第7話-② 片耳の破戒僧〈下〉

「ひとを殺したのさ。彼女の──さっき会いたいと言った女性の父親をね。地方の領主を務めていた男だった」


 なにやら複雑な事情の気配を感じて、不謹慎とは思いつつも、微かに好奇心がうずく。それもそのはず。禿頭とくとうで片耳の僧侶が自らのことを口にするのはこの遠征では初めてのことだった。

 もっと詳しく、と言いかけたところで。


「む、湯が沸いたか」


 話の流れは途切れてしまう。

 ディルクスはふところを探ると小さな麻袋あさぶくろを取り出した。ふわりと嗅ぎ慣れた匂いがする。


「あれ、それって……」


 答え合わせのように小袋から現れたのは渇いた草の葉。青臭い香りだ。その葉には覚えがある。メノウが薬草を取り分けるときに何度も見た。


羅勒草らろくそう、ですよね」

「ほぉ、知ってるのかね」

「妹が草花に詳しいので、それで。料理に使う香草、ですよね」


 なるほどな、とディルクスは葉を差し出してくる。


「湯を注いで飲むといい。いくらか気が安らぐ」


 ディルクスは自ら率先して実践する。見よう見まねで羅勒草らろくそうの渇いた葉を指先ですり潰し、椀に湯を注ぐ。一口飲むと、青い香りがすうっと腹の底に落ちていくのを感じる。温かさと相まって不思議と気持ちが和んでいく。


「落ち着きますね、薬湯くすゆのようだ」

「なかなか悪くないだろう」

「ええ……。僧侶の方って、お医者さんみたいですね」

「医者? 私が?」ディルクスは笑った。

「お、おかしいですか?」

「いやなに、羅勒草らろくそうは私の宗派ではとむらいに用いるものなのさ」

「弔い、ですか?」

「ああ。亡くなった人を火葬する際に、残された人々が投げ入れる。死後の魂を香りと共に天に導くと言われていてね」

「へえ、そんな意味が」

「ま、実際のところ、があるから重宝されたのだが……それが転じて、祭事さいじ葬儀そうぎにまで用いられるようになったんだ」

「そ、そうだったんですね。てっきり香草として使ってるのかとばかり」

「言われてみれば、ふふ、気持ちを落ち着かせたい夜にせんじたことの方が多いかもな」


 ディルクスは自らの椀を握り締めて呟く。


「案外、魔力の回復などという実用性よりも……残された側の人々が気持ちを安らげるために用いられたという感傷的な理由が起源かもしれないな」

「なんだか……こう、俗っぽい感じですね」

「はは、宗教なんて所詮しょせんは気休めさ。ただし、さ。……破戒僧の私が言うのもなんだがね」

「なる、ほど」


 腑には落ちないが、そういうものなのだろうと呑み込むことはできた。

 誰しもなにかに頼りながら生きている、ということだろう。


「私には救いなのさ。いずれ〈神判〉が私を裁いてくれるというのは」


 ディルクスは呟いてから一気に薬湯を飲み干すと、手際よく火を始末してしまう。


「さ、寝よう! 今はできるだけ体力を回復しておかねば」


 二人の間にはそれ以上の会話は生まれず、互いに無言で闇に眼を閉じることになり。

 ディルクスは夢を見た。

 彼女の夢を。



 * * *



 ディルクスの人生は羅勒草らろくそうの香りと共にあった。

 彼女に出会ったときもけた羅勒草らろくそうの匂いがしたのを、今でも憶えている。


 教会本部からの指令を受けたディルクスが地方の街に配属されてすぐのこと。

 初仕事は葬儀の執行だった。

 職務を果たし終え、改めていち個人として墓前で祈りを捧げていたディルクスは──まだ右耳の削がれていなかった彼は、一人の若い娘に頭を下げられていた。


「僧侶様、母を弔っていただきありがとうございました」


 深く礼をした彼女が顔をあげると、落ち着いた琥珀色こはくいろの瞳に吸い込まれそうになる。

 名をアンベル。領主の一人娘だ。

 線が細く、穢れを知らない、いかにも箱入り娘といった印象だった。

 ディルクスは瞑目して頭を下げ返す。


「立派な御方だったと聞き及んでいます。邪族によって故郷を失った民を受け入れ、孤児のための養護施設を開かれていたと」

「ええ。自慢の母でした」


 アンベルは墓に突き立てられた聖十架せいじゅうかにそっと触れる。


「お母様はいつも民のことを考えていて、お父様の──民よりも己の身を案じる臆病なお父様を陰から支えるようにあちこち走り回っていました。私はそんなお母様が誇らしく、とても大切に想っていました…………それが賊に殺されてしまうなんて…………」


 洟をすする音にディルクスは顔を上げた。

 アンベルは恥ずかしそうに顔を覆う。

 ぽろりと涙の粒がこぼれた。


「お見苦しいところを、すみません」


 ディルクスはなんと答えたものかと思案したのち、口を開く。


「……雨のあとには作物がよく育ちます。ですからその、涙も、悪いわけじゃない」

「え?」

「つまりですね、空っぽになるまで吐き出すことも、時には必要ではないでしょうか。でなければ、いつまでも苦しいままです。ですから、たとえ見苦しくとも、どうか己の気持ちから目を背けないでください」


 ディルクスが伝えると、アンベルは目を丸くして、「おかしなひとね」と驚いた。


「そうでしょうか?」

「ええ、おかしな人です。こんなことを言うのも変ですけれど、私てっきり『見苦しくなんてない』と言われるかと思っていたのに」


 それがお決まりのやりとりでしょう? とアンベルは恥ずかしそうに言う。


「でも僧侶様は見苦しくないとは言わなかった」

「ええと、それは……」

「分かっていますよ。私のことをおとしめるつもりはないことくらい」


 慌てるディルクスへ、アンベルはすかさず助け舟を出す。


「悲しんでばかりはいられないと思っていたけれど……そうですね、むしろすっきりと吐き出さないことには前に進めないかもしれません」


 ありがとう、とアンベルはさっぱりとした涙をこぼした。


「今日はしっかり悲しんで……明日からは母の代わりとして頑張ります」


 強い娘だとディルクスは思った。目の端には光るものがあるというのに、凛と笑って立ち直ってみせた。いかにも箱入り娘と思った自らの目が曇っていたのかもしれないと反省する。


 華奢だが、芯の強い少女。

 ディルクスはアンベルの印象を、そう改めた。


 葬儀から月日は経ち、彼女は自らの言葉を証明するように母の代わりを務めていた。

 養護施設の長として孤児たちの世話をし、さらには邪族によって故郷を追われた流民を受け入れて、民衆からの支持を集めていた。


「見合いの話もあるのですけれどね。お父様には申し訳ないのですが、私は嫁ぎに出るよりも、この街の人たちに尽くしたいのです」


 彼女は執務の合間を縫うようにして屋敷から教会へやって来ては、ディルクスにこぼした。ひとのいない礼拝堂は息抜きにちょうどいいのだとアンベルは言いはり、決まって羅勒草らろくそういてくれとディルクスにせがむのだ。


 春の匂いがして落ち着くと彼女は言うが、ディルクスには、母親を弔ったあの日を忘れないようにしているように思えた。彼女の琥珀色の瞳はどこか遠くを見ていたから。


「せめてお父様は支えたいんです。心の弱い、どうしようもない人ですけど。唯一の肉親ですし、お母様が支え続けた人だから。……また、お話を聞いてくださる、ディルクス様?」

「ええ。それも僧侶の仕事です」

「ふふ、仕事ね。仕事」


 初対面のころとは違って「僧侶様」ではなく「ディルクス様」と呼ばれるようになっていた。

 アンベルの琥珀色の瞳に自分が映りこむ日が増え。

 それでもアンベルとは、ただの領主の娘と僧侶の仲だった。


 ときおり聖典の一節を読んでみせ、ときおり彼女の悩みを聞き。ときおり祈りを捧げ。

 彼女とはそれだけの仲だった。

 はずだった。


 忘れもしない、嵐の夜。

 教会の扉が開かれ、豪雨が吹き込んでくる。そろそろ修道院へと寝泊りに戻ろうとしたディルクスは入ってきた人物に驚く。

 アンベルがずぶ濡れで立っていた。


「…………ディルクス様、わたし、どうすれば、──……」


 よろめく彼女を抱きとめてゾッとする。

 彼女の衣服は切り裂かれ、陶器とうきのごとき白肌しろはだあらわになっていて。ただごとではないとすぐに理解する。ディルクスの顔が険しくなる。


「なにがあったのです」

「わたしは……わたしは……罪を犯してしまいました……」

「罪……? いったいどうしたと……」


 琥珀色の瞳が恐怖に揺れている。


「わたし、お父様を──……」


 殺してしまったの。

 アンベルの唇からこぼれた言葉にディルクスは目を見開く。

 礼拝堂の外で雷がピシャリと落ちる。光に切り取られたアンベルの影を見て、手に燭台しょくだいが強く握りこまれているのに気付いた。血の付いた、銀の燭台しょくだい


「……っ!」


 なぜ。どうして。疑問が暴風と共に脳裏のうりを巡り、なんと声をかけるべきかと逡巡しゅんじゅんして。


「…………罪を犯したのであればつぐなわなければいけません」


 口から出た言葉には、自分でも嫌になるほど仕事の匂いが染み付いていた。

 きしむ音を立てて教会の戸が閉まる。

 アンベルは崖から突き落とされたような顔をする。


「そう……です、よね」


 彼女はそれから唇を強く結び、嗚咽おえつを呑んでうなずく。そんな彼女の、今にも壊れそうな、嵐の夜のような瞳を見てディルクスはハッとした。

 我を忘れてアンベルの手を掴む。


「ディルクス様……?」


 不思議そうに見つめられるが、目を合わせず、燭台しょくだいをきつく握りこむ彼女の手をゆっくりと開かせていく。


「まずは状況を確認しましょう」

「え」

「あなたが罪を犯したのであれば償わなければいけない……ですが、私はまだこの目で確かめてはいません。実際にあなたが罪を犯したのを。私は、まだ見てはいない。であれば、どうしてあなたを責められましょう」


 詭弁きべんであるとは分かっていた。

 燭台しょくだいから滴る血が、彼女の表情が、罪を犯したことを暗に示している。

 それでも信じたくなかった。


 民を想うアンベルが、父親を支えてきた心優しい彼女が、人を殺すなど。

 ディルクスは彼女の手から血濡れた燭台を取り上げる。まるで隠すかのように体の後ろにさっと回して。


「この嵐では、外に出るのは危ない。今日は泊まっていきなさい」


 できるだけ穏やかな声で告げる。

 嗚咽をこらえていたアンベルの目から水滴がこぼれた。


「っ……ディルクスさまっ……! わたしっ……わたし……!」


 胸板にアンベルがすがりついてくるのと、教会の戸が開かれるのは同時だった。

 軋む音とともにやってきたのは見覚えのある男。

 アンベルが信じられない、と目を見開く。


「そんな……うそ……」


 嵐を背負って入ってきたのは領主──アンベルが殺したはずのだった。

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