第一話⑧ 第八章「決戦」
ハエたちは、二人の進行を塞ぐように隊列を成していた。
(くそ!こいつら、前よりも明らかに強い。単純に突っ込めば殺される)
笠井は最後の決断に迫られる。
(俺一人で逃げるか。いや、それはないか。…死ぬな、俺)
笠井が覚悟を決めたとき、声が響く。
“こっちで連中の足止めをする。君は彼を連れて出口へ!!”
そう言うと、珠は化け物の群れへ飛んでいく。群れの中心に入った珠が輝いたかと思うと、プールサイドから木が飛び出してハエたちの進行を妨害する。
「行くぞ、藤本!」
笠井は藤本の手を引いてプールサイドを走る。
(よし!!)
このままプールへ飛び込もうとした、その時。
プールの真ん中に影が現れ、そこからハエの王が這い出てきた。笠井は急制動をかけ、藤本を抱え横に飛び退く。飛び退いたと同時に飛んできた舌がタイルを抉る。
「大丈夫か、笠井!?」
藤本が体を起こす。
「藤本…。俺がヤツの気を引く。おまえはその間に飛び込め!」
「無理だろ、それは!!」
「いいから!早くしろ!!」
藤本は抗議しようと口を開くが、彼の左足を見て声を失う。
笠井の左くるぶしから先は先ほどの攻撃で抉り取られていた。プールサイドに血だまりが広がっていく。ハエの王がひぃひぃと嫌な声で笑っている。
「か、笠井…」
「先に行け。俺は後から行くから」
藤本は歯を食いしばってうなずく。
「今だ!!」
笠井の叫び声と同時に藤本は走り出す。予想通り、ハエの王は藤本に向かって舌を伸ばす。
「させるか!!」
片足となり、剥き出しの骨がタイルに当たるのも無視して、笠井は必死に追い付く。そして、脇腹を抉られたものの、何とか舌を両手で受け止める。
しかし、笠井は気付いていなかった。自分の後ろに、いつの間にか黒いローブを身にまとった何者かがいたことに。
(しまった!)
笠井は目の端でローブの裾から伸びた鋭利な刃を捉える。笠井は覚悟した。
もう限界だった。視界も暗くなり、周囲の音もうまく聞き取れなくなっていた。世界がまるでストップモーションのように、ゆっくりと動く。
笠井の頭に母の顔が浮かぶ。
そして、父の顔が…。
(なんでこんな時に)
そう思った瞬間、笠井は突き飛ばされた。笠井の視線が遅れて横を見る。
そこにいたのは、藤本だった。
藤本の顔は、恐怖なのか、それとも覚悟を決めていたのか、それは笠井には分からなかったが、笑っているように見えた。
笠井を突き飛ばした藤本に、鈍く光った刃が振り下ろされる。その切っ先が徐々に藤本へ迫っていく。
そして、刃は藤本を切り裂いた。
一瞬、藤本の体をすり抜けたかとも思われたが、それははかない夢であった。削られた顔面から目や歯が飛び散った。藤本がまるで糸の切れた人形のように力なく倒れると、笠井も倒れ伏す。
「ふ、藤本……」
信じられなかった。
信じたくなかった。
嘘であってほしかった。
夢であってほしかった。
だが、倒れた藤本の周りには肉片が散らばり、血の海が広がっている。笠井は倒れた藤本へ這い寄る。
「おい、ふ、藤本……しっかりしろよ」
声が震える。涙が止まらない。笠井は血で真っ赤になった腕で藤本を揺する。
しかし、揺するたびにその死が鮮明となるだけであった。
笑い声が聞こえる。黒ローブが笑っていた。その奥で、江口が笑っていた。
「て、てめえら!!!」
笠井は怒りに身を任せて黒ローブに飛び掛かる。
が、笠井の腹に鋭い痛みと衝撃が走る。そのまま、笠井はフェンスへ叩きつけられた。腹を見ると、ハエの王の舌が腹を貫いていた。
舌が抜かれ、笠井は崩れ落ちる。もう何も感じなかった。あたたかな血だまりが笠井を優しく包み込んでいく。
笠井は目を閉じたー。
「申し訳ございません。お手を煩わせて」
「いや、これはこれで楽しかったよ」
黒ローブは取り出したハンカチで刃を拭っていた。笠井たちを助けた珠もハエの王によって破壊されていた。
「じゃあ、後はよろしく」
そう言うと、黒ローブは闇の中へ消えていった。
「ふん、余計なことを」
ハエの王が毒づく。そして、倒れた笠井を見ていやらしく笑う。
「追手が来る前にここを去らねば」
ハエの王が再び影に潜ろうとしたとき、それに気付く。
「驚いたな」
そこには、笠井が立っていた。
とても静かだった。
(俺、死ぬのか…)
笠井の顔に赤い血が広がる。もはや、指一本動かすことさえできなかった。
(こんなものか)
死の間際、笠井の頭によぎったのは母のことだった。
(俺がいなくなったら、きっと母さんは悲しむだろうな)
痛みも、恐怖も、悲しみも、何もなかった。
ただ、自分がこのまま死ぬという現実を受け入れるしかなかった。
(やばい、頭がぼうっとする)
笠井の意識は次第にぼやけていき、何も考えられなくなっていった。
(あぁ、やば、もう、無理だ…)
笠井の視界が暗くなる。周囲の音も、耳には届かない。
そんな中、笠井の体を一陣の風が吹き抜ける。
それは、とても暖かく、穏やかで、懐かしく感じた。
その風が笠井の中に入ってくる。風はまるで血管の中を流れる血液のように、体の末端まで吹き抜けていき、やがて心臓へ集まっていく。
集められた風は、互いにぶつかり合い、反発し、混ざり合い、次第に大きな渦を作っていく。渦はさらに大きくなり、嵐となる。
嵐は止まっていた笠井の心臓を動かし、その鼓動を加速させていく。
薄れる意識の中、誰かが叫ぶ。
““諦めるな!!””
笠井は目を開く。そして、最後の力を振り絞り立ち上がる。
「驚いたな」
ハエの王が笠井へ体を向ける。笠井の体はぼろぼろだった。本来なら立っているのも限界だ。
「ふん、もう死にそうではないか?」
ハエの王が笑う。
「わが手を下すまでもなかろう。やれ」
ハエの王が配下に命令を下す。配下たちが一斉に飛び掛かる。
風が吹いている。
それは激しく荒々しい風であった。
その風は、笠井の内から吹き上がっていた。風は大きな渦を生み、やがて嵐となる。
その時。
「うおおおおおおお!!!」
笠井が咆哮を上げた瞬間、世界が揺れる。笠井を中心に凄まじい風が吹き荒れる。
その風は、フェンスを吹き飛ばし、校舎の窓ガラスを砕き、樹々を薙ぎ倒し、海を割る。
無謀にも笠井へ飛び掛かった配下たちは、風に押しつぶされひしゃげていく。
「な、何だ!?」
ハエの王が驚愕の声を上げた。すべての配下が倒され、ハエの王はその醜い顔に激しい怒りをあらわにする。
「貴様!!」
ハエの王が舌を伸ばす。だが、笠井はそれを片手で受け止める。
「な!?」
そして、もう一方の腕に風をまとわせる。それは凄まじい勢いで回転し、音が鳴り響いていた。
「はああああ!!」
笠井はその手を振り下ろす。
「がああああ!!!」
振り下ろされた手刀はまるでバターを切り裂くように、一瞬で舌を切り裂いた。切られた舌からどす黒い血がプールに滴り落ち、水面を黒く変色させていく。
「お、おのれえ!!」
ハエの王がその巨体には似合わないほどのスピードで突っ込んできた。笠井はその巨体を両手で受け止める。
「うおおお!!」
そして、その狂乱に狂った顔面にアッパーを叩き込んだ。
「が!?」
ハエの王が吹き飛んでいく中、笠井はそのだらしなく垂れ下がった舌を握りしめる。
「はあああああ!!!」
笠井は両腕に力を込め、舌を引いてその巨体を背負い投げた。ハエの王は水道へ叩きつけられ、水柱が上がる。立ち上がろうとした所、笠井が横に立っていた。
「舐めるなああああ!!」
ハエの王は鋭い脚を笠井に突き刺そうとする。笠井がそれを阻止しようとしたが、脚は左腕と左脇に刺さる。
「は、ははは! なっ!?」
ハエの王が勝利を確信して笑うが、笠井を見て戦慄する。
笠井の眼は死んでいるどころか、ギラギラと怒りに燃える眼を向けていたからだ。
ハエの王は脚を抜こうとしたが、笠井が力を込め、脚を動かなくさせる。
「はあああ!!!」
笠井の怒りの雄たけびとともに残った右腕で殴りつける。何度も何度も、狂ったかのようにその拳はハエの王の顔面へ叩きつけられる。
ハエの王は残っている舌で反撃を試みる。しかし、笠井はその舌を千切れた左足で押さえつける。
笠井の猛攻を止めることは出来ずハエの王は情けなく叫ぶが、笠井はその舌を掴んでおもむろに引っ張り出した。
「が、ががが」
笠井はその蛆が湧いた顔面に剥き出しの骨を喰い込ませ、思い切り舌を引き抜く。
「ぎあ゛あ゛あああ」
ぶちぶちと音を立てて、ついには舌が根本から千切れ飛ぶ。ハエの王が悶える中、笠井はその舌を放り捨てる。
「き、貴様ああああ!!!」
ハエの王はヘドロのようなどろどろした赤黒い血をだらだらと吐き出しながら叫ぶ。
「笠井ぃいいい! 貴様がいたから!! おまえみたいなやつがあああ!! なぜ、俺がおまえみたいなやつにぃいい!! 負けるわけがねえだろうがあああ!!!」
ハエの王、いや、江口は這いつくばりながら、目には黄色く濁った涙をぼろぼろと流し喚いていた。
「おかしいだろ! なぜ、なぜなんだ!! なぜ、おまえみたいなやつに!俺が負けるんだよおおお! なんで、おまえは俺にぃいい!!俺を見下しやがって!!」
笠井は黙って江口を見つめていた。
今いるのは決して怪物などではない。ただ嫉妬に狂った少年が、そこにいたのだ。
「おまえ、何かにいい・・・俺が負けていいはずがないんだあああ!!」
「それがどうした」
笠井が静かにつぶやく。
「それが、どうしたんだよ。そんなくだらねえことで…」
笠井が一歩踏み出す。江口はその凄みに気圧され、完全に縮みあがっていた。
「そんなくだらねえ理由で、藤本が死んでいいわけねえだろおお!!」
笠井が手を振り上げた時。
「ぐふっ!?」
笠井は大量の血を吹き出す。
全身から力が抜け、立っているだけで精一杯だった。
「く、くそ!!」
力を振り絞ろうとも、もう笠井には残されていなかった。
「は、ははははああっははあひひひ!!」
江口が今度こそ勝利の雄たけびを上げる。
「死ねええええ!!!」
最後の一撃を喰らわそうとした時であった。
その攻撃が弾かれる。
「な!?き、貴様は!?」
笠井はかすかに開いた目でそれを見た。
笠井の目の前には、女が立っていた。
(だ、誰…)
笠井が困惑していると。
「大丈夫?まだ、意識はもつかしら?」
笠井はうなずく。女性は倒れた藤本を見つめる。
「ごめんなさい、遅くなって…」
そして、ハエの王を睨む。
“南さん、すみません!僕も耐えきれなくて”
「反省するのは後!とにかく、今はあなたが彼を見てあげて!!」
“分かりました!”
先ほどの珠がこちらへ飛んでくる。
“すまない、僕が付いていながら……”
すると、珠が光り、笠井の千切れ飛んだ手や足が元に戻っていく。
「これであの子は助かりそうね。では-」
女性が構える。
「私があなたのお相手をするわ」
「き、貴様らは何者だ!?」
ハエの王からの問いに女性が答える。
「私たちは、『
女性の両こぶしには、メリケンサックが握られていた。
「な、舐めるなあああ!!!」
ハエの王は怒りに身を任せ、女性目がけて突進する。だが、女性は避けるどころか、迫りくる巨体を迎え撃つ。
「あ、危ない!」
笠井が叫んだ、その瞬間。
「はっ!!」
彼女の左拳がハエの王の胴体にぶち込まれる。ハエの王は後方の機械室の壁に吹き飛ばされた。粉々に崩れ落ちた瓦礫の中からハエの王が現れる。
「ぎ、ぎざまあああ!!!」
その胴体は大きくへこみ、ハエの王はそのダメージでもだえ、えずきだす。
「ぐえぇええええ」
ハエの王は口を大きく開け、どろどろとした吐しゃ物を吐き出す。ひと通り吐き出したかと思うと、その首元が大きく膨らみ、何かの塊を吐き出した。吐き出されたものは肉塊に見えたが、笠井が目を凝らしてよく見ると、
「江口!?」
それは、江口であった。江口はまるで胎児のように、背を丸め、虚ろな目で倒れている。
「これで、夢主との分離ができたわね。後は―」
残されたハエの王は狂気の咆哮を上げ、最後の特攻を仕掛ける。それに合わせ、女性は正拳突きの構えをとる。
「はああああ!!」
飛び込んでくるハエの王の顔面に、その拳が叩き込まれる。その瞬間、ハエの王の体は光の粒子になって霧散していった。
笠井はその光景を見届けていたが、ついに糸が切れた操り人形のように、その場に倒れ伏す。
意識が白一色に染まる中、女性が近づいてくる。
「よく頑張ったわね」
その言葉を最後に、笠井は意識は光に包まれていくのであった。
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