初めての海

窓一つない無機質な白い壁。

まるで取調室のようなテーブルとパイプ椅子。

そして、不機嫌そうな顔をした浅葱の姿。

しかし、どうやらこれは素の表情らしい。

一足先にパイプ椅子に座った浅葱が悠に声をかける。

「早く座れ」

「はーい」

促され、向かいの椅子に腰を下ろした。




「まず、初めにタスクについて説明する。内容については主に二つあり、一つ目が配達業務だ。鳩羽島の住民宛に送られたハガキや荷物は、一旦全て鳩羽郵便局というところに集められ、それから個々へと輸送される。ちなみに今俺たちがいるのも鳩羽郵便局内だ。まぁ、ここはクレーム対応部屋のようなところを借りているわけだがな」

「え、こんなぼっろい部屋が?」

予想外の用途に思わず声が出た。やばい、と思ったが、今更取り消せない。

「すいません…」

できる限り殊勝に見えるよう、縮こまって頭を下げる。

その甲斐あってか、浅葱は睨むような視線をこちらに投げかけただけで、何も言わなかった。

「…で、お前がやるのは、この施設内に集まった配達物を正しい輸送先に送り届ける、至ってシンプルな作業だ。馬鹿でもできる」

「い、嫌味ですか」

「そのくらいは分かるんだな。大したもんだ」

浅葱が嫌味製造機になっていることに気づき、悠は黙る。

その代わり、続きをどうぞという視線のみを向けた。

その視線を受け取り、浅葱は続けた。

「そして二つ目。防衛業務。知っていると思うが、基本的に、日本本土の者がこの島に入る、要するに鳩羽門をくぐるには入門許可証が必要になる。しかし、時に、本土の法律から逃れるためなど、不当な理由で島に渡ろうとする奴がいる。そういった極悪人を追い出すこともお前の仕事だ」

そこまで一気に話すと、テーブルの上に置いてあったお茶に手を伸ばした。

飲む際に優の方を盗み見ると、どうやら二つ目の話になってからは真剣に耳を傾けていたらしく、おそらくこっちが本命なのだと推測することができた。

 その後、それぞれの具体的な内容説明に入り、それが終わった頃には、浅葱に無理矢理持たされた悠のメモ帳は案外ぎっしりと埋まっていた。









5分の休憩後、悠が指定されていた集合場所へ行くと、制服を着た浅葱が先に着いていた。どうやら5分の間で、ラフなTシャツから着替えたようだ。

「お疲れ様です、主任。着替えたんですね」

「あぁ。今から外を歩くというのに流石に部屋着はまずいからな」

宿舎から鳩羽郵便局への道のりはどうやら屋外だと認識されていないらしい。

ツッコミたいところはあるが、まぁいいだろう。





待ち合わせ場所から10分歩いたところで、大きな門が見えてきた。鉄でできた威圧感のある大きな扉に、深緑の屋根。

対岸にいても、展望台に登れば容易く見ることができるだろう。


「これが鳩羽北門だ」

この島の者なら言わずと知れた名所ではあるが、案内の決まりがあるらしく、浅葱が改めて紹介する。

「有名ですよね。小学校の社会科見学で行きました」

こちらも一応、初見ではないことを主張する。

しかし、浅葱はニヤリとした。

「そうだな。これを知らない人はほとんどいない。だが、この外を知っている奴は何人いるんだろうな」

鳩羽島に住む人々は、門を出るための出門許可証、及び本土へ上陸するための手続きが面倒で、旅行へ行こうと思うことはあまりない。その上、島での暮らしに満足しているため、門をでる機会はないに等しい。しかし、一部の人は門を出ることへの憧れを持っており、悠もそのうちの1人だった。

「自分は一度もないです。出てみたいなとは思うんですけどね」

「行ってみるか」

「いいですね………って、え?」

危うく賛同しかけて、浅葱の方を見る。

けれど、当の本人は冗談で言ったつもりはなく、スタスタと門番へ近づいていき、何かを見せて話し込んでいる。

悠は慌ててその背中を追いかける。

 しばらくすると、門番は浅葱の説明に納得した様子を見せ、鉄門の横の、1人の一般人男性がギリギリ通れそうな扉を開けて通してくれた。勿論、誰も彼もが通れてしまうような柔い警備ではない。

浅葱が門番にお礼を言いながら扉を通って行ったので、悠もそれに倣ってお辞儀をしてから後に続いた。





「海だー!!!」

門の外には港があり、それはつまり海があることを示す。初めての海に感極まって、注意されそうなほどの声量で叫んでしまったが、浅葱はそれについては特に何も言わなかった。その代わりに、

「本当ならば、演習の時にしか来ないような場所だ。実習でヘマしないように今のうちにしっかり予習しといた方がいいぞ」

と、こちらは職業目線で助言したが、その言葉は悠に伝わることはなく、無邪気な子供のように砂浜で駆け回ったり、海水に足をつけてみたりしている。

もう一度言おうかと思ったが、呼び止めた悠の眼の下に隈があることに気づき、何でもない、と悠を解放し自分は砂浜に寝転び、居眠りに徹した。








目を覚ますと、隣で悠が座っていた。

貝を弄って楽しそうに遊んでいるように見えるが、先ほどのように走り回ってはいない。

体力がなくなったのかと思ったが、おそらく違う。これは、

「お前、転んだだろう」

浅葱が寝ていると思っていたからか、図星を刺されたからか、悠はひどく驚いた。

そして、恥ずかしそうに目を伏せる。

「ばれましたか。…さっき、端っこまで行ってみようと思って走ってたら思いっきり流木に引っかかって転んだんですよ。水道水で洗ったんですけど、血止まんなくて」

「馬鹿かお前!」

最後まで説明する前に怒鳴られ、思わず怯む。

その隙に浅葱は悠の足に手をかけ、おぶった。

「わぁ!」

思わず悲鳴が出て口を抑える。

普段は、女であることを悟られないように心がけて低い声を出しているが、気を抜くと元の声に戻ってしまう。

怪しまれたか、とおぶわれた背後から浅葱を覗くが、浅葱はそれどころではないようだ。

どうやら患部からの出血が多いらしく、片手で悠を支えながらもう片方の手で自分のハンカチを悠の足にきつく巻き付けている。

ハンカチがみるみる赤色に染まる。

申し訳なさに耐えられなくなって声をあげた。

「ハンカチ、巻いてもらわなくて大丈夫ですよ。自分図太いので」

「馬鹿。そう言う問題じゃないわ」

本気で怒っているらしく、声が怖い。

悠は大人しく、されるがままになった。

 

 門を抜けた後も浅葱は降ろしてくれず、かといってそれを指摘するとまた怒られる未来が見えたので、せめてすれ違う人に顔を見られないよう、浅葱の背中に顔を押し付けた。

「痛いか?」

そう言って浅葱が悠を背中越しに振り返る。

痛みを耐えているのだと思われたのだろう。

「や、違うんです。気にしないでください」

「そうか」

何かを察したらしく、浅葱はそれきり何も尋ねなくなった。

しかし、長時間の無言はそれはそれで辛く、我慢できなくなった悠は、口を開いた。

「あの、また海行きたいです」

「だめだ。毎回転ばれたらこっちの身が持たん」

「転ばないように気をつけるから!」

「敬語」

注意されてあっ、と手で口を抑える。

「…気をつけます」

渋々言い直すと、背中が揺れた。

覗き込むと、どうやら浅葱が笑ったらしい。

…笑ったら、意外と可愛いなぁ

不覚にもそう思ってしまった。

笑ったままで浅葱が言う。

「足と手の怪我が治ったらな」

「え、手も怪我したの気づいてたんですか」

「当たり前だ。俺をなんだと思ってる。というか、転んで受け身も取れないようなドジなら、」

浅葱の笑いが不適な笑みへと変化する。

嫌な予感。

「明日からビシバシ鍛えてやる」

ほーら、的中。

「嫌だ!怪我人を労って!」

「おいお前、敬語。っていうか暴れんな!」

バシっと尻を叩かれ、再び悠は大人しくなる。

うわ、もし女だって言えたら今の堂々と訴えてやるのに、と内心毒づく。

しかし、やっと浅葱と喧嘩以外のまともな会話ができ、少しだけ嬉しくなる自分もいる。


朝に感じていた不安は、いつしか何処かへ消え去っていた。

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