桜と死体があるならば
空式
桜と死体があるならば
雪の降る中、彼女は私を桜の木の下に呼び出した。彼女は艶やかな長髪を風になびかせ、優しい笑みを浮かべてこちらを見つめていた。
桜と、制服の少女。それは絵にかいたような美しい少女の姿であり、それによって彼女の手元にあるナイフがより異質に見えた。
「ねえ、雪乃ちゃん」
私が彼女に近づくと彼女は薄い唇を開き、穏やかな声色で話し始めた。
「次はどこに行こうか?」
私が彼女の質問の意図を飲み込む前に、彼女は再び口を開いた。
「私はね、どこにも行かないよ」
そう言って彼女は手元のナイフを自分に突き立てた。
彼女の白いシャツに濃い赤色が染みわたる。彼女は赤色のついた手を伸ばし、私の目を覆い隠す。
「目、開けててね」
手が離れる瞬間、うっすらと視界に残った赤色が、私の見える世界を覆いつくす。
赤色、そして白色。だんだんと赤く染まっていく雪が、命の色に重なって見えた。それはどんな芸術家でも表現できない、彼女の色だった。残酷なほどに美しく。悲壮な芸術を披露した彼女は満足げな顔でその場に崩れ落ちた。
それは、花のようだった。真っ白な雪のキャンパスが彼女の色に染まる。私はただその場に立ち尽くして、眺めていることしかできなかった。
「……紗季さん」
彼女の名前を呼んだ。何度呼んでも、返事は帰ってこなかった。
◇
私は孤独だ。教室の中、浮かれた子供たちの中、私はさらに浮いている。自分から望んで孤独になったわけでは無いが、孤独はいつの間にか自分のアイデンティティにさえなっていた。居心地のいい、自分を確立する孤独。それは私を青春へのあこがれから遠ざけてくれる。
孤独な人はこの教室に二人いる。私と、もう一人。もう一人の子はきっと自ら孤独を選んだ、孤高の人なんだろう。彼女は私とは違うと思いながら、妙に親近感を覚えてしまっている。それは二人に孤独という共通点があるからであり、その一点が自分にとってどれぐらい大きいかを示していた。
孤独な級友を確かめるために視線を上げる。机と空の椅子をそれぞれ三つ挟んだ先、その先にもう一つ、空の椅子を見つける。彼女はそこにいない。彼女は私の真横にいる。
「ねえ、あなたにはまだ、話しかけてなかったね」
透明。私に向けられた声。
「うん、一度も」
私は単純な事実を答える。それ以上は必要とされていない。
「忘れてた……」
彼女は自分に言い聞かせるようにそう言う。
「私のこと、どう思う?」
彼女は艶やかな瞳を私の方に向け、緩やかに質問をする。
「……気に入らない、試されているみたいで」
少し間をおいて私は答える。
彼女は私に何かを求めている、その事実が気に入らなかった。彼女は孤高であってほしいという自分勝手な願いが、その感情を生み出したのだろう。
「でも、ちょっと嬉しいんじゃないの? 親近感、別に悪い感情じゃないはずだよ」
彼女が指摘したことも、また事実だ。
「別に、直線上に感情があるわけじゃない」
「中間をとってあの答えになったわけではないでしょ?」
否定的な感情が何よりも先に表に出てしまう、これもまた事実だ。私はそれを自覚している、それが私を人から遠ざけていることも。
「話がそれちゃった、試してるっていうのはあながち間違いじゃないかもね」
彼女はそう言いながら近くの椅子を引き寄せ、腰を下ろす。
「まあ、要は、お友達になりませんかってこと」
合わせた視線は同じ高さになる。
「合格ってこと?」私は少しおどけた口調で言う。
「定員割れだけどね、お友達は」
彼女はそう言って口を斜めにした。
それから彼女と私はよく話すようになり、私が孤独である時間は減っていった。彼女の独特の感性と視点から発せられる言葉は明確な意思をもって、私に届く。私はそれを返す。頭の中で一人で繰り返していた思考を相手に投げかけることは想像していたよりずっと楽しかった。
彼女は想像よりずっと面白い人間だった。私が見ていた優等生で、彫刻のような彼女の美しさは彼女の育ちの良さから出来た殻であり、内面はもっと抽象的な、印象派の絵画のような美しさだった。
「ねえ、花火見に行かない?」
彼女はいつものように私の目の前で私に話しかける。
場所と日時を彼女から聞いた後、わたしは「いいよ」と短く返事した。
私たちは駅で合流し、電車に乗り込む。普段より人の多い電車の中は快適とは言えず、駅のホームも人が詰まっていた。
「暑いね」
彼女はいつもどうりの余裕が浮かんだ表情でつぶやく。暑さと人込みの不快感は田舎に住んでいる私には新鮮でもあった。
人の流れに身を任せながら、私たちは河川敷へと向かった。近くの神社には屋台が並んでいたが、その周囲には近づけないほどの人が溢れていた。あの中に入って行くという苦行をしてまで欲しいものはない、というのが私と彼女の意見だった。
「割といい位置じゃない?」
土手の下にある橋の端、そこの小さな段差に私たちは腰掛けた。
「このまま人が来なければ」
ポケットからスマホを取り出し、時間を確認する。花火が始まるのは一時間後だ。
私たちは時々、思い出したように会話をした。無言の時間も多かったが、それが私にとっては一番楽な会話のペースだった。
だんだんと増えていく人と近づく喧騒が、花火の上がる時間が近づいてきたことを私たちに伝える。船が川の上を走り、私たちの斜め前に止まる。
「いい位置だったね」
「でしょ?」
彼女は自慢げに微笑んだ。周りを見渡すと、土手の一面が人で満たされている。私たちの周りにも人が溢れている。土手の方面が満員電車とするならば、こちらは教室ぐらいの人口密度になる。
笛のようなか細い音と共に、一筋の光が空に浮かぶ。光は音と共に弾け、空に大きな模様を描く。
「風情のない奴らだね」
周りの人が一斉にスマホを構え始めるのを見て、私がつぶやく。
赤、緑、青、様々な色に照らされた空を彼女はどこか違うところを見つめるような、遠い目で眺めていた。
「これって、どう思う?」
彼女は唐突に私に問う。
「芸術だなって、思う」
私は一瞬の間をおいて答える。
「芸術?」彼女は再び問う。
「非現実感っていうか、刹那的な美しさ」
「非現実感、あれとの違いのこと?」
彼女は町の方を指さす。そこには光が溢れている。
「そうだね」
真っ黒な空のキャンパスに模様が浮かんでは、数秒で消えていく。そして体の底に響くような低音を合図に、再び光が空を彩る。
「……よくわかんないや」
そう言いながら空を眺める彼女は様々な色に照らされながら、静観的な表情を見せた。
私たちは海に行った。田舎を歩いて回った。そのいかにもといった夏の景色を見ることができた。彼女はどこに行っても、人並の楽しみ方をして、楽しそうに笑っていた。そしてふと、彼女はあの静観的な表情を見せた。
私からすると、これ以上ないぐらいに楽しい夏だったと思う。
夏休みが終わり、二学期が始まり、季節は秋になった。学校に行かなければいけないのは憂鬱だったが、彼女がいることによってその憂鬱も小さくなった。八月の暑さがまだ抜けきれない九月の気温も、数か月後には懐かしく思えるのだろう。今は寒さが懐かしい。
教室の席に座ると、自然と彼女が隣に居る。挨拶も必要ないほど自然に。
「もうすぐ文化祭だよ」
いつも通り、彼女は私よりも先に口を開く。
「準備、してるんだっけ?」
「そうらしいよ」
どうやら私たちのクラスは劇をやるらしい。準備などは私たちの知らないところで進んでいて、役も脚本もいつの間にか決まっていた。もしチャンスがあったとしても何もしないつもりではあったが、こうも露骨に輪から省かれるのは気持ちのいいものではない。
「まあ、頑張ってほしいね」私は冷やかしのつもりで言う。
「ちゃんと見に行ってあげよう」彼女は悪戯な笑みを浮かべながら言う。
時間は淡々と、流れるように通り過ぎて行った。暑さはいつの間にか肌寒さにすり替わっている。私が期待していた過ごしやすい気候の秋は姿を見せず、カレンダーと外の景色だけが秋を示している。
今思い返してみると、この二か月はあっという間に感じた。それはただ思い出の密度が低いからそう錯覚しているのだろうことは理解している。変化のない日常の中で様々なことを思い、考えたが、その内容は頭の外に流れ落ちてしまった。きっとどうでもいいことばかり考えていたのだろう。
「さて、帰ろっか」
彼女はいつもどうりに私に声をかける。文化祭の前日だからか、忙しそうに何かをしているクラスメイトを横目に、私たちは帰路に就く。
「秋だね」
彼女は平坦な口調で言う。彼女の視線の先にある山の木々は色付き、今の季節が秋であると視覚から訴えてくる。
「意外と、綺麗だね」
それは、普段無意識に目の中に入ってくる景色だった。
「そうかな……よくわかんないや」
彼女はそう言って笑った。
私たちは近くの公園へと入り、備え付けられたベンチに腰掛ける。目の前の桜の木も例外ではなく、葉を赤や黄色に色付かせていた。
「やっぱ、ここが一番落ち着く」
彼女は背もたれにもたれ掛かり、小さく伸びをした。
「家は?」
「一人だと落ち着かないかな」
彼女は冷淡な双眸をどこか遠くへと向け、小さく呟いた。
「……そっか」
それ以上の言葉はかけられなかった。彼女の見ている世界を彼女以上の解像度で見ることは、誰にもできない。
文化祭の開会式が終わり、私は彼女と合流した。クラスの劇は昼すぎから始まる。それまでふらふらと校内を歩くことにした。
「盛り上がってるね」彼女は静観的な表情で言う。
「雰囲気は、嫌いじゃないかも」
中に入るのはともかく、外から楽しそうな空気を眺めているのは好きだった。
人が私たちの周りから消えていることに気付くころには、私たちは校舎の端まで歩てきていた。
彼女は「ふぅ」と小さく息を吐き、その場に座り込んだ。
「やだな、やっぱ合わないや」
「大丈夫?」
「別に、体調悪くなったわけじゃないよ」
彼女は口元を緩めて見せたが、目線はどこか遠くを見ているようだった。彼女は考え事をしている時、よくこの目をする。私は何も言わずに彼女の隣に座り込んだ。
クラスの劇はステージで行われた。私たちは端の方の席で劇を見ることにした。脚本は初見の物だったが、出来の悪さからしてオリジナルの物だろう。演技は頑張ってはいたが、褒めればいいのか貶せばいいのかわからないような、感想に困る演技だった。
「まあ、そこそこ」
「微妙」
校舎の端へと戻り、私たちは同時に口を開く。どうやら意見は一致したようだ。
「で、どうする?」
珍しく私の方から話題を振った。この後についてだ。
「残るよ、後夜祭」彼女は即答した。
「何かあったっけ?」
「キャンプファイヤー、どう?」
「いいね」
私はキャンプファイヤーというものを直接見たことがなかった。それはあと数時間ここで座っておく理由に十分成り得た。
彼女と過ごす時間はあっという間だ。一人でいるときはただ零れ落ち、誰にも認識されることのない私の思考も空虚ではないことを実感できる。結局、会話した内容も覚えてはいないけれど。
五時間が過ぎた。そろそろ火が上がる時間だろうということで、私たちは五時間ぶりに重い腰を上げた。
外は完全に日が落ちており、校舎の中もどことなく異様な、浮かれた雰囲気で満ちていた。
「少し、楽しいかも」
「そう?」
彼女は私の方に一瞬目を向ける。意見を求められているのだろう。
「まあ、新鮮さ、かもね。花火とも似たような感じ」
「そう……」
彼女は一瞬考えるような素振りを見せた後、そう呟いた。
短くも新鮮な移動を終え、グラウンドにたどり着く。街頭に集まる蠅のように、火のついてないキャンプファイヤーの周りに人が群がっている。私たちは何も言わずとも人気のない場所に移動し、火が付くのをじっと待った。
少し遠くから歓声が上がる。弾けるような音をたてながら、赤い炎がグラウンドの中央に立ち上り、煌めく火の粉を星空に舞い上げている。
「どう?」
彼女は顔を私の方に向けて話す。彼女は何かを見たり聞いたりすると、必ず私にそう尋ねる。
「綺麗」
私はその言葉を選んだ。どこか安心するような、暖かい美しさだった。
「そう……」
彼女は涼しげにそう言った。彼女の双眸はどこか遠く、キャンプファイヤーの向こうの星空を見ているような遠い目をしていた。
「……踊ろうか」
彼女は立ち上がり、唐突にそう言った。
「フォークダンスだよ、知ってる?」
「知識では」
「じゃあ」
その声と共に差し出された手に恐る恐る触れる。柔らかく、力を籠めれば折れてしまいそうなほど細い指が私の指に絡む。
引かれるがままに、腕を動かす。パチパチと音をたてながら焼ける木に合わせてステップを踏む。それが傍から見た時にダンスとして成立しているかは些細な問題だった。そこには彼女がいて、息遣いをも伝わる距離に私がいる。ただ二人きりの世界がそこにはあった。
「どう?」
彼女はいつもどうり私に尋ねる。
即答はできなかった。どこか気恥ずかしいような気がして、出かけた言葉が喉元で留まる。
「私はね、楽しいよ」
私が言葉に詰まっていると、彼女はそう言った。
「……私も」
絞るように言葉を紡ぎ、ゆっくりと俯いていた顔を持ち上げる。
彼女は笑っていた。年相応の、清々しい笑みだった。
今年の冬休みは彼女と過ごした。
と言っても、出かけたのは三度だけだ。クリスマスと初詣、そしてもう一日、特に何もない平日に、唐突に彼女から誘いが来た。
要件は伝えられなかったが、とりあえず指定された時刻に学校の最寄りの駅へと向かう。五日ぶりの電車はやけに新鮮に見え、ただ外を眺めながら時間を過ごした。
「おはよう、五日ぶり」
彼女は今日の気温に対して過剰とも思える防寒具を着ていた。それは周囲から少し浮いているように見えたが、その姿がやけに様になっているのは、単に彼女が美人だからだろうか。
「何? こっち見つめちゃって」
「いや……どこ行くのかなって」
「北、ずっと北」
彼女はあっさりと言い切った。北に行くということで、彼女の防寒具についての疑問はなくなったが、同時に新たな疑問も芽生える。
「ちょっと思い出があって」
彼女は私の考えることが分かったのか、聞く前に疑問に答える。
「そう……じゃあ、いこっか」
たとえどこに行こうと、私に異論はなかった。それは彼女とならどこに行っても楽しいだろうという一種の信頼のこもった感情だった。
二人で電車に乗り込み、空いた席に並んで座る。彼女はぼんやりと窓の外を眺めながら、ぼんやりとした表情を浮かべていた。それは初めて見る表情で、どこか儚げなように思えた。
電車に揺られている二時間の間、私たちは一言も会話をしなかった。居心地の悪さはないものの、特別無口というわけでは無い彼女が一言も話さないという事実で、今日の彼女はどこか違うと実感させられた。
だんだんと人の少なくなっていく電車の中、彼女は「次」と呟いた。窓の外に視線を向けながらではあったが、その声が私に向けられているというのは明確だった。
先に席を立った彼女に続いて電車を降りる。時代を感じさせる木の駅舎に、取ってつけられたように近代的な機械が置かれている。それに手元のカードをかざし、駅から出る。視界を包んだのは白色だった。一面の雪景色、画面越しにしか見たことのないような風景が目の前に広がっていた。
彼女はついて来いとばかりに一瞬こちらに視線を向け、無言で歩き出す。疑問は多いが心の中に留めておく。口に出すのは無粋だろう。
彼女は慣れた足取りで雪道を進む。雪化粧を施された古めかしい街並みはノスタルジックな雰囲気をまとっており、眺めているだけで一日過ごせそうなほど新鮮な景色だった。
彼女が立ち止まったのは、何でもない公園だった。近くのベンチの雪を払って、そこに腰掛ける。目の前には一本の木が佇んでいた。葉は全て落ち、雪をかぶった木。どこにでもあるような木を、彼女は見つめていた。ぼんやりとした表情を浮かべながら、どこか遠くを見つめるように。
私は木に見入る彼女の横顔を見つめていた。彼女は私の視線に気づいたのか、そのままの表情を私の方に向ける。
「どう?」
彼女はいつもどうり、私に問いかける。
「綺麗でしょ?」
いつもどうりなんかではなかった。彼女は同意を求めるように私の目を見つめた後、すぐにその視線を逸らした。
「まあ、だよね」
彼女は自嘲的に呟く。
彼女は立ち上がり、コートを脱ぎ捨てて目の前の木に近づいていく。十分近づくと、彼女は確かめるように木の幹に触れた。
「綺麗だったんだよ」
風で揺れる髪が振り返った彼女の穏やかな表情を一瞬覆い隠す。果てもなく立ち込めた灰色の空の下、葉の落ち切った木の隣に少女が一人。その光景は絵画のように完成されており、私はそれにどうしようもなく引き込まれていた。
「見ててね」
瞬きをした一瞬、視界の中央に黒々とした赤が浮かぶ。その位置は彼女の腹部と重なっていた。数秒、時間が凍り付いたように世界が動きを止める。唯一動いているのは赤色のみ。
私は立ち上がる。混乱した頭の中、本能的に体が動く。数歩、それだけで彼女との距離は目前まで詰まっている。彼女の方に手を伸ばしかけるも、その手は空を切る。
ふと、重さが正面からのしかかる。踏ん張ろうとした足は言う事を聞かず、つつかれたドミノのように簡単に後ろに倒れ込む。重さはそのままだ。小さな笑い声が耳元から聞こえる。
「どう?」
笑い声の正体が絞り出すように声を出す。息遣いすら聞こえてくるような距離で、彼女は優しく問う。だんだんと彼女の力が抜けていくのが直に感じられた。重なった腹部には何か温かいものが触れる。それはきっと彼女の生命の証であり、彼女がどうしようもなく執心していたものの正体なのだろう。そう考えると緊張しきった精神が緩み、張った筋肉が緩むのを感じる。
安心しきると、この状況ですら心地よく感じられた。
目を閉じる。悲鳴が聞こえる。遠ざかる。遠ざかる。
大人から様々なことを聞かれた。ぼんやりとした思考の中、起きたことを淡々と話す。何度も、聞かれるたびに答えた。
話の雰囲気から推測するに、彼女は生きているようだ。
訪れた医者は、私の身体に異常はないと言っていた。
話をしなければいけない。私の思考を支配したのは単純な使命感だった。おぼつかない足取りでベッドを降りる。カウンターのような場所に行き、彼女の名前を伝える。
結果として、彼女と会うこと自体は思いの外簡単にできた。しかし彼女は眠ったままで、一向に起きる気配を見せなかった。私はしばらくベッドの脇に座り、彼女を眺めていた。そうしていると、あの木の下での出来事がまざまざと脳裏に浮かぶ。あの時見た彼女の表情、動き、声、全てがベッドで眠る彼女に重なって見えた。あの赤色さえも。そんな考えをする自分が怖くなった。自分はすでに赤色に魅入られているんじゃないかと思うと、もうこの場に留まることができず、私は逃げるように病室を抜け出した。
翌日、懲りずに彼女の病室に向かう。彼女は何事もなかったように体を起こし、涼しげにこちらを見た。
「……ごめん」
永遠に続くかのような沈黙を破り、彼女が口を開いた。
「あんなの、ただの自己満足だから」
それは悔いるような、どこか遠くに向けた言葉だった。彼女の声は震えている。
「そう……」
口から出たのはそんな言葉だった。気の利いた言葉も優しい言葉も、思いついた全ての言葉が嘘のように感じた。
再び沈黙が世界を包む。眺めた窓の外には雪が舞っており、画面の中のような世界がガラス越しに見えた。それは何が違うのだろう。ちょっとした違和感だった。
「でも、ちょっとすっきりした」
そう言った彼女は付き物が落ちたような表情をしていた。
「うん、深くは聞かない」
それでいい。他人の気落ちを理解するのは不可能だ。彼女がいいならそれでいい。それが私の精一杯考えた言葉だった。
「——逃げたかった。それだけだよ」
彼女は笑っていた。彼女のほほを伝う涙も、こんなにも気持ちよく笑う彼女も、全てが始めて見る姿。それは、等身大の少女の姿に見えた。
冬休みが明け、三学期。数週間ぶりの教室に、彼女の姿は見当たらなかった。
あれから何度か彼女に会いに行ったりもしたが、彼女はあれ以来、暗い話題を出すことは一度も無かった。彼女は何から逃げたかったのか、その疑問が延々と頭の中を渦巻いている。
一人で授業を受け、一人で昼食をとり、一人で帰る。
今までどうりの怠惰で、退屈な日常。決定的なピースの欠けた私の生活の中、あの風景が、雪と赤色が、何度もフラッシュバックする。
——桜の木の下には死体が埋まっている。
梶井基次郎の、桜の木の下にはという小説の最初の一文だ。
ああ、確かに、あれほどきれいな血を吸った桜なら、自分では想像もできないほどに生命力の溢れた桜が咲くことだろう。
きっと、その桜は枯れない。
一週間をやり過ごし、休日。私は一人電車に乗り、彼女の住む町へと向かっていた。
彼女は無事退院することができたらしいが、怪我の経緯が経緯なので、しばらく自宅で療養をさせられるらしい。
だけど妙なことに、集合場所には公園が指定されていた。
駅に下りる。無駄に広い駅前の道路の先には、大きな田んぼが広がっていた。冷えた指に白い息を吹きかける。手袋を持ってくればよかったと、小さな後悔が口から漏れる。
携帯で地図を眺めながらしばらく歩いていると、目的地である公園にたどり着いた。その公園は想像よりもずっと大きく、巨大な遊具やサッカーグラウンドがあるような場所だった。少し先にはコロッセオのような形をした建物が見える。地図を見たところ、あれは公民館のようだ。
携帯で彼女に連絡を取る。彼女は目を引く大きな建物の内、どれからも離れた端にある東屋に居るらしい。
「寒いね」
彼女は私を見るなりに、手をこすり合わせながらそう言った。
「寒い……。公民館、中は入れない?」
彼女の隣に腰を下ろす。彼女はマフラーに手袋、コートまで着ていて、寒さ対策は万全のようだ。
「一応は入れるけど、くつろげる感じじゃないよ」
「そっか……」
「寒いの苦手?」
彼女はそう言いながら、手袋の片方外して、こちらに投げた。
「左にはめて」
そう言うと同時に、彼女は私の右手を取ると、コートのポケットの中へと引っ張っていった。
「手袋、片手じゃはめれないけど」
「いいの」
「よくないよ」
彼女は上機嫌に微笑む。握られた右手はとても暖かく、柔らかな感触に包まれていた。
「……寒いけど」
じっと、彼女の目を見つめる。最近。具体的にはあの時の病院での会話から、心なしか、彼女の雰囲気は緩くなったように思える。
「そうだね……確かに寒い。どうしよっか」
「別に、私はどこでも」
「……そうだ、私の家に行こう」
彼女の両親はどちらも出かけているらしく、家はここから歩いて五分ほどらしい。
ポケットの中で手を繋いだまま、アスファルトの上を歩く。時折車が通り過ぎ、風が長い髪を揺らす。
手を繋いだまま歩くというのは気恥ずかしくもあったが、それは言い出せなかった。きっと、彼女の手がとても暖かかったから、離すのが惜しかったのだろう。
彼女の家は、いたって普通の一軒家だった。
生活感のある小奇麗なリビングを通り過ぎ、階段で二階に上がる。
「さ、どうぞ」
通された彼女の部屋は、不自然なほどに片付いていた。机の上に物は乗っておらず、教科書の類はすべて棚に収められている。それだけなら、彼女がきれい好き、もしくは入院している間に誰かが片付けたで通るが、何より不自然なのは、部屋から彼女の趣味嗜好が全く読み取れない点だ。本や楽器、ゲーム機など、何かしらはあってもいいだろうに。それは不自然で、不気味にすら思えた。
「適当に座ってね」
呆然と立ち尽くしていると、彼女から声がかかる。私はそれに生返事を返し、その場に腰を下ろした。
どこか落ち着かない気分は、適当な考えごとによってすぐに塗りつぶされた。会話はぽつぽつと繰り返される。そこには中身も意味もないけれど、それはひどく暖かかった。
「私、学校辞める」
生ぬるい沈黙を打ち破ったその言葉は、彼女のものだった。
「……通信制ってやつだよ。親が病院の先生になんか言われたみたいでね」
「それは……」
「私も、それでいいと思ってる」
そう言われると、私は何も言い返せなかった。一人は寂しい。それが私の身勝手だって、わかっているから。
「そろそろ、親が返ってくるころだし」
「……うん」
帰り際、私は引き出しの隙間に写真が入っているのを見つけた。おそらく中学校のものであろう制服を着た少女が一人と、私服を着た少女が一人。そのうち一人、制服を着た方はは間違いなく彼女だろう。そしてもう一人はどこか見覚えのある顔だが、私には見当がつかない。
「……じゃ」
彼女はまたねと言って笑う。夕日を背にした彼女の、長い髪が揺れている。風はとても冷たかった。
「おはよう」
いつものように教室に入り、机に向かって歩いていると、背後からそんな声がした。振り返ると、クラスメイトの女の子と目が合う。
「……おはよ」
ぼそりと呟く。何の気まぐれだろうか。
体が熱い。たった一言、あいさつですら、私には一大事だ。さっき挨拶をしてくれた子は、そんなこちらのことなどお構いなしに、会話に戻っている。
席に座る。結局、私はひとりぼっちだ。
「おはよう」
あろうことか、次の日も声を掛けられた。
「……おはよう」
今度は目を見て、挨拶を返す。
私はどうして一人なんだろう。——わかりきったことだ。端から人を見下して、遠ざけていたからだ。
挨拶をしてくれたあの子は、頭が緩い。考えなしに動く。馬鹿みたいに騒ぐ。だけど、不思議とその子に対する悪感情はなくなっていた。
「おはよう」
翌日も、あの子は声をかけてくる。
小さく息を吐く。口角を上げて、不格好でも愛想よく。
「おはよう」
私は挨拶を返した。
そんなことがあったとしても、私の日常が変わったわけでは無い。基本は一人、退屈の繰り返しだ。
ただ、朝が少し、楽しみになったぐらいだ。
挨拶をしても、体が熱くなるようなことはなくなった。
「最近どう?」
「まあ……そこそこ」
「いいことあったんでしょ」
桜の木の下、彼女は悪戯な笑みを浮かべる。
「まあ、少し」
風が吹き、桃色の花びらが空へと流されていく。眩しい日差しが心地いい。私は上着を脱ぐと、鞄に突っ込んだ。
「それはよかった。……私は何もないよ。何もないのは、いいことだね」
一月は行く。二月は逃げる。三月は去る。言葉の通り、あっという間に四月になってしまった。
桜は無情にも散っていく。あの場所の桜は、どうなのだろう。きっと、散らないはずだ。あんなにもきれいな血を吸った桜なら、簡単に散ってしまうはずがない。
それを確かめることはなく、いつの間にか春休みは終わってしまった。
新学期、人混みが散るのを待ってから、新しいクラスの書かれた紙へと近づいていく。見るのは自分の名前だけ。私はすぐに紙の前から立ち去った。
新しいクラス、新しい席。新しい出会いに期待してないと言ったら、嘘になってしまう。だけど私は自分に嘘をつく。一人で期待して、高いところに上って、結局突き落とされるのがオチなのに。せめて落ちても痛くないように、私は自分に嘘をつく。
休み時間になると、私はすました顔で外を眺める。小さなため息は、自分に向けたもの。矛盾している。馬鹿馬鹿しい。そんなことはわかっている。そして、人はそう簡単には変われないことも、わかっている。
だからせめて、話しかけられたときは、自然に笑みを作りながら、しっかりと受け答える。簡単には変われないから、積み重ねる。その積み重ねすらも、能動的には出来ないけれど、それでもそれは、私が重ねたものだから。
友達を作るのは、案外簡単なことだった。友達百人とはいかなくとも、自分の身の丈に合った友人が数人、自然にできた。
去年は、世界に拒まれてるような気がしていたけれど、先に壁を作ったのは自分の方だった。
「やっほ、久しぶり」
「お、上機嫌だね」
空が落ちてくるような大雨の中の、小さな安全地帯である東屋の中、私と彼女が並んで座っている。
「雨に対抗して、ね」
「多分、勝てないよ」
「勝つとか負けるとかじゃないんだよな、これが」
山ない雨、憂鬱な季節、すなわち梅雨。だから心意気だけでも、上向きで居たいのです。
「ほんと、変わったね」
「別に、なにも」
「お、戻った」
自分の変化は、ある程度自覚しているつもりだ。私は明るく、社交的になれた。それはいいことのはずだ。だけど、それがどうしようもなく怖かった。
私から陰気さと孤独と社会への馴染めなさを引いたら、後は何が残るのだろう。きっとそれは白紙の紙切れ。必死になって殻を破ったら、中身は空っぽだったような。普通に混ざった私は、結果として一番のアイデンティティを捨てることになった。
「別に、私はどっちでもいいと思うけど。……人はそう簡単に変われないからね。もし乖離してるんだとしたら、それは思い込みだよ」
「そうだと、いいんだけど」
彼女は不思議な笑みを顔に張り付けたまま話す。私から見ると、彼女の方こそ変わっているように見える。具体的にどこがとはいいがたいが、感覚的には説明できる。なんだか彼女は、自分を覆い隠しているように見えた。
「最近どう」
「なにもないよ」
「……そう」
沈黙を雨音が覆い隠す。
七月、太陽の脅威は日に日に増していく。梅雨という時期はいつの間にか通り過ぎていたらしい。
ちょうど期末テストの三日前。私は課題に手を付けていた。
「確かに、もう夏休みだね」
机の上に置いたスマホからは、友人の声がする。
「やっぱ、どっか行きたいよね」
「私はずっと暇だよ」
「知ってる」
スピーカー越しの笑い声。
「数学、何ページまでだっけ」
「ワーク? 33まで」
変化と言えば、私の学業に対する向き合い方も変化していた。
去年は提出物など一度も出したことが無かったのだが、今年は友達に引きずられて、ある程度真面目に課題をこなしている。
そういえば、彼女も課題は出さないタイプだったか。
「どう?」
浴衣を着た友人がくるくると回りながら問いかけてくる。
「え……」
思わず考え込んでしまう。そのセリフは、その問いかけは、去年彼女が何度もしてきたものだ。
「……かわいい」
「ありがと。みんなは10分後ぐらいに来るって」
そう言って友人は笑う。初めから、私の答えなんて気にしてはいない。コミュニケーションなんてそんなもの。そんなことは重々承知の上だ。
今年の夏まつりは数人の友達と回ることになった。私からすれば、今までにない大所帯だ。
馬鹿みたいな人ごみの中に飛び込んで、嘘みたいな長さの列に並んで、ふざけた金額設定の食べ物を買う。一人なら絶対にしないような愚かな行動。だけど、皆となら、馬鹿をするのも楽しかった。
人の海の中、花火に向かって携帯を向ける。
美しさは物珍しさ。写真に撮った永遠の美しさは、どうしても価値が下がってしまう。だから、写真を撮るなんて、今まで私はしてこなかった。けど、今ならわかる。その写真の本質は美しさなんかじゃなかった。本質は思い出。それを分かち合い、いつかそれを見て浸れるように、思い出を残しておく。それが一般的な写真の意義だと、最近になってようやく気付いた。
そういえば、彼女との写真は、私は1枚も持っていない。
「夏だね。とても暑い」
クーラーの利いた部屋の中、彼女はベッドに倒れ込む。
「今年は特に暑い。……毎年こう思ってるんだけどね」
「もう部屋から出れないよ」
言葉の通り、彼女はしばらく家から出ていないようだったが、部屋は前と変わらず不思議と片付いていて、不気味なほどに趣味嗜好の窺えない部屋だった。彼女は普段、何をしているのだろう。
夏休みはあっという間に過ぎ去り、いつの間にか訪れた二学期。特に変化も起伏も無く過ごす日常に行事がやって来た。
「ここ、これでいい?」
「うん、いい感じ」
文化祭の屋台の看板に色を付ける。
放課後に教室に残るなんて、今まで考えたことも無かった。教室は退屈の象徴で、1秒でも早くそこから解放されることばかりを考えていたから。だけど、期待はあった、予感もあった。そして期待どうり、予感どうりに、くだらない作業をする時間が、とても楽しい。
そして帰り道、暗い夜道。私は一人でそこを歩く。思い返すのは、友人との会話、ふざけ合った他愛のない思い出。
ああ、楽しかった。幸せだとも。だけど、それに比例するかの如く、不安も強くなる。ある日突然すべてが奪われるような気がする。そうしたら、私には何も残らない。孤独な自分はもういない。小さく弱く、拒絶される前に拒絶し、なにもかもを拒みつくし、誰からも傷つけられなかったわたしは、もうどこにもいない。
不可逆の変化は私を不安にさせる。幸せなんて、私には荷が重すぎるのかもしれない。
「ねえ、普段、何してるの?」
冷たい風が頬を撫でる。風には潮の匂いが混ざり、波の音が耳に入ってくる。無人の砂浜、私と彼女は二人並んで座っている。
「特に、なにも」
「なにもって……」
「文字通りだよ」
彼女は水平線を見つめながら話す。
何もしないだなんて、そんな訳が無い。時間なんて、どれだけあっても足りないというのに。
「別に、悪いことじゃないんだよ。何もしないっていうのも。……世界で一番贅沢な時間の使い方だと思うけど」
「でも、飽きちゃうでしょ」
「だから君を呼び出してるわけだよ。割と頻繁に」
最低でも月に一回は彼女に呼び出されている。
「そう……まあ、いいけど」
遠く、海を眺める。どこにも行っていないのに、なんだか遠くに来てしまったような気がする。それは錯覚のようなものでもなく、明確に彼女と私の距離が離れて行っているような気がするのだ。
彼女はきっと、何も変わっていない。変わったのは私のほうだ。
今の私は彼女からはどう見えるのだろう。変わってしまった私は、自分を殺して幸せになった私は、彼女の目にどう映るのだろう。
私にはわからない。彼女の思う事、考えること、わかるはずもない。
それは寒い冬のことだった。冬休みでやることも無く、暇を持て余した私は電車に乗り、北へと向かった。
去年、彼女と二人で向かったあの場所へ。
白く染まった田舎道。シャッターの閉まった商店の横には、たばこや酒の自販機が並んでいる。そして、そんなノスタルジックな雰囲気をぶち壊すコンビニは、やたらと広い駐車場を構えている。
白い息を吐きながら、目的地まで歩く。桜の木が生えた、あの公園へ。
去年のあの光景が何度も脳裏を横切る。あんなにも美しい血を吸った桜なら、きっと私なんかには想像できないほどに綺麗な花を咲かせたのだろう。
たどり着いた小さな公園。隣に彼女はいない。ただ一人、見上げたそこには、期待していた桜は、血のように濃く、鮮やかな桃色は、どこにも無かった。
ああ、桜は枯れたんだ。花弁は散ったんだ。当然のことだ。枯れない桜なんて、あるわけがない。覚めない夢がないのと、同じように。
それに気づいた瞬間、全身の力が抜けて、私は倒れ込むようにベンチに体を預けた。
空を見上げる。ぱらぱらと落ちる雪が額にあたる。
「あの……利永雪乃さん……ですか」
背後から声がかかる。振り向くと、中年の女性がそこに立っていた。年はおそらく、私の母親と同じぐらい。
「いえ、違います」
「そうですか……すいません。人違いでした」
小さく会釈し、女性は立ち去ろうとする。私は思わず、その女性を呼び止めた。私が間違えられたその名前は、あの彼女の名前だから。
「何か、あったんですか? 私、雪乃さんと知り合いなので、よければ、伝えておきましょうか」
「いえ、そういう訳ではなく……」
女性は気まずそうに目を伏せる。
「去年も、ここに来てた? ……雪乃さんと一緒に」
「はい」
それが何を意味しているかは、当然理解していた。あの時見に来ていた多くの野次馬は、きっとあの日の出来事を周囲に吹聴したことだろう。
「……そう。元気? 雪乃ちゃんは」
「はい。そこそこ」
それっきり、互いに口を閉ざす。私がそれに耐えきれず、声にならない声を発したところで、女性が口を開いた。
「松井紗季。……私の娘なの」
そう言い残すと、女性は立ち上がった。数歩歩いて振り返った時には、彼女の顔には穏やかな笑みが張り付いていた。
「ごめんね」
◇
それは身を焦がす暗い夏。花のように美しく、同時に花のように脆い、小さな命。
命は大切だと、学校で教えられた。一人に一つの、かけがえのないもの。だから、惨めに腐らせるのは、馬鹿らしいと思ったんです。
「おはよ、残念。死んでません」
目を覚まして初めに聞いた言葉は、そんなものだった。
見上げれば空、背中には硬い感触。どうやら私は、地面に倒れているらしい。そして、私の顔を覗き込むように、上から見下ろしている人が一人。
「……誰?」
長い髪がカーテンのように垂れ下がり、視界の半分を影に染めている。
「誰って、まあそりゃあ、そういう感想になるのも当然だろうけど」
体を起こそうと、力を入れる。
「痛っ……」
「命の恩人に対して、それはないでしょ」
体は起きなかった。力を入れた瞬間、自分の体を意識した瞬間、強烈な痛みが全身から迸る。
「君、急に落ちてきたんだよ。そこから」
彼女が指さした先には、小さな崖が反り立っていた。
「……あんな低かったんだ」
上からでは木に遮られて、地面は見えなかった。それでも、かなりの高さがあったと思うのだが。
「やっぱ、飛び降りたんだ。普通は死んでたよ。ラッキーだね」
彼女はそう言って、無邪気に微笑む。
「何がラッキーだ、気色悪い」
「いいの? そんなこと言っちゃって、置いて帰っちゃうよ」
「……好きにしたら?」
ああ、気色悪い。なんでわざわざ人を助けるような真似をするのか。そんなのは自分勝手だ。自己満足だ。エゴでしかない。
「じゃ、連れて帰っちゃお」
彼女はそう言うと、私を軽々と持ち上げた。
「君が勝手に死のうとするなら、私は勝手に助けるだけだよ」
彼女は穏やかに、独り言のように呟く。高くなった視界が揺れている。
「私は松井紗季。好きに呼んでいいよ」
「私は……」
雪乃。すなわち雪。こんな暑さじゃ今にも溶けてしまいそうな、ささやかな白。
「どう、おいしい?」
紗季さんはケーキを口に運ぶ。私の目の前にも食べかけのケーキと、まだ手を付けていない紅茶が置かれている。
「……帰りたいんですけど」
「いいじゃん、付き合ってよ。私の奢りだからさ。それに、口止め料として、数時間なら安いと思うよ。君だって、面倒事は嫌いでしょ?」
「脅しですか」
「取引だよ。……そこまで嫌? 私と居るの」
紅茶を口に運ぶ。
「人と居るのが嫌なんですよ」
「人間は嫌い?」
「気色が悪いです」
残りのケーキを一気に食べつくす。
「作業のように食べるんだね。……こんなにおいしいのに」
私が口を開こうとした瞬間、紗季さんが次の言葉を紡ぐ。
「味なんて、君は感じないもんね。面白いだとか、綺麗だとか、そういうのも無いんでしょ? 理解できない感情に動かされる人間が気持ち悪い。あなたは世界が気色のの悪い人間ばかりだと知って、そんな世界から逃げ出そうとした」
伏せていた視線を上げる。紗季さんは穏やかな笑みを顔に張り付けたまま、こちらをじっと見つめていた。
「君はそういう人。わかるよ。私もそうだから。……やっと目を見てくれた。どう? 私、綺麗?」
大きな瞳、薄い唇。透き通るような白い肌。きっと一般的には、彼女の顔は綺麗だと言えるのだろう。
「口裂け女みたいなこと、言わないでください」
「妖怪みたいなものだからね」
紗季さんはそう言って、口を斜めにする。
「受験生か……高校、もう決めてる?」
紗季さんは窓の外を眺めながら呟く。
「いえ、何も」
「うちに来なよ、楽しいよ」
紗季さんの着ている白色の制服、私はそれに見覚えがあった。
「ミッションスクールですか。神に興味はありませんよ」
「別に、信仰する必要はないんだよ。わかりやすく文字にされた共通の価値観。それなら理解もできるかもしれないし、少しはみんなになじめるんじゃない?」
紗季さんはこちらに体を向ける。いつもどうりの穏やかな笑みを、顔に張り付けたまま。
「詭弁ですね」
「そう? 決めつけは良くないよ」
「……それ以前に、私は高校なんか、行きたくありません」
そもそも、私は死ぬつもりだったのに。未来なんて、見たくない。
「ああ、そうだったね。……でも、君は生きるべきだよ」
「……そういう所が、気色悪いって言ってるんですよ」
命は大切だ。生きることは素晴らしいことだ。みんなはそろってそんなことを言う。大切なものは、素晴らしいものは、悪意と得体のしれない不安に晒されていると、いずれ腐ってしまう。
それを許すのが、はたして素晴らしいことと言えるのだろうか。
「うう……お腹痛い」
「食べすぎですよ」
数時間程度では許されず、結局私は夕食まで紗季さんに付きあわされた。
「……」
紗季さんはその場に屈みこんで、苦しそうに蹲っている。振り返ったその顔からは、いつもの穏やかな笑みは消えていた。
思わず、笑みがこぼれる。
「……笑うな……」
——あれ、私、笑って……。
「水でも、買ってきましょうか」
「買ってきて!」
夜の空に、小さな感情が溶けていく。月と星、今夜もいい天気。
「ちょっと、涼しくなってきたね」
翌日以降も紗季さんは逃がしてくれず、あれから何度も、紗季さんのおしゃべりに付きあわされていた。
部屋の隅で窓にもたれながら話す紗季さんは、穏やかな笑みを顔に張り付けながら、若干頭を傾けている。
紗季さんはティーカップに口を付ける。湯気の立ったカップの中には、ミルクティーが入っているはずだ。
静寂、虫の声だけが響く中。私の目に映る彼女の姿は、とても――。
「夏には、溶けてしまいそうに思えるんです」
自然と言葉が、口からあふれていた。
「世界は意味の分からないものばかりで、そのくせ嫌な感情ばかり一丁前で、もちろん周囲は気持ち悪いけど、何より一番に、自分が気持ち悪くて仕方がないんです」
こんなこと言ったって、なんにもならない。そんなことはわかっている。なら、私は何を求めて――。
「それでいいんだよ。人は変われない。だから世界は広いんだ。……私、本当はこんなんじゃないの。学校では、もっと陰気な人間なの。……どっちが、本当の私なんだろうね」
「それは……」
目の前の紗季さんが本物だと言いたかった。紗季さんの言葉が心からのものだと思いたかった。
「ごめんね。学校の話は、しない約束だったね」
「……別に、いいです」
今、そう思った。
「いいんです。私、あと少しだけ、生きてみます」
それは雪の日。体の芯まで冷えるような朝。紗季さんは私の目の前で、自殺した。
それはとても、美しかった。生まれて初めて、人間を美しいと思った。
そしてまた一人、広い世界で、美しいものを探していた。
ある日、私は自分に似た女の子を見つけた。孤独に佇む、触れれば崩れてしまいそうな彼女の姿が、昔の私に似ているような気がした。
だけど違った。決定的に違った。
そして私は、自分勝手に消えようとした。そうしたら、紗季さんが死んだ理由も、わかる気がしたから。
そんなことをした後も、彼女は私のそばにいてくれた。私もそれを拒みはしなかった。私と彼女は違うというのに。一緒に居ると、ひどく安心した。それはまるで、紗季さんと一緒に居るようで。
でも、それも今日でおしまいです。私が探したものは、美しいものなんです。
あれから何度も、人が死ぬ動画を見た。人が死ぬのを見ても、気持ちが悪い以上の感想は抱けなかった。
なら、紗季さんは何が違ったのか。
多分、私の問題なんです。きっと私は、彼女が好きだったから。あの景色があんなにも、美しく見えたのでしょう。
◇
「……雪乃ちゃん」
雪の降る中、彼女は桜の木の前に立っている。風に揺れる髪と、長いスカート。彼女の手にはあの時同様、ナイフが握られていた。
立ち上がり、彼女に近づいていく。
彼女の目は、じっとこちらを捉えて離さない。何も言わなくとも、彼女の目が何よりも雄弁に語っていた。
彼女はきっと、私を刺すのだろう。それでもいいと、私は思った。
「ずっと、不安だった。頭に残るのは嫌なことばかりで、人よりできない自分ばかりが目につく」
口から漏れる言葉は、ささやかな決意。逃げ続けた私の、最後の決断。
「人間が嫌い。そしてそれよりも自分が嫌い。得体のしれない何かにずっと押しつぶされそうで、ただただ怖かった」
それは、消えない。どれだけ幸せで、楽しくても、祭りが終われば、必ずそれはやってくる。
「もし、それから逃げ切れるなら。……それでもいいと、私は思う」
彼女の目の前で立ち止まる。私より少し背の低い彼女の目を見つめて、穏やかに微笑んで見せる。
彼女は目を見開いて、動きを止める。まるで息すら止めているように、じっと。
雪は冷たく、あたりは静か。自動車の音すら聞こえてこない。
「……桜は、散ったんだよ」
彼女は体を震わせながら、囁くように声を出す。
「永遠に続く美しさなんてない。……桜が散ったら、あなたはどこに行くの」
目の前の桜は、冬の桜は、灰色を連想させる。あの鮮烈な赤色は一時のもの。一瞬で、消えていった。
「ねえ……ひとりにしないでよ」
彼女の伏せた瞳は微かに震えている。
「……おいていかないで」
それは、おそらく初めて聞いた、彼女の本音だった。
彼女は直前まで、本当に私を殺そうとしていたのだろう。だけど、多分。私の姿が、死んでしまった松井紗季という人物に重なったのだろう。
いつか、死んでしまうと思っていた。眠るように目をつむり、そのまま二度と目覚めないのが理想だった。死ぬときは一人だと、ずっと思っていた。一人で死ねると、信じていた。
——ああ、これじゃ……。まだ、まだ、死ねない。
伏せた目を上げて、彼女の目を見る。いつもの超然とした雰囲気の彼女は、どこにも居ない。そこに居るのは脆く、弱い、一人の人間だった。
「私は、どこにも行かない」
なら私も、一人の人間として答えよう。不安や恐怖を抱えて生きていくなんて、そんな強さは私にはない。だからせめて、一人じゃないように。寄り添って、不安や恐怖から目を逸らして、誤魔化しながら生きていく。
誰かと。否、彼女と一緒なら、私は自分のまま、生きていける。
桜と死体があるならば 空式 @abcdefddd
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