第一話① 第一章「不穏」

 誰もいない校舎を、一人の少女が歩いていた。少女はひどく怯えた様子で、ただでさえ色白なその顔は血の気が引いて病的なほど白い。辺りは闇に包まれ、少女は手探りで何とか歩くことができた。

 彼女以外には誰もいないようで、校舎は恐ろしいほど静まり返っていた。あまりの静けさに、少女は自分の心臓の音すらうるさく感じるほどだ。

 なぜこんなところにいるのか、それは彼女にも分からなかった。気付いたときには、ここにいたのだ。

 少女は教室の一室をのぞく。誰もいないその部屋は、彼女がよく知る教室であった。確かに、ここは彼女が通っている学校に違いない。

 しかし、ここが正常な場所でないことは一目瞭然だ。

 それに、先ほどからかなり歩いているはずなのだが、進めど進めど廊下はどこまでも続いている。それどころか、同じところをずっと行ったり来たりしているような気さえする。

 少女は、パニックになりそうな自分を何とか奮い立たせ、教室の中へ入る。教室は嫌なほど静まり返っていた。彼女はそのまま奥へ進み、窓を開けようとした。

 ところが、窓はびくともしない。これまでにも試してきたのだが、どの窓も固く閉じられており、少女の華奢な腕では開くことが出来なかった。

 少女は泣きそうになるのを必死にこらえ、近くにあった椅子を手に取る。

息を吐き、その細く伸びた腕に力を込めて椅子を持ち上げ、そのままの勢いで椅子を力いっぱい窓に叩きつけた。

 だが、当たった瞬間、まるで緩衝材でもあるかのように、衝撃は吸い込まれてしまう。見ると、窓には傷ひとつ付いていない。

 少女は、何度も何度も窓を叩く。その顔が涙と鼻水でぐちゃぐちゃになっても何度も叩き続けた。狂ったように叫びながら、髪を振り乱し、爪が割れ、血で手を真っ赤に染めながらも少女は構わず叩き続けた。

 しかし、やはり傷ひとつ付けることができなかった。とうとう少女は椅子を落とし座り込んでしまう。


「うぅ、どうして、私がこんな目に合わなきゃいけないの…。ひっひっ、なんにも悪いことしてないのに…」


 少女の悲痛な訴えは、ただ虚しく闇の中にかき消されていく。

 どれくらい時間が経っただろうか。突如、少女の名を呼ぶ声が聞こえてきた。


「吉田さん?」


 少女が顔を上げると、そこには彼女がよく知る人物が立っていた。


「あああ!」


 少女はその人に抱きついた。


「おいおい、急にどうしたのさ」


 少女はその胸の中で思い切り泣いた。優しく広がるそのあたたかさに、少女の涙は止まらなかった。


「いったい、何があったんだい?」


 ひと通り泣き終わった後、その人が優しげな声で語りかける。


「わ、分かんないよ。き、気が付いたら、ここにいて」


 少女はこれまでの経緯を伝えようとしたが、口を開くと泣いてしまいそうになるのでうまく話すことができなかった。そんな彼女をその人はとても慈愛に満ちた目で見つめていた。


「えっと」


 そこで、少女は口をつむぐ。目の前の人物を彼女は知っているはずだ。

 しかし、なぜかその名前を思い出すことが出来ない。思い出そうとすると、まるで頭に靄がかかったかのようになってしまい、その人の名を思い出せないのだ。困惑する彼女をその人は優しく抱きしめる。


「もう大丈夫」


 彼女の髪を優しく撫でながら語りかけてくる。


「本当に助かった。君のおかげだ。これで証明されたんだ」


「え?どうしたの、いきなり―」


 少女は絶句した。

 なぜなら、目の前にあった慈愛に満ちた顔は、今や悪意を持った笑みで歪んでいたからだ。


「ひぃいい!!」


 少女は目の前の人物をとっさに突き飛ばしてしまう。その人は勢いのあまり後ろにあった机にぶつかり、大きな音が教室に響き渡る。


「ご、ごめんなさい・・・。ひぃいい!!!」


 少女は恐怖に顔を引きつらせ、壁にしがみつく。


「ひどいじゃないか」


 むくりと起き上がるが、その首は異常な角度で後ろに折れ曲がり、のど元からは首の骨が飛び出していた。


「いや〜、ひどいよ。この姿だとなかなか首が座らないんだからさ。困るよ」


 両手で頭を持ち上げ、元の位置へ戻す。しかし、首の裂け目からはどくどくと赤黒い血が流れていた。


「あ、ああ、あああああ」


 少女はその場を離れようとするが、なぜか足が動かない。彼女は自分の足を見る。

 すると、ふくらはぎに何か黒く鋭利なものが突き刺さっていた。床には傷口から流れ出た血によって、赤い海が広がっていく。


「あああああ!!!」


 彼女はパニックになる中、自分の足に刺さっている物の正体を知る。それは、蜘蛛の足のように、目の前の人物の背中から生えていた。


「ああ、ごめんね。いきなり逃げるからさ、つい」


 そう言うと、その者の体の内側がうごめき始めた。


「じゃあ、少し付き合ってもらうよ」


 みるみるうちに異形の姿になった怪物がけたけたと笑っている。


「いやー!!」


 少女の悲痛な叫びは、闇の中に消えていくのであった。




 校舎に、一人の女性が立っていた。ぱっちりした目に、真っすぐ伸びた鼻筋、肩まで伸びた髪は先端が少しウェーブがかっている。

 女性は二十代ぐらいに見えるのだが、二十代特有の初々しさはなく、黒のスーツを身にまとったその姿には、凛々しさと落ち着きがあった。

 しかし、彼女が立っている校舎は異様だった。校舎の所々は崩れており、女性がいる教室も半分崩れ去っていた。また、周囲には真っ暗な空間が広がり、その校舎だけが闇の中に浮かんでいる。

 女性は、床に広がった血痕に触れる。


「被害が出てから、すでに何日かたっているわね」


 女性の顔の横には、珠たまのようなものが浮かんでいる。


”ええ。報告では、すでに三名の生徒が犠牲になっているようです”


 男の声が女性の頭の中に響く。


「想像以上に進行が速いわね」


”こっちでも探りを入れているんですが、なかなか捉えることができなくて”


徳井とくいくんでも捉えられないのなら、警戒心がかなり強い相手か、それとも…」


 彼女はあごに手を当てて少し考え込む。


”外部からの干渉、ですか?”


「ええ。ただ、まだその可能性があるかもしれない、ってところね」


 彼女は校舎に視線を移す。


”でも、みなみさんが直接出向いたということは、その可能性が高いというわけですよね”


「まあ、私の杞憂であればいいのだけど…」


 その時、校舎の崩壊が始まった。


「そろそろ、ここも限界のようね」


”では、出口まで案内します”


「ええ、お願い」


 女性は体をひるがえす。


「徳井くん」


”はい”


「相手も近いうちに動き出すだろうから、引き続き警戒をお願い」


”分かりました!”


 女性が廊下の奥へ消え去った後、校舎は完全に崩れ去り、その残骸は闇の中へ飲み込まれるのであった。

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