第一話⑦ 第七章「逃走」

「笠井、これから俺たちはどうなるんだよ…」


「さあな。そこにいる江口にでも聞いてみたらいいさ」


 藤本は驚いて後ろを振り向く。いつの間にか、廊下の奥に江口が立っていた。

 江口はいつものように笑っているが、それが今の状況とはあまりにも似つかわしくないため、とても不気味だった。


「か、笠井、それはどういうことだよ?」


 藤本は混乱した様子で、笠井と江口を交互に見る。


「はあぁ」


 江口はわざとらしくため息をつく。


「藤本、おまえ、ほんっとにぶいよなあ」


 江口は吐き捨てるように言う。その声は、いつもの江口とは思えないほど暗く冷たかった。


「で、そいつから聞いちゃったの?」


  江口はあごをくいと動かし、奥村へ侮蔑の視線を送る。


「ああ」


「はあ、いらんことしやがって。せっかくの登場が台無しだよ」


「か、笠井、ま、まさか」


「ああ、犯人は、江口の野郎だったってわけだ」


 江口はいやらしい笑みを浮かべていた。


「あ、ははははははは・・・。そうか、でもさ、笠井、おまえが悪いよなあ。おまえのせいで、こんなことしなくちゃいけなくなったんだしなあ」


 気が付くと、二人は大量のハエ人間に取り囲まれていた。


「すでに手遅れだったってわけか…」


「おまえがもたもたしている間にな。ははは、おまえが今までしてきたことはすべて無駄だったってことさ」


 江口の笑みは歪みに歪み、その口はこめかみまで裂けていた。


「さ、もう遊んでいる時間はないからな。ここで仕上げとさせてもらう!」


 江口がそう宣言すると、制服の内側がもぞもぞとうごめき始める。江口は頭をぶるぶると震わせ、それが次第に、肩、腕、胸、腹、足と波及していく。その震えが体全体に渡ったところで、突然ぴたりと止まる。

 笠井と藤本の全身に悪寒が走る。

 周囲のハエ人間たちは身動きひとつとらず、辺りには痛いほどの静寂が訪れる。二人はその場から逃げたくとも、指一本動かすことが出来なかった。


 ”ぱきっ”と、音が鳴る。


 二人は江口を凝視する。その音は、江口の後頭部に亀裂が入った音であった。亀裂がどんどん下の方まで広がっていく。尻の方まで到達すると、その隙間から黒い鋭利な突起物が伸びてきた。

 それは、まるで昆虫の足を思わせた。六本の足が地面に刺さると、今度はしおれた白色のビニールのようなものが現れる。それがゆっくりと広げらていく。現れたのは、虫の羽だった。巨大な二枚の羽が広げられていく。


 そして、江口の内部から”それ”が現れた。


 それは、巨大な”ハエ”に見えた。


 ハエのように見えるのだが、そいつの顔は異様だった。その顔はハエではなく、豚だった。ただ、生気はなく、目は白く濁り膿を垂れ流し、口からはどす黒く変色した舌を垂れ下げ、顔全体が腐敗しているようで、よく見ると無数の蛆がたかっている。

 江口の元の体は蛹のように固くなり、地面に崩れ落ちた。ハエの化け物は羽を動かして浮遊していた。

 江口だったものは、だらしなく伸びた舌を口からぶるぶると震わせながら笑った。そのたびに黄色い膿と蛆を床にこぼしていた。


「え、江口、なのか…」


 藤本の声は恐怖で震えていた。


 すると、江口だった化け物は笑い声をさらに大きくした。


「この姿を見て、まだそんな矮小な男だと思うか?」


 化け物が顔をのけぞらせたため、膿と蛆が飛び散っている。


「我は、そこにいる愚者を捨て、人を超越したのだ。そう、我は、我こそが、“ハエの王”である」


 ハエの王の宣誓とともに、周囲のハエ人間たちも羽化していく。人間という蛹を脱ぎ捨て、子どもほどの大きさのハエが現れる。その顔は、人間の脳髄を思わせた。


「では、行くぞ」


 ハエの王は地面に突き刺さった脚の一本を藤本へ伸ばす。


「危ない!!」


 笠井が飛びついたことで脚は宙を切り、地面に突き刺さる。笠井は素早く戦闘体勢をとる。


「ご、ごめん!」


「藤本、何とか俺がやつを足止めする。おまえはその間に逃げろ!!」


 笠井のこめかみ辺りから血が流れている。笠井は震えていた。目の前の化け物はまさに格が違うのだ。“ハエの王”と名乗るぐらいだ。今まで戦ったハエ人間とは比較にならない。気を抜けば一気に殺されるだろう。

 ハエの王は、不快な羽音を立てながら二人を見下ろしていた。


「では、もう一度。もう少し楽しませみせろ」


 そう言うと、ハエの王は舌を放つ。


(速い!!)


 笠井が反応するよりも速く、槍の如く鋭利に伸ばされた舌が迫る。それは容易く笠井の肉体を貫くだろう。

 笠井が死を覚悟した瞬間、舌が目の前の空間で突然はじかれる。


「やはり、少し遊び過ぎたようだな」


 笠井の目の前に、“珠たま”が浮かんでいた。


 ハエの王は、舌を鞭のように振るうが、何かに弾かれているようだ。笠井が目を凝らすと、周囲に透明な壁のようなものが張られ、それがハエの王からの攻撃を防いでいたのだ。後ろのハエたちも、脳髄から伸ばした触手で攻撃するが弾かれている。

 どうやら、そのことに藤本は気付いていないようだ。


“こっちの声は聞こえるかな?”


 笠井の頭の中に男の声が響く。先ほどから時々響いていた声だ。


「あんた、いったい何者なんだ?」


“ごめん!それより、こっちももうもたない!!”


 ハエの王の猛攻により、結界にひびが入る。


“合図をしたら、窓から飛び降りるんだ!!”


「ちっ、藤本、こっちだ!!」


 藤本が急いで笠井の方へ駆け寄る。そして、笠井が藤本の肩を抱きかかえると同時に、珠の下の床から巨大な蕾が現れる。


“今だ!”


 その瞬間、蕾が開いたかと思うと、目がくらむほどの強烈な光が周囲を覆う。

 笠井は藤本を抱きかかえたまま、窓を破って飛び降りる。光が消えると、花は枯れ落ちていた。


「逃げおったか」


 ハエの王が破れた窓を見る。


「やつら…まさか!?」


「逃げられちゃったね」


 ハエの王がその声の主へ体を向ける。


「申し訳ございません。すぐに後を追わせます」


 ハエの王はその場で首を垂れる。


「もう一人の方はこちらで足止めをしているけど、そう長くはないよ」


 その声の主は、黒のローブをまとっていた。ハエの王は立ち上がり、口を大きく開けて叫ぶ。


「獲物は出口へ向かったであろう!すぐさま、奴らの後を追え!!」


 ハエたちはその指示に従い、窓から飛び出していく。


「では、私も奴らを追います」


「うん、頑張ってね」


 ハエの王は黒ローブに一礼をすると、影の中に潜っていった。


「さあ、クライマックスだ」


 黒ローブは、不敵な笑みを浮かべていた…。



 笠井と藤本は窓を突き破って飛び降りた。地面に衝突するかと思われたが、地面には巨大な葉が生えており、それがクッションになって二人は無事に着地することができた。


“追い付かれる前に、プールへ向かうんだ!”


「分かった!藤本、付いてこい!!」


 笠井は声の指示に従い、プールを目指して走り出した。


「いったいどうしたんだよ!?それは何なんだよ?」


 珠は二人を先導するように浮遊していた。


「分からない!とにかく今は俺についてきてくれ!」


 笠井も声の主が何者なのかは分からない。しかし、少なくとも声の主が自分たちの敵でないことは直感で分かった。

 すると、再び声が響く。


“出口はプールの中にある!僕の仲間も、もう少ししたら到着するはずだから、そこまで頑張ってくれ!”


「どうやら、出口はプールの中にあるらしいぜ!」


「えっ、それは本当なのかよ!?」


「さあな。でも、信じるしかない」


 プールサイドのフェンスが近づいてくる。


「笠井、入口はあっちだぞ!?」


 笠井は左にある入口を無視して直進していく。


「跳ぶぞ!」


 藤本を抱え、笠井はフェンスを跳び越えた。プールサイドへ着地するが…。

 二人が到着したときには、ハエの化け物たちが待ち構えていた。

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