第13話 人殺し
「……誰だ」
振り向くと、そこには一人の男が立っていた。少年は突如として現れた男に戸惑い、言葉を失う。すると男はため息交じりにもう一度聞き直した。
「だから。てめえは誰だ?」
「ぁ……」
少年が言葉に詰まる。そして驚愕の表情を浮かべた。だが無理もない。少年は自らの名前を言おうとしたものの、名前を思い出せなかったのだから。まるで記憶からすっぽりと抜け落ちているかのように、本能的にどれだけ考えようと思い出せないことが分かっているかのように。
これまで何十年と背負ってきた名前。しかし今は一文字すら思い出すことが出来ない。完全に忘れている。ど忘れではない。完全に記憶から消え失せている。戸惑う少年に男が一歩近づき、そしてもう一度問う。
「てめえは言葉分かんねえのか?」
「………い、いえ」
「じゃあもう一度聞くぜ。てめえの名前は」
少年が必死に頭を回す。しかし出てくるはずもない。眼球をぐるぐると回し、辺り一帯を見回す。何か手がかりになるようなものはないかとヒントを求めるように。だが見つからず。同時に時間が経てば経つほど男の漂わせる雰囲気がピリピリとしたものへと変わっていく。
そのため少年は慌てて、ふと自らの右腕に視線を送った。先ほどは気が付かなかったが、手の甲に小さく『GURA』と彫られている。慌てていたこともあり、少年は咄嗟いにその言葉を言う。
「グラ……」
「グラ?」
「……グラ…って名前です」
「変な名前だな。お前はなんでここにいる」
なんでここに、と問われても少年―――グラには答えられない。気が付くとここにおり、鏡を探してこの建物に入ったとは馬鹿馬鹿しすぎて説明ができない。だが取り合えず何か言わなければいけないと、少しだけ話題を逸らす。
「……ここ、入っちゃ駄目でしたか」
「いや。そういうわけでもないんだけどよ。ここら辺はちと物騒で、見知らねえ奴が敷地内にいるとこっちも大変なんだわ。お前はここがどこか知ってるのか?」
「え、知りません……」
男がグラに一歩近づく。
「ここは第13区と呼ばれてる場所だ。どうだ、知ってるか?」
グラが頭の上に疑問符を浮かべる。その様子を見て男が笑うと懇切丁寧に説明し始める。
「俺たちが住んでるこの都市は13個の居住区に分かれていてな。中でもお前が今いるこの第13区は治安最悪の場所だ。少し先いけば浮浪者なんていくらでもいるし、犯罪者もいる。ANIMAも良く入って来る。それに犯罪組織だって幾つもある。お前はそんなところにいんだよ」
「……そ、そうなんですか」
「そうだ。基本的に、この場所にいる人は誰一人として信用しちゃだめだ。当然、俺もな」
言い終わると同時に男が
「取り合えず持ってるもの全部出せ」
グラは今自分が置かれている状況を認識した。脅迫されている。拳銃を突きつけられて。
グラは男の言葉の通りに持っているものを差し出そうとする。しかし生憎、グラが持っている物は無い。
「……もって、ません」
「はぁ? 持ってねえだと。てめえそんな質のいい服着ておいて何もない? ありえねえだろ。なめてんのか?」
一発の弾丸がグラの顔面すれすれを飛んでいく。
「…………」
早すぎて認識出来ていなかったのか、それとも恐怖心が無いのか。あと少しでもずれていたら死んでいたという状況を体験したというのに、グラが怖がることは無い。それどころか、銃弾を放たれてからのグラの雰囲気は重く、冷たいものへと変わっている。
男はその変化に気が付き、少し驚きながらも表面上には出さず毅然とした態度を保つ。
「ッチ。顔は整ってるか、まあ売れるか。取り合えず服脱げ。その服。それなりの値段で売れんだろ」
服を脱げと言われても、脱ぐことはできない。どれだけ頑張ってもコートすら肌から離れてくれないことはすでに分かっている。
「…………」
「おい。俺の言ってることがわかんねえのか?」
「いや」
「だったら早く脱げこのガキが!」
そう言われたところで脱げないものは脱げない。グラはただ戸惑うことしかできない。そんなグラに向けて男は拳銃の引き金にかけた指に力を入れていく。
(まあいい。殺して奪えばいいか)
本来ならば生きたまま売り捌きたいが、スラムの底辺にいる男にはそのような伝手を持たない。故に服を売ることや、死体を解体屋に預けることしかできない。今まで殺さなかったのは何かもっとグラを有効に使えるのではないかと考えたためだ。しかし面倒になった。
男は拳銃の引き金を引く。撃ち出された弾丸は少年の脳天へと一直線に走る。しかし命中することは無かった。
「――な」
男がたじろぐ。無理もない。
少年が羽織っているコートが風に揺られるかのように勝手に動き、少年を弾丸から守ったのだから。それまでしなやかであったはずのコートは弾丸を受け止める瞬間に硬化した。
そして弾き飛ばされた弾丸は跳ね返って男の足元に埋まる。
「おま――なん」
男が一歩下がる―――と同時に男の首が飛んだ。弾丸からグラを守ったコートが形状を刀のようなものへと変化させ、男の首を断ち切ったのだ。
「え……あ」
グラはそれを見て、驚くことも声をあげることすらも出来なかった。目の前で起きた情報の処理だけで精一杯だったのだ。地面にへたり込み、男の死体に目を向ける。今更、死体を見て、転がった頭部を見て残虐に思うことは無い。異形の怪物と化した時に、それよりも酷い光景を見ているためだ。
感情は揺れ動かない。しかし今、自分は人を殺したのだと理解した。拳銃で撃たれたあとグラの中に激情が湧き上がった。グラの気持ち、意思に呼応するようにコートは形を変形させ、男を殺した。
自分が
「あ……ごめん」
グラが地面にへたり込んだまま平坦に呟く。コートが勝手にやったこととはいえ、グラは確実な殺意を持っていた。男を殺したのはグラなのだ。しかし責任を感じれず、目の前の光景に特別な感情が湧き上がることは無い。
衝撃的な光景が目の前にあり、感傷的なことが起きたはずだというのにグラの心は揺れ動かない。いつまでも平坦。だからこそグラは自身の身に起きていることが理解できず、その場にへたり込むことしかできなかった。
すでに何が起きたのかは理解している。だがそれによって引き起こされたこの形容しがたい感情。激情でもなく感傷でもない。グラはただ戸惑うことしかできなかった。
そして理性的に考えて、人を殺したというのに全く揺れ動かない感情に、あまりにも平坦な反応しか示さない自分自身にグラは恐怖を抱いていた。自分の身に起きた変化は色々とある。異形の怪物となってしまったし、左腕には義手がくっついているし、コートは脱げないし、勝手に動くし、だがそれらによる動揺より、この心情の変化がなによりも恐ろしかった。
「……あれ」
気が付くとグラは男の死体を漁っていた。拳銃を懐にしまい、財布を抜き取り。これではグラを脅迫した男とやっていることは何ら変わらない。今、自分は一体何をしていたのかと、グラは怖くなる。
一歩たじろぎ、尻もちをつく。
それまでは
目の前で横たわる首なしの死体が、血を流しながら転がる頭部が。
「あ、ああ」
やってしまったことの重大さ。
地面を転がった頭部は口が力なく
「お、おれはやってな……」
やっていると、そう告げられている。自分の意思で人を殺したのだとそう理解してしまっている。
「ご……ごめ。……ごめん、なさい」
謝罪は責任をうやむやにして、心を軽くするための免罪符だ。誰に謝るわけでもなく、許してくれる対象もおらず。しかし唱えているだけで自身の責任が軽くなる魔法の言葉。
謝ったからって殺した相手が赦しを与えてくれるわけが無いのに、自分のためだけに謝罪の言を並べ立てる。
「…………あ、ああ……」
腐った牛乳をしみ込ませた生乾きの雑巾が目前に突きつけられているような気持ちだ。
「……ご――ぁ……っ」
少年はただ死体の前で
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