無碍にもできず、要はそっと受け取った。

 全速力で丘を駆け降りたからだろう。

 だいぶ息が切れて、額から首筋まで汗だくになっていた。

 涼やかな水色のハンカチに汗が吸収される感触に、身も心もさっぱりとしてきた。


 「本当にありがとうございます。綺麗に洗濯したうえで返しますね」

 「あらあら、いいのよ。それくらいたくさんあるから」

 「いえ、そういうわけにはいかないので……」


 本当に人の良い叔母さんだ。

 困っていたり、具合の悪そうな人がいたりすれば、当たり前のように声をかけて手を差し伸べる。

 きっと、そういう人なのだろう。

 人の真っ直ぐな善意を集めたような微笑みに、要も緊張に固まっていた胸が解れるのを感じた。


 「最近見かけない顔だけれど、観光か何かで?」

 「いえ。子どもの頃はここで暮らしていたんですが、引っ越して……久しぶりに帰ってきたんです」


 最低限の事実のみを拾って、差し障りなく答えてみる。

 狭い百合島であれば、最近地元で見かける顔か否かは当然、返答のみで“どの家”のことか分かってしまう。

 無駄な抵抗のように感じるが、離婚や引っ越しの理由など、不都合な事実を伝えれば、そのまま地元民の肴にされるのも癪に触る。


 「もしかして、あなた……栗花落さん家の……かなめちゃん……?」


 しかし、要の試みは虚しく空振りに終わったらしい。

 簡潔な返答のみから、要の素性を即座に言い当てた叔母さんに、内心面倒な気持ちになった。

 相手が地元にいた人間だと分かった瞬間、帰省してくれたことへの歓喜やら、好奇心からの質問の嵐が来るのは想像に難くない。


 ガタンッ――。


 しかし、要の耳朶を撫でたのは、一方的な歓喜でも軽蔑でもなかった。

 音がした先を目で辿ると、地面にはバケツが転がっていた。

 どうやら叔母さんが手から離して、落としてしまったようだ。

 要が目を見開くのも、無理はなかった。


 「っ……ごめん、なさい……」


 両手で口元を押さえながら、体を震わせていた叔母さんは、そう零した。

 両眼に溜まった涙は瞬く間に、ボタボタと零れ伝い、地面を濡らしていく。


 「……なのに……帰って、きてくれたのね……?」

 「あの……一体、何のことでしょうか」


 今ここで会ったばかりの自分へ涙ぐみながら謝罪を零した叔母さんに、要は首を傾げてみる。

 何だか、嫌な予感はした。

 途端、目の前で涙する叔母さんの姿に、古い記憶に封じていた面影を薄々と感じ取れてきた。


 そうだった――。

 “十数年前も”、この叔母さんは私に謝ってきたのだ。

 こんなふうに――。


 『ごめんなさい――っ――うちの――が――っ』


 あの瞬間の虚しさが――理不尽な罪悪感が――蘇ってくる。

 同時に芋の蔓を手繰り寄せるように――蘇ってくる。

 あの忌まわしき記憶――おぞましい顔と笑い声が――雪崩れ込んでくる。


 猛烈な吐き気と同時に眩暈を感じたが最後、世界は落ちて、闇に呑まれていった。


 [森家ノ墓]


 平衡を失って地面に伏せた要、心配する中年女性の姿を、一つの墓石が丘の上から見下ろしていた。


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