第一話② 第二章「日常」

 どこかで誰かの叫び声が聞こえる。それは、悲痛と恐怖に満ちた声だった。暗闇が広がる世界に、また誰かの声が聞こえる。


“—起きろって!!”


 その声は聞き覚えがある。


笠井かさい、起きろって」


 少年、笠井かさいりょうはその声に呼ばれて目を覚ます。

 目鼻立ちがくっきりした端正な顔立ちではあるのだが、その眼には鋭さがあった。彼から醸し出される雰囲気は、まるで剥き出しの刃物のように、周囲を威嚇しているかのようであった。

 本来ならその雰囲気に誰も彼に声を掛けるのを躊躇うはずなのだが、笠井を起こした少年はそれをものともしないようだ。

 笠井は顔を上げ、その視線を声の主へ向ける。声の主は屈託のない笑顔を笠井に向けている。


「めずらしいじゃん。居眠りなんて」


「なんだ、藤本ふじもとかよ」


「なんだとはなんだよ」


 声の主は笠井と同じ水泳部に所属する、藤本ふじもと光一こういちであった。彼は、笠井の唯一の友人である。

 笠井はまた顔を伏せるのだが、藤本はその態度にめげずに肘で脇をつついてくる。


「ああもう、なんだよ」


 笠井は諦めて体を起こす。


「飯にしようぜ、飯!」


 藤本は持ってきた弁当箱を机に置き、おもむろに開け始めた。時計を見ると、もう昼の時間だ。笠井もかばんから弁当を取り出す。

 周りを見ると、教室のそこここでクラスメイトたちがグループを作り、昼食をとっていた。

 窓から差し込む日差しと蝉の鳴き声が、夏の暑さを物語っている。


「そういえば、笠井も進路は決まったのか?」


 藤本がご飯をかっこみながら聞いてくる。


「あぁ、まあ、まだかな。藤本は?」


「俺は二つまでは絞れたんだけど、まだどっちを本命にするか決まってないわ」


 中学三年生にもなり、クラスの話題も進路の話で持ちきりだった。たわいない話を続ける二人であったが、藤本が話題を変えてくる。


「で、仕上がりはどうなの?」


「調子はいいよ。もう少しでこの前のタイムを縮められそうだし」


「ふうん」


 笠井たち三年生は、今度の夏季大会で部活動を卒業する。最後の大会に向けて、皆は練習に追われていた。

 その中でも、笠井は今度の夏季大会で優勝を目指している。笠井は他の部員たちと違い、中学校に入ってから本格的に水泳を始めたのだが、笠井の才能はそこで花開く。一年生のときから県大会で入賞し、県内でも有数の選手にまで成長した。

 それは単に才能だけでなく、彼のストイックなまでに練習へ向かう性格とがうまく噛み合ったのだろう。誰よりもひたむきに練習に臨み、一切の妥協を許さなかった。

 だが、そんな輝かしい成績とは裏腹に、部内での彼は浮いていた。ただでさえ口数が少なくぶっきらぼうな笠井は、練習を始めると誰も寄せ付けない雰囲気がより強くなるのだ。

 そのため、部活どころか三年間の中学校生活でまともな友達と言えば藤本以外、誰一人できなかった。

 一方、藤本はその人懐っこい性格から部員の中でもムードメーカー的な存在であり、誰とでもすぐに打ち解けることができた。そんな藤本ではあったが、彼にも悩みがあった。

 それは、本当に友達と呼べる存在がいなかったことだ。藤本はあくまでも盛り上げ役であり、決して誰かの一番にはなれなかった。

 だから、藤本の人付き合いの流儀は広く浅くを徹底し、自分には親友などというものは一生できないのだと思い込んでいた。しかし、笠井との出会いがその思い込みを吹き飛ばした。

 なぜかと問われれば、二人ともはっきりと答えることはできない。ただ、なんとなく馬が合ったのだ。

 互いに一緒にいることが当たり前になり、一緒にいるからこそ楽しかった。


「そういえば、やっぱり今度の合宿は参加できないのか?」


「ああ。その日は県の強化練習会に参加するから、やっぱやめておくわ」


 皆が最後の大会に向けて練習に励む中、部長の江口が夏の合宿を学校でしようと提案した。皆も本格的な受験勉強が始まる前に、最後の部活での思い出を作ろうとそれに賛同した。

 しかし、笠井はその日、県が主催する強化練習会に参加する予定だ。もちろん、練習が終われば参加できないこともないのだが、遅れて皆の輪の中に入るのがどうも嫌なのだ。


「そうか、残念…」


 落ち込む藤本を見て、笠井は意固地な自分を少し恥じるが、かと言って今さら折れることもできない。


「でもさ―」


 藤本はまだ何か言いたそうにしていたが、チャイムが鳴ったため、自分の教室へしぶしぶ帰っていった。




 放課後、練習終わりに部長の江口えぐちが声をかけてきた。


「笠井。今度の合宿の件、すまなかったな」


 江口は申し訳なさそうな顔をしていた。


「いや、江口が悪いわけじゃないだろ」


「そうか。げほっ、笠井、練習が終わった後でもいいから、参加できないか?」


 笠井は江口の方を見る。江口はその端正な顔に、とても爽やかな笑顔を浮かべていた。笠井とは違い、人を惹きつける魅力がある。


「悪いな」


 笠井はそう言うと、最後にもうひと泳ぎしようと江口に背を向ける。


「おい、待てよ」


 すると、別の少年が笠井を呼び止める。笠井がその声の方を見やる。


「笠井、おまえさ、まだ江口くんが話している途中だろ!」


 少年は目を見開き、鼻の穴を大きく広げて笠井を威嚇していた。


「げほ。奥村おくむら、もういいから」


「でもさ」


「大丈夫だから」


 奥村は江口に引き留められて後ろへ下がる。


「笠井、もし、来られそうなら来てくれよな。待ってるからさ!」


江口は、その笑顔を崩さずに答えた。


「ああ、考えておく。それより、大丈夫なのか?調子悪そうだけど」


「げほ、いや、ちょっとした夏風邪でね。すぐ収まるさ。それより、これから自主練?」


「ああ、もう少しやってきたくて」


「そうか、藤本も?」


「うん、俺も練習に付き合うよ」


「なら、俺から先生に伝えておくよ」


 江口はそう言って、取り巻きたちと帰っていった。




 その夜、笠井は母から自分にと言われ、電話に出る。


「亮くん、久しぶり!」


「久しぶりです、大河たいがさん!」


 電話の主は、西条さいじょう大河たいがであった。

 彼は、かつて笠井の父が所属していたレスキュー隊の一員で、父の後輩だった人物だ。


「大会までもうすぐだよね。調子はどう?」


「結構いい感じです! タイムも少し縮まりました」


「それはすごい! 今度の大会が楽しみだね」


 笠井と西条は、それから互いの近況報告をし合った後、


「そういえば、藤本くんから聞いたんだけど、今度、部活の合宿があるんだろ?」


「え、ええ、そうですね」


 西条の突然の質問に笠井は戸惑う。


「亮くんは参加しないんだって?」


「ええ、まあ。その日は県の練習会があるので」


 (藤本のやつ!)と内心悪態をつく笠井をよそに、西条は話を続ける。


「でも、夕方までには終わるんだろ? ならさ、それからでもいいから合宿に参加しなよ」


「いや、でも、学校まで遠いし」


「そんなこと気にするなよ。僕が送っていくからさ」


「いや、でも、大河さんに悪いし」


「いいじゃん。中学校最後の合宿なんでしょ?せっかくなんだし、参加しなよ。ね?」


 どうやらここは、藤本の方が一枚上手のようだ。いやとは言えない雰囲気に、ついに笠井は折れる。


「わ、分かりました。お願いします」


「OK!じゃあ、また練習が終わる頃に迎えに行くよ」


 西条は、伝えることは伝えたという様子で電話を切ってしまった。

 笠井は大きなため息をつく。こうなったら断ることはできない。明日、どんな顔をして江口に伝えればいいのか。そんなことを考えるも、無情にも時は過ぎ去るのであった。

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