最終話 第五章「望郷」

 笠井は久々に母のもとへ帰っていた。


 菩提聖堂を卒業してから三年間、正式な夢幻開現師となった後も、南の下で二年間修業を積んできた。


 シンダラやハイラのような『獣魔侵将じゅうましんしょう』が現れて以来、鬼夢の発生頻度は過去に例ないほど増加していた。また、これまで報告が少なかった海外でも鬼夢の発生が急増している。


 敵はこちらをあざ笑うかのように神出鬼没で、足取りを追おうにも難航していた。師の南が言ったように、人類は常に籠城戦を強いられ、悪鬼たちの侵略を防ぐだけで精一杯だ。そのため、積極的に攻勢を仕掛ける余裕などなく、対応はいつも後手に回ってしまうのだ。


 さらに気がかりなのは、獣魔侵将とともに現れた謎の少女である。獣魔侵将たちは少女を「御方おんかた」と呼んでいたが、菩提府の記録には存在しない。奴らのさらに上位の存在であることは間違いないが、その正体は謎のままだ。


(あれは、一体何者だったんだ…)


 あの少女のことを思い返すと、今でも無意識に手が震える。


 彼女がまとっていた禍々しさの中に宿るどこか神聖な雰囲気が、触れてはならない存在であることを示しているかのようだった。


(あんな化け物とも、今後戦わなければならないのか…)


 そんな考えにふけっていると、母が晩御飯の準備ができたと声をかけてきた。その日は、母の特製お好み焼きだった。


「あんた、そんな下品な食べ方はよしなさい」


「え?」


 母はどうやら、マヨネーズをかける笠井に対して指摘しているようだ。


「いや、これがうまいんだけどな」


「はあ、まったく。そんなところはお父さんにそっくりね」


「そうだっけ?……ああ、そうかも」


 シンダラから記憶の改ざんを受けていたことを暴露されて以来、笠井は失われた記憶のリハビリを続けていた。当初は、父の記憶を思い出すのに苦労したが、治療を続けることで今ではある程度思い出せるようになった。


 それでも、それはあたかも昔見た映画を今になって見返すような感覚であり、どこか他人事のように感じてしまう。


(このことを知ったら、父さんは悲しむのかな…)


「そうだ、母さん」


「ん?」


「今度さ、父さんの墓参りに行かない?」


「え、突然どうしたの?」


「なんか、急にそう思ってさ」


「悪いな、訓練が遅れちまって」


”いや、俺も休みが増えてラッキーですよ!”


「何言ってんだ。お前の訓練は高橋先生に任せてある。ちゃんとやれよ」


”はは、冗談ですよ。笠井先生が戻る頃には、大咒たいじゅをマスターしてますって!”


「よく言う…それと、この前は悪かったな」


”いえ、俺も生意気でした。すみません”


 笠井は、父の故郷である四国の離島に向かった。フェリーに乗り込むと、磯の香りが鼻腔に広がる。かつて父が生きていた頃は、定期的に帰っていたが、父の死後は足が遠のいていた。


(気がつけば、もう十年も前か…)


 笠井は、父の記憶が色褪せたままの自分に、どこか後ろめたさを覚えていた。しかし、これは自分なりのけじめだと心に決める。


 島に到着した笠井は、祖母の実家へ向かう。しかし、そこは更地となっており、祖母の家はすでに取り壊されていた。


「…行こうか」


 母の案内で、二人は島の反対側にある共同墓地へと向かう。母は迷うことなく足を進め、やがて父の墓にたどり着いた。


「お墓、随分ときれいだね」


「叔父さんが時々見に来てくれてるの」


 掃除を終え、花を供えて二人は手を合わせる。しばしの静寂が訪れた後、母が思い出したように話し出す。


「そうだ、これをあんたに渡そうと思って」


 母は笠井に、古びた封筒を手渡した。


「これは?」


「お父さんからの手紙よ」


「え?どういうこと?」


「覚えてない?あんたが十歳の誕生日に、父さんに手紙を書いて渡したでしょ?そのお返しに、父さんが書いた手紙なの…」


「そんなこともあったっけ…」


 封を開くと、父の手紙が入っていた。笠井はそれをゆっくりと読み進める。


「…」


「どうだった?」


「いや、大したことは書いてなかったよ」


 笠井は母に顔を見せないまま、手紙を封筒に戻した。


「それより、雨が降りそうだし、もう帰ろう」


 遠くに見える水面が、きらきらと光り輝いていた。


 夏の暑さは、まだ始まったばかりだ――。

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