第二話④ 第四章「祖母」
その日、笠井は父の後輩である
「それで、おばあちゃんの様子は?」
父方の祖母が体調不良で病院へ運ばれた。母は先に病院へ向かったため、西条が代わりに笠井を迎えに来たのだ。
「うん、今は落ち着いているらしいんだけど…」
そう言うと、西条は言いにくそうにしている。
「現状を教えてください」
「…お祖母さんなんだけど、どうやら認知症の症状も進行していたみたいで、もしかすると亮くんのことも分からないかもって」
父が亡くなってから、父方の実家へは戻っていない。
祖母はとても厳しい人だった。笠井も実家へ戻るたびに怒られたものだ。だが、祖母はいつも笠井の味方でいてくれた。厳しくも、優しいおばあちゃんだった。
「…分かりました」
笠井には元気な頃の祖母しか思い浮かばず、不安を抱えたまま祖母の元へ向かう。
「あら、こちらは新しい先生ですか?」
「何を言っているんだよ、母さん。
「まあ、面白い冗談ですね。息子はまだ小さな子どもですから、孫なんておりませんよ」
笠井は黙っていた。ベッドの上の祖母は、かつての面影はなく、腕や鼻からはチューブが伸び、体はまるで枯れ枝のように細かった。
そして、祖母の認知症もかなり進行しており、過去の記憶と混同しているらしく、家族のことすら認識できない様子であった。
「ば、ばあちゃん、久しぶり」
「あらあ、先生もお若いのに冗談がお上手ね」
笠井は祖母の手を握る。
(ほとんど骨と皮だ…)
その手は骨ばって力なく笠井の手に添えられていた。
(昔はよくいたずらして、ばあちゃんに
「げほっ、げほ!」
突然、祖母がせき込み始める。
「母さん、大丈夫か?
母はナースコールを押す。しばらくして、医師や看護師がやって来る。笠井はその間、病室の外で待っていた。
「亮くん」
西条は飲み物を笠井に渡す。
「ありがとうございます」
二人は廊下の椅子に腰掛ける。
「俺がばあちゃんに会うのを面倒くさがったから…。その罰ですかね」
と、笠井は力なく項垂れていた。
「…。まあ、距離が離れるとなかなか会いにくくなるしな。亮くんも亮くんで忙しかったんだし…。誰かが悪いってわけじゃないさ」
と、西条が答える。
「そうですかね」
「うん、家族じゃない僕が言うのもなんだけど、今の時間を大切にしてあげなよ。それがおばあさんにとっても、亮くんにとっても一番だと思うよ」
「…はい」
しばらくして、祖母の容態も安定し、今は眠っている。
西条は仕事があるからと帰っていった。
それから数日、笠井は叔父の家に泊まりながら祖母との時間を過ごしていた。
そんなある日。母と叔父の家族は買い出しに出かけ、笠井は一人、祖母と過ごしていた。
「いやあ、先生、今日は天気がいいですね」
「そうだね」
今日の祖母は体調が良いようで、いつもよりも話しかけてくれた。
「うちのね、一番上の息子がね、レスキュー隊員をしているんですよ」
「ばあちゃん、それは知ってるよ」
祖母の記憶はとびとびに思い出すようで、今日は最近の記憶を思い出しているようだ。
「あの子はね~、もともとはとっても気が弱くて、よく泣いていたんですよ。そのくせ、弟が近所の子にからかわれていたら、泣きながら弟を守るんですよ」
「へえ、そうなんだ」
父の話に、笠井は耳を傾けていた。
「体力もなくて、学校のかけっこではいつもビリケツで。でも、誰よりも優しくて。いつかは、人を助ける仕事をしたいっていつも言っていましたよ」
意外だった。記憶の中の父は、寡黙で厳格なイメージしかなかった。それが、子どもの頃はそんなだったのかと、笠井は父を思いはせる。
「それが今じゃあ、美人なお嫁さんももらって、孫までできたんですよ。そう、もう少ししたら孫も先生みたいに男前になると思うんですよ」
祖母はとてもにこやかに笑っていた。笠井はあえて何も言わなかった。祖母はかつて輝いていた頃にいるのだ。
「息子もそりゃあ自分の子を愛しておりましてねえ。私が甘やかしすぎだと叱ったくらいなんですよ」
笠井は祖母の言葉に困惑する。
笠井の記憶の中の父は、自分のことを構ってくれなかった記憶しかなかったはずなのに。しかし、祖母の様子を見ると、それが嘘だとは言えなかった。
「ああ、そうそう。これを息子が孫にって言っていたんですよ」
そう言うと、祖母は荷物の中から木箱を取り出して笠井に渡す。
「何なの?これー」
笠井が木箱を開けると、中には
それを見た瞬間、笠井の心臓が跳ね上がる。
「ば、ばあちゃん、これは?」
「ああ、それはねえ。私の旦那が使っていたのを息子がほしいと言ってもらったものなんですよ。旦那も息子もキャンプ好きで、それを愛用していたんです」
笠井の頭に
それは、どこか懐かしく、しかし、思い出すことができなかった。
「それでねえ、息子も孫をよくキャンプへ連れ回していたらしいんですけど、その孫がそれを欲しいってねだるんだそうです」
祖母は笠井を無視して、かつての思い出を楽しげに話していたが、当の笠井にはその記憶がない。
その時、母からメールが届く。どうやら、荷物を運ぶのを手伝ってほしいとのことだった。
「ばあちゃん、返すよ、これ」
笠井が木箱を祖母に返そうとすると、
「何ですか、それ? そんなものは知りませんよ」
と、祖母はきょとんとした顔で笠井を見ている。
「いや、さっき、ばあちゃんが渡してきたんでしょ?」
「いえ、知りませんよ」
と答える。
笠井はため息をつき、木箱を持ったまま病室を出ようとする。
扉に手をかけようとしたとき、
「亮」
笠井は振り向く。
「それ、お父さんのためにも大事にしてあげて」
祖母は笠井を見つめていた。その目は、かつての祖母の目だった。
「お、おばあちゃん」
「ん? 先生、何か?」
笠井が声をかけたときには、祖母はいつもの祖母に戻っていた。
数日間の看病を終え、一応は祖母の体調も安定してきたとのことで、笠井は菩提聖堂へ戻ることとなった。
戻る日の前日、笠井は家路に帰る途中で昔よく遊んだ公園へ訪れた。公園の遊具は少し錆びついていた。笠井はブランコに腰かける。
日はゆっくりと沈みかけ、公園全体がオレンジ色に輝いていた。その時、笠井に声をかける者がいた。
「やあ」
声の主は、徳井だった。徳井は笠井が菩提聖堂へ入ってからも折を見て会いに来てくれていた。
「隣に座っても?」
「ええ」
徳井は隣のブランコに座る。
「はは、ブランコに乗ったのは何年ぶりかな」
徳井はぎこちない笑顔を向けてくる。
「南さんに言われて来たんですか?」
「ううん、まあ、南さんが出張で日本を出ている間、笠井くんを見ておいてほしいとは頼まれていたけど…。まぁ、僕も笠井くんに会いたかったってところが大きいかな」
徳井は沈んでいく夕日を見つめている。二人の間にとても優しい風が通り抜ける。
「何だか、ずっと現実感がなくて」
と、笠井がぼそりとつぶやいた。
「頑張ろうと思えば思うほど、気持ちばかりが焦っちゃって」
徳井は、ただ黙って笠井の話に耳を傾けていた。
「自分には何ができるのか、自分は何なのか。そんなことを考えていると、自分が情けなくて。それなのに、大切な人を失ってばかりで…。かと言って、自分には何もできなくて。弱い自分が大っ嫌いなんです」
徳井は何も言わず、ブランコを漕ぎ始めた。
「僕もさ、幼い頃に両親を失ってね。ずっとその無念を晴らすために頑張ってきたけど…。多くの人が鬼夢で傷つくのを見て、そうした人を、自分のような人をなくそうと思ってるんだけど、なかなかうまくいかなくてね」
徳井はブランコから飛び降りた。ふらつくのを必死にこらえている。
「でもさ、自分が決めたことだから、最後までやり遂げたいってのが僕の素直な気持ちかな」
徳井は振り向き、笠井を見つめる。
「僕はさ、笠井くんのことを信じてるから」
徳井は、笠井に向けてサムズアップする。
「笠井くんは、いずれ僕や南さんを超えるって」
その笑顔が、笠井の背中を押してくれた。
「ええ」
笠井もサムズアップを返し、二人は笑う。
沈みゆく太陽が二人を照らしていた。
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