最終話 第六章「九頭龍地区」

 その年の夏は異常な猛暑となり、全国各地で過去最高気温を記録していた。


 ここ、中国・九頭龍くずりゅう地区でも、連日の猛暑が続いている。アスファルトに照りつける太陽の熱が反射され、景色はゆらゆらと揺らめいていた。


 それでも、人々の営みが止まることはない。笠井と狛枝が歩く露店街は、多くの人々で賑わっていた。


 現在の九頭龍地区は、多くの観光客で賑わっているが、かつてここは現地民すら寄り付かない場所であった。その理由は、この地区にかつて「黄金迷宮おうごんめいきゅう」と呼ばれるスラム街が存在していたためだ。


 この地区は、清朝時代にイギリスへ割譲された領地の境目にあったため、清国・イギリス双方の管理が曖昧だった。さらに、内戦や世界大戦で住む場所を失った難民たちが、この地域に集まり、バラックを次々に建て始めた。バラック街は、難民の増加とともに増築を繰り返し、やがて一帯に巨大なスラム街を形成していった。


 また、難民以外にも、中国本土から逃げてきた者たちが病院や商業施設、娯楽施設を作り始めた。さらには、犯罪者やマフィアが隠れ家として利用するようになり、人々の混沌はますます拡大していった。


 この巨大なバラック街は、「一度入れば二度と出られない」という噂と、「住む者にとっては唯一の楽園である」という認識から、黄金迷宮と呼ばれるようになった。


 その全盛期、九頭龍地区はまるで一種の王国のような様相を呈していた。しかし、この地域がイギリスから中国へ返還されると、バラック街の解体が決定された。


 かつての繁栄は、今では過去の資料でしか知ることができない。


 しかし、今年の夏、その歴史が覆される出来事が起こったのだ。


 笠井たちに連絡が入ったのは、三日前のことだった。


 その少し前から、九頭龍地区の近隣住民が「黄金迷宮を見た」と証言するようになった。当初は単なる噂話だと思われていたが、証言する者の数が増え、さらに「黄金迷宮へ行く」と言い残して姿を消す者まで現れた。


 事態を重く見た当局が調査を始めたが、そこで彼らは黄金迷宮が再び姿を現しているのを確認した。


 調査隊も派遣されたが、探索中に連絡が途絶え、彼らが囚われた可能性が浮上した。そして、この現象が「鬼夢」によって発生したことが判明し、事態収拾のため、菩提府に協力要請が出されたのだ。


「まったく、もっと早く連絡しろってんだよ」


「まあ、向こうにも向こうなりのメンツがあるんだろう」


 本来なら、これほどの大規模な鬼夢は国家開現師が出動する案件だが、南や徳井たちも獣魔侵将に関する事件の対応に当たっていたため、今回は笠井と狛枝に白羽の矢が立った。


 二人は現地スタッフの案内で、事件の舞台となる九頭龍地区の跡地へと到着した。


 二人の眼前には確かに、ベニヤ板で作られた無数の住宅が、まるで積み木のように天高く積み上げられていた。その光景には、城壁を思わせる圧迫感があった。バラック街には無数の電線が張り巡らされ、切れかけの電灯が路地奥で怪しく点滅している。


 笠井と狛枝は、事前に黄金迷宮に関する資料に目を通していたが、実際に目の当たりにするその姿は、写真以上の怪しげな魅力を放っていた。それは、虫が殺虫灯に引き寄せられるような不気味な魅力だった。


「随分、大きいっすね」


「気を抜くなよ。すでに夢幻開現師も含め、何人もの人間が取り込まれている」


 スタッフの話によると、黄金迷宮は今もなお成長を続けており、わずかな時間でその規模が明らかに拡大しているという。このまま放置すれば、近隣の地区にまで侵食が及び、もはや止めることができなくなる。


「狛枝、今回の俺たちの任務はあくまで露払いだ。それを忘れるなよ」


「分かってますよ。今度はヘマしません」


「お二人とも、芦谷さんも準備されていますので、移動をお願いします」


 二人は設営された基地へ向かう。そこにはすでに芦谷が最終準備を終えて待っていた。今回は、十中八九、獣魔侵将が関与していると考えられており、国家開現師の派遣が決まっていた。


 しかし、南・徳井・長谷川の三名は別任務に当たっているため、彼らの到着まで時間を稼ぐのが笠井たちの役目だった。また、国家開現師がその力を発揮できるよう、黄金迷宮に囚われている住民や開現師たちの救出も重要な任務となる。


 三人は互いの動きを確認し合い、ドリームコンバーターを装着した。


 そして、笠井と狛枝の意識は、今も成長を続ける黄金迷宮へと侵入していった――。

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