第一話⑥ 第六章「変貌」

 追っ手をまいたところで、笠井は速度を落とす。


「ちょ、ちょっと、どうするんだよ、笠井!?」


 藤本は困惑していた。


「すまん。でも、あのままじゃ捕まってしまうだけだ。それに、捕まったら何をされるかわかったもんじゃない」


 確かに、奥村たちは狂気に支配され、話し合いでどうこうできる状況ではなかった。


「てか、何があったんだよ?」


 藤本が笠井に問いかける。


「人影が見えて、行ってみたらすでにあの状況だった…」


「だからって勝手に行ったらやばいだろ!」


「悪かったって。とにかく、いったんここを-」


「もういいって!!」


「もう付いていけないよ!告げ口して悪いって思っておまえの味方をしてきたけど、おまえ、おかしいよ!!」


 二人の間に沈黙が訪れる。


「か、笠井、俺はー」


 藤本が口を開いた時であった。


「うわあああ!!!」


 校舎に叫び声が響き渡る。二人は顔を見合わせ、その声のもとへ走り出した。


 廊下の角を曲がったところで、突然笠井が止まる。そのせいで藤本がその背にぶつかってしまう。


「お、おい、何だよ急に…」


 藤本も前をのぞくと、その光景に絶句する。

 廊下の先には、四人の姿があった。そのうちの三人は、さっきともに探索へ出ていた部員たちだった。二人は倒れており、もう一人は腰が抜けたのか座りながら相手から距離を取ろうとしている。

 四人目の人物、そいつが問題だった。さきほど森の中で倒れていた一年生であることがその姿から分かるのだが、異常なのはその『顔』であった。

 その顔に本来あった目は、今や顔の左右に飛び出し、丸く巨大化した双眸は赤く染まり、顔の半分以上を占めていた。口からは針のような突起物が飛び出しており、ジジジと不快な音を垂れ流している。

 その顔はまるで“ハエ”のようであった。ハエ人間はジジジと鳴きながら、逃げ惑う部員に迫る。


「あ、あああ、や、やめろ、こ、小林!!」


 ハエ人間がひと際大きく鳴くと、その部員へ飛び掛かる。

 すると、藤本の前にいた笠井が走り出した。笠井はまるで風のように、ひと呼吸するよりも速く、ハエ人間に近づく。その速さに、ハエ人間は反応出来ないでいた。

 笠井はその隙を逃さず、ハエ人間の腹に蹴りをお見舞いする。ハエ人間は凄まじい音を立てて後方の壁にぶつかった。その衝撃で壁がへこみ、ハエ人間は動かなくなった。


「大丈夫か? 笠井」


 藤本が笠井のもとへ駆け寄る。


「・・・ああ、なんとか」


「死んだのか?」


「いや、気絶しているだけだ」


「こいつは一体、何なんだよ?」


「俺も分かるかよ。何にせよ、こいつをここに置いたままじゃまずいだろ」


 笠井がハエ人間を動かそうとしたときであった。


 “危ない! 後ろ!!”

 

 と、笠井の頭に声が響く。

 それと同時に笠井は体をそらす。すると、何かが笠井の横を通り過ぎたかと思うと、その影がむくりと立ち上がる。


「まさか!?」


 それは、倒れていた部員ではあったのだが、彼もまたハエ人間へと変貌していた。


「か、笠井、う、うしろも」


 もう一人の部員もハエ人間となっていた。

 そして、


「う、ううう」


 座り込んでいた部員も呻き声を上げる。そのとき、手で覆われた顔が見えた。

 その顔の右半分は変容しており、眼は大きく飛び出して赤く染まり、口からは鋭くとがった針のようなものが飛び出している。その部員も、みるみるうちにハエ人間と変貌してしまった。

 笠井と藤本を囲むように、三体のハエ人間が立ちはだかる。


「くそ!」


(さすがに、三体同時はきついか!?)


 笠井が臨戦態勢を整える前に、ハエ人間たちが先に仕掛けてくる。


(だめだ!)


 笠井がそう思った瞬間、


 "伏せて!!”


 と、頭の中で声が叫んだ。

 笠井は藤本と一緒にしゃがむ。すると、ハエ人間たちは空中で何かに弾かれる。

 笠井はその一瞬の隙をついて、一体のハエ人間の頭部を両手で抱えたと思うと、その顔面に膝蹴りを喰らわせる。蹴りを喰らったハエ人間が唸り声を上げているところに、その体を掴み、反対にいたハエ人間に投げつけた。二体はぶつかり、壁に叩きつけられる。

 最後に、残りのもう一体へ駆ける。残った一体は迫りくる笠井へ向き直り、その口の突起物を伸ばす。

 しかし、笠井はそれを避け、そして、床に両手を着いたかと思うと、逆立ちのまま膝を大きく曲げて、ハエ人間の下あごを蹴り上げた。あまりの衝撃にその体が宙を舞う。

 刹那の攻防で、廊下には四体のハエ人間が転がっていた。


「す、すげえ」


 藤本はあまりの事態に思考が追いつかない様子だった。笠井は深く息を吐くと、藤本の方へ振り返る。


「ここにいる連中はしばらくは動けないだろう。それより、みんなのところへ急ぐぞ!」


「お、おい、笠井、置いてくなよ」


 藤本は倒れたハエ人間を横目に見ながら、笠井の後を追うのであった。



 笠井と藤本の二人は皆のいる三階へ向かう。


「いったい何がどうなっているんだよ?あの化け物は何なんだよ?それに、おまえのあの強さは?」


 藤本は一連の出来事について、矢継ぎ早に問いただしていた。


「俺も分からない」


「いや、分からないじゃなくて!」


 笠井は立ち止まって振り返る。


「正直、俺もどうなってんのか分からない。ただ、俺たちの身に危険が迫っているのは確かだ。それに—」


 笠井は自分の手を見つめる。


「それに、なぜかは分からないが、俺は奴らと戦える気がするんだ」


「でも…」


「どの道、みんなを放っておくわけにはいかないだろ?」


「ああもう、わかったよ!とにかく、みんなのところへ行こう」


「そういえばさ、笠井。さっきは-」


 藤本が何かを言おうとした時であった。


「ああああああああ!」


 校舎に悲鳴が響き渡る。二人はその叫び声のする方へ向かった。どうやら渡り廊下の方かららしかった。

 到着した二人を数体のハエ人間が出迎える。そして、その前に誰かがへたり込んでいた。

 声の主は奥村であった。


「た、助けてくれえ!!」


 奥村は二人を見て叫ぶ。


「何を勝手なことを!?」


 藤本は怒りに満ちた眼で奥村を睨む。だが、笠井が前に出たのを見て動揺する。


「ど、どうするんだよ、笠井!?」


「ムカつく野郎だが、ほっとくわけにはいかないだろ」


「で、でも、あいつは・・・」


「藤本、行くぞ」


 笠井は前を見据えていた。どうやらハエ人間たちは次なる獲物を二人に替えたようで、壁に寄りかかる奥村を無視していた。


「俺が奴らを引き付ける。その間に、おまえは奥村を」


「わ、分かった」


 笠井が走り出す。ハエ人間たちはその速さに反応が遅れ、笠井は先頭にいたやつを力いっぱい殴りつけた。殴られた勢いで、ボーリングのピンのように吹き飛び、後ろの連中を巻き込みながら倒れた。

 笠井は、着地と同時にまだ立っているハエ人間に拳をお見舞いする。後ろから襲い掛かるやつには回し蹴りを決める。

 笠井は、まさに鬼神の如くハエ人間たちを捌いていった。

 笠井の体は彼が頭で思い描いた通りに動いた。また、笠井自身、それができて当然だと理解していた。ハエ人間の攻撃を笠井は紙一重で避けていく。笠井の目には敵の動きが止まって見えるのだ。

 気が付くと、瞬く間にハエ人間たちは倒されていた。


「・・・」


 後方で笠井の戦いを見守っていた藤本は、奥村とともにあぜんとしていた。笠井が二人の方へ戻る。


「ところで、奥村は?」


 笠井の問いに、藤本は顔を横に振る。奥村の左腕には、先ほどやられたであろう傷がついていた。


「もうだめだな」


 奥村がつぶやいた。そして、弱々しい顔で笠井を見上げる。


「す、すまなかった、笠井。おまえじゃ、なかった。おまえじゃなかったんだ…」


 奥村は目に涙を溢れさせていた。

 笠井は膝立ちになる。


「てめえのことを許す気はないが、今は止めといてやるよ」


 奥村はその目を見て、か細い笑みを浮かべる。


「うっ」


 突然、奥村が苦しみ出す。


「大丈夫か!? ひっ!」


 藤本はその顔を見て悲鳴を漏らす。奥村の左目は赤く染まっていた。


「藤本、あとは俺が」


 笠井がそう言うと、藤本は少し離れたところに立つ。


「か、笠井…」


 奥村が笠井の耳元で何かをささやく。


「…分かった」


 笠井が答えると、奥村の目は飛び出し、口からは針のようなものが伸びていた。


「これで許したと思うなよ」


 そう言うと、笠井は奥村のみぞおちに拳を叩き込む。奥村は倒れた。

 その顔はすでにハエとなっており、赤い複眼からは涙の筋がこぼれ落ちていた。

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