第一章②『白百合の丘』
九月の残暑の残る風がふわりと吹き付けてくる。
久しぶりの島の世界は黄金色に染まっていた。
太陽の光を浴びて燦々となびく稲穂の田んぼに、羽ばたく雀の仲間。
雑草生い茂る道には、三つ葉畑やたんぽぽがひっそりと揺れて、足首をくすぐる。
遠くから見える港の海には小舟と共に黄金色の夕日が波打っている。
のどかで眩い風景にまるで世界には自分一人しかいないかのように錯覚させられそうだ。
偏狭な島の人間はあまり好きにはなれないが、都会には決してない自然の煌めきに心洗われる。
そう、確か少しだけ歩いたこの先に、あったはずだ。
自宅から西へ数十歩歩いた辺りにある小さな丘へ繋がる小道を、駆け上がってみせる。
子どもの頃には険しく感じられた小道は上がるには容易かったが、ひどく狭くて草木が痒かった。
「懐かしいなあ。まだ咲いているんだ……」
深い樹々に囲まれ、空が覗く小さな丘には白百合の花がまばらに咲いている。
子どもの頃は、この秘密の花畑がお気に入りで放課後はよく立ち寄っていたものだった。
誰の足も手入れも踏み入らない場所なだけあって、雑草が深くなりすぎているが。
それでも、自分の心を密かに慰めてくれていた“自分だけが知る”白百合の花が変わらず綺麗に咲いている。
良い思い出が少ないこの島に帰ってきて、初めて要は嬉しさを覚えた。
そう、辛い思い出しかないこの島で、私が何とか耐えられてきたのは――“彼”の存在もあったから。
「あれ……」
白百合を眺めていた最中、要はある違和感に気付いた。
気になってもう少し近くで見てみようと要は一、二歩踏み込んだ。
グチャッ……。
「……!?」
右足裏に何か柔らかくてヌルッとした物体を踏みつけた感触に、思わず要は目線を勢いよく下ろした。
「あ……」
慌てて右足を避けた場所には、真っ赤な花びらと汁を散らした花――違和感の正体が存在していた。
ここにも咲いていたんだ。
遠くから見えていたのは、白百合の群れに混じって寂しげに咲いていた“赤い百合の花”だった。
物珍しさから近付いて確認しようとしたら、足元にも咲いていた赤百合に気付かずに踏んでしまった。
無惨な姿になった花の残骸と赤い汁に、何だか花に申し訳ないことをしたと感じた。
要は花の前でしゃがむと、手を合わせて小さく謝罪を零した。
「そろそろ帰ろうかな……」
気を取り直して立ち上がった要は、来た道を戻るべく踵を返す。
しかし、要の顔は薄らとした影で遮られた。
「誰……!?」
要が驚くのも無理はなかった。
振り返れば直ぐ目の先に人が佇んでいるからだ。
「……」
突如、足音も気配もなく現れた存在感に、一瞬“彼”を期待してしまったが、残念ながら大いに外れた。
相手は要よりも頭一個分ほど背の高い長髪の女だった。
誰だろう……まったく見覚えも心当たりもない人だ。
臀部にまで届く長い黒髪に、白い二の腕が剥き出しになった黒いワンピース姿は、何だか異質な雰囲気を放つ。
何よりも異質だったのは、目の前の要を見ているようで見ていない薄水色の瞳だった。
「あなた……“良くないもの”がついているみたいね……」
湖の底から浮かび上がったように静かで、冷たく響く声だった。
長髪の女が言い放った意味深な言葉に、要はただ首を傾げるしかなかった。
「左胸……つかれているのね……」
けれど、女が要の方へ指を刺しながら零した台詞に、今度こそ戦慄を覚えた。
何で……。
言葉を失う要を他所に横切っていく女は、耳元で静かに囁いてきた。
気をつけなさい……。
何の変哲もない警告の言葉は、意味を薄々理解した要の耳朶へ、重く冷たく響いてきた。
「あら、おかえりなさい。バスの時間は分かった?」
急いで丘を降り、走って帰ってきた要は、真夏に当てられたかのように汗だくになっていた。
慌てているように見える娘の様子に、母親は心配そうに問う。
しかし、要は「何でもないよ」と苦笑いするのが精一杯だった。
「こんなにも汗かいて……九月でもやっぱりこっちは暑いのねぇ。シャワーでも浴びてきたら?」
母親の何気無い気遣いに、要は密かに感謝しつつも名案に乗った。
懐かしくも狭く感じられる脱衣所で、汗濡れのシャツとロングスカートや下着を脱ぎ捨てる。
浴室の床や天井の隅に咲く、微かな緑色の黴びに眉を顰めながらも、要はお湯をシャワーで出す。
「……」
透明な水垢に霞む浴室の鏡に薄らと映り込む要自身。
剥き出しの白い肌で唯一映える胸元の“赤い花”。
十九歳の冬――灼けるような痛みと共に突如浮かび上がった、原因不明のアザ。
左胸を中心に花のように広がり、今にも蠢きそうな血管らしき筋の浮かび上がるソレは不気味だ。
このアザが原因で最初の彼氏には気味悪がられ、振られてしまった。
二人目の彼氏である渡利は一応理解を示してくれたが――。
このアザが一体何なのか、未だよく分かっていない。
このアザが出てから、時々灼けるように痛みだし、気分が沈んで外にも出たくない日があるくらい。
先程の女性に言われずとも、自分にとって良くないものだというのは自明だ。
それでも医者にすらどうにもならないアザは、自分では尚更どうにもならないだろう。
諦めの気持ちで溜息を吐きながら、要は汗冷えた体をお湯で温めていった。
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