第一章①『百合島への帰還』

 百合島――百合の花の名産地とも謳われる、人口一万五千人程度の小さな田舎の島。

 百合の花の生薬である『ビャクゴウ』は肺を潤す咳止めとリラックス効果があり、その市販薬も島の名物だ。

 若い頃に喘息を患っていた母親はビャクゴウを求めて、百合島を訪れた。

 母親は百合島で出逢った男と仲良くなり、結婚して娘である要を産み育てたのだ。

 まさか、離婚で出て行った母親と娘も、百合島へ十五年ぶりに帰ってくるとは思わなかっただろうが。


 「まったく変わってないわねぇ、この家は」

 「そう? それにしても缶が多すぎない?」


 家主が留守にしている十五年ぶりの我が家は、配置こそ変わっていないが、荒れるに荒れ放題だった。

 冬にはコタツとして使われるテーブルには、ビールの空き缶も吸殻のゴミもそのまま。

 台所の流しには脂汚れがこびりついたままの食器やカップが積まれている。

 部屋中の床や壁、棚の上には、年季の入った灰色の埃や茶色い汚れが積もっている。

 中庭も草がぼうぼうに生え盛り、木にも蜂の巣やら蜘蛛やら虫が雄々しく生息している。

 

 数年以上前に祖父母が共に病気で他界して以来、まったく手入れをしていないであろう、ずさんさは明白だった。

 ちなみにこの家から最寄りのスーパーへは車で十分近く、総合病院へは三十分近くかかるらしい。

 とてもではないが、清潔で便利な都会暮らしに慣れた人が住めたものではない。

 それでも“やむを得ない理由”を思えば、今ばかりは目を瞑るしかないだろう。


 「それで、明日は百合島病院にはバスで行くんだよね?」

 「ええ。十時には面会時間も開くらしいから、その頃に来て欲しいってお父さんが」

 「わかった……お父さん、大丈夫かな」


 心から漏れた声は、心配というよりはただ確認のための言葉であった。

 きっと母親も同じようなものだったのかもしれない。

 力無く微笑みながら、自分にも言い聞かせるように答えた。


 「お父さんなら、きっと大丈夫よ」


 要の父親は"がん"を患っているらしい――。

 第一に耳をした言葉はあまりにも重大な事実だった。

 母親は元夫の弟からの連絡そのものにも驚いていたが、内容にもさらなる衝撃を受けた。

 それも人が生活するのに重大な臓器の一部に癌細胞が巣食い、術後の様子が今ではまるで予想がつかないらしい。


 不思議なことに、突如がん告知を受けた独り身の父親が最初に取ることにした行動は“別れた妻とその娘に会うこと”だった。

 どういう心境なのかはあまり想像つかないが、自分の生命が危うい状況において、今更ながら“家族だった人間”を拠り所にしたくなったのかもしれない。

 詳細は未だあまり聞けていないが、母親曰く父親は離婚してからは誰とも再婚はしておらず、交際相手もいないらしい。

 幸い、父親の弟夫婦が身元保証人として、医師からの説明を受けたりしてくれたらしいが。


 「お母さん、ちょっと歩いてきてもいい?」


 空き缶をゴミ袋に詰め終えた要は、気まぐれな口調で母親に告げた。


 「いいけど……どこへ行くの?」

 「バス停の時間割を確認しに行くついでに、この辺りを散歩するだけ」

 「そう……ありがとう。気をつけてね」


 本当はこの家に充満する古い記憶の匂いや痕跡を少しでも嗅いでいたくなかった。

 その口実として散歩とバス時間の確認は好都合だった。


 「そうそう……“必ず”暗くなる前に帰る――“神様のお約束”を守ってね」


 娘の背中を見送りながら、母親は思い出したように口を開く。

 昔からそうだったが、百合島では“必ず暗くなる前に全員家に入ること”――という謎の風習というか鉄則が存在していた。

 島民曰く、夜は島の“神様”が通りになる道であり、現世に生きる人間は通ってはいけないとのこと――。

 島民の間ではその鉄則を“神様のお約束”と呼び、大人だけでなく小さな子どもにも厳しく守らせている。

 要も子どもの頃は、日が落ちる前に必ず家に帰るようにいつも言い聞かされた。

 さもなければ、神様によってあの世へ連れて行かれしまうよ、と。

 けれど、大人となった今では、島の子どもが夜遅くまで出歩かないよう危険から守るために生まれた迷信か何かだと分かる。


 「うん、分かっている」


 母親に何気なく返事をすると、廊下へ向かって歩みを進めた。

 玄関で靴を履く自分の後ろ姿を鏡に向けて、扉を押し開いた。


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