第5話 寝坊とハート

「やば、急がないと…っ」


 やってしまった。彼女に影響されて久し振りに長編小説を読んでいたら、気付けば早朝の四時になってしまっていた。そこから寝てしまうと、朝になって起きられないことを分かっていたが、それでも睡魔には勝てなかった。


「腹、減ったなぁ…」


 ぜぇぜぇ、とだんだん息が上がっていくのを感じながら全力でバス停まで走る。

塀の上で喧嘩をしている猫にも目をやらず、ただ夢中になって走った。そして立ち止まって膝に手をつき、いつも通りの彼女の姿に安堵する。

 バスが来るまであと5分も無い。


「なんとか間に合った…」


 呼吸を整えながらベンチのほうまで向かう俺に気付き、橋本さんはなにか言いたげな表情を浮かべた。


「お、おはよ」

「おはようございます。今日は寝坊しちゃったんですか?」


 そう言って彼女はクスクスと笑った。

俺はベンチに腰を下ろして、そんな彼女に問うた。


「やっぱり、目立ってるかな?」


 触ってみると、一部分だけ他と違って飛び出ている所がある。


「はい、もの凄く目立ってますよ、その

「やっぱりか…直す時間なかったんだよ…」


 グイッと引っ張ってみても、手を離すとすぐにピョンとはねてしまう。そんなに目立つかこれ…。そんなことをしていると、バスが来てしまい、寝癖は諦めることにした。

 腰が重いが、ゆっくりと立ち上がった。

そんな俺に橋本さんが言う。


「それ、そんなにも気になるならバスの中で直してあげますよ」

「えっ⁉︎」

くしは持ってますから」

「お願いします…」


 よほど俺は寝癖のことが気になっていたのだろう。女の子に寝癖を直してもらうという行為がどれほど恥ずかしいかを考えずに、それを受け入れてしまっていた。


・ ・ ・


「髪、サラサラですね」

「そうかな…?」


 俺の隣に座り、橋本さんが寝癖を直してくれている。今になってやっと恥ずかしいと思うようになってきた。

くしの先端、一本一本が優しく俺の髪を撫でるようにして通っていくその感覚が、なんだか気持ちいいと思ってしまう。


「よし、できました」


最後の方はなぜか、束にした髪を引っ張られているような感じがしていたが、まぁいいとしよう。


「なんだか弟ができたような気分でした!」

「兄弟はいないの?」

「はい!なので、人の寝癖を直すのはとても新鮮でした!」

「そっか」


 人の寝癖を直すだけでこんなにも楽しそうにしている彼女の姿を見ていると不意にも笑みを溢してしまった。


「ちょっと、橘くん、なんで笑ってるんですか!」

「ご、ごめんって」


 笑い合いながら、バスに揺られて学校へ向かう。こんな時間はいつまで続くのだろうか。

 俺がハートに結ばれた髪に気づくのはもう少し先だった。

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