第7話-① 片耳の破戒僧〈上〉
ミストラに逃がしてもらい、山道を駆けて、いったいどのくらいの時が経ったのか。
腕の中の〈勇者の剣〉も重たい。弓を背負い、腰に小刀を括りつけているのに、さらに武具の類いを持つとは思いもしなかった。
それらの重みが体力を奪い、死を手繰り寄せているような気がしてしまう。
恐怖が汗の粒となって額を滑り落ちていく。その一つが目に入り、思わず片目を閉じる。
それがいけなかった。
木の根に足を取られて盛大に転んだ。
「っが!」
足首に痛み。立ち上がろうとするも、上手く起き上がれない。
「大丈夫か!」
僧侶ディルクスが駆け寄り、すぐ聖典を取り出す。
「だ、大丈夫です……」
「っ! 頭から血が出てるじゃないか! ちっとも大丈夫じゃあないだろう!」
「え」
言われて気付く。転んだ時に額を切ったためか、どろりとした血が頬を染めていた。
「足の傷も癒す、少し待ってくれ」
「す、すみません。こんな時に怪我をするなんて、俺は……」
「君が悪いことなどあるものか。君が転ばずとも、私が転んでいたかもしれないんだ」
二人とも肩で息をしている。体力の限界が訪れていた。
「……今日は一度休もう」
「しかし!」
「どのみちこのまま走っても、夜の間には体力が尽きて死んでしまう。それなら隠れて一晩やり過ごすしかないだろう」
いつ邪族が襲って来るともしれない恐怖が背後で
けれど、休息が必要なのは自分でも分かっていた。
「……野営できそうな場所を探します」
「分かった。まずは〈治癒〉をしよう」
額の傷、そして足首の捻挫を治してもらうと、それから地図を開く。
山の中にひっそりと空いた隠れ家にディルクスが不思議そうな目を向ける。
「ここは……?」
「熊の巣穴です。冬眠に使っていた寝床なので快適かと」
さらりと言うとディルクスが目を真ん丸にした。
「いやいやいや! 熊の巣穴が快適だって? 冗談だろう!」
「その熊の
「なにかって、なんだい」
「分かりません。ただ、獣が逃げているのならば北で何かが起こっているんでしょう。そうした『異変』は人よりも野生の獣の方が気付けますから」
「ううむ……」
ディルクスが
「北部大平原での邪族の攻撃は激化の
「あり得る話かと。それに今は、この山には邪族がいる。とびきり凶悪なやつが」
「だから熊はもう逃げていて、戻ってくることもない、と」
「図体のわりに熊は臆病ですから」
「……よし、それじゃあ念のために結界を張っておこう」
「結界?」
「ああ。『神の奇跡』──聖属性魔法のひとつだよ」
ディルクスは聖典を撫でる。
二人してうずくまるように熊の巣穴に潜りこむ。高さは無いが、奥は外から見たよりも広く、息苦しくもない。巣穴の奥に空いた小さな隙間が空気の通り道として機能しているようだった。
聖典を開き、聖十架を突き出したディルクスが巣穴の入口へ向けて唱える。
「神よ、我らを護りたまえ──〈
薄い光の膜がピシッと張った。冬の寒い日の、池に張った薄氷のように。
「これでいくらかは耐えられるだろう」
「えっと……」
「大丈夫だ!」
なにか言う前に遮られる。
「私も特殊部隊の一員としてこれまで何度か戦闘はこなしてきた。そして〈光壁〉が破られたことはない!」
「邪族相手にも、ですか?」
「ふ、普通の邪族なら」
「でもさっきのは特殊個体だって……」
「……それは……」
「あとこれ、光ってたら、見つかりやすくなりません?」
一匹の蛾が明かりに釣られるようにして〈光壁〉にやってくる。ぱたぱたと羽ばたいて、光る壁にぴとりと張り付いた。
「「……」」
ディルクスが項垂れる。
「そうだよな、なにをやっているんだろうな。いま解除するよ」
ディルクスが
「あっ、いや! 待ってください!」
「へ?」
「あの、一つ思いついたことがあるんですけど」
考えた策を話すと、ディルクスの目は点になった。
小細工も終わり、二人して食事をとることにした。
「さすがに歩きつかれてしまったな……」
「ですね。いま火を熾します」
食事は
「私が魔法で
ディルクスが小枝を組み重ねて聖十架を向ける。
「えっ」
「焔の神よ、踊れ、弾け、万象を照らせ──〈発火〉」
ぽぽぽ、と炎の粒が生まれては集まっていく。
やがて拳ほどの火の玉が形作られた。ディルクスは聖十架でそっと押し出すと、火球はひとりでに
沸くのを待ちながら
「ディルクスさんも……」と渡そうとしたところで思い直し、「
「そうだな」
「う、ですよね。えっと……」
「だが食べるよ」
「えっ」それはいいんですか、と瞳で聞き返す。
「いいんだ、私は
ディルクスは皮肉そうに笑う。
「はぁ、なるほど……?」
笑みの意味は分からないが、とにもかくにも干し肉を分け合って
「さっきの……ディルクスさんは炎の魔法も使えるんですか? 僧侶の方が聖魔法以外を使われるとは思わなくて驚きました」
「ん? ああ、ライラに教えられてね」
「えっ、ライラに?」
そういえば村では杖をかざして発火魔法を使っていたな、とぼんやり思い出す。
「私たち特殊部隊はこれまでも何度か遠征をおこなっていてね。当然、野営もした。そこで焚き火をするたびに私たちが火打石を使っていると、ライラが怒るんだよ」
「怒る? なににです」
「手間をかけているのは見ていて苛立つ、ってね」
「じつに彼女らしい」
フン、と鼻を鳴らす。ディルクスはそれをみてにやりと笑い。
「それから私たち皆に発火の魔法を教えてくれたのだ」
「む……」
「それもじつにライラらしい。だろう?」
地図を寄こせと言われたときのことを思い出し。
「……まぁ、口は悪いですが、優しいやつではあります」
「だろう? いい子だ」
「でも、口は悪いです」
「素直じゃないだけさ。歳の離れた妹みたいな可愛げがある」
実際に妹のいる兄としては、そう言われてしまうとなにも言えない。
「ま、ミストラ隊長と私以外、誰も〈発火〉は使えなかったから、結局ライラが
やっぱり彼女らしいや、と思う。
「ザナリなんかは魔法よりも早く火打石で着火してやる、なんて言ってライラと対抗しててな。焚き火が二つできて、ミストラ隊長にどっちかにしなさいと怒られたりしたもんだ」
「……仲が良かったんですね」
「まぁな。たかが一年ちょっと……されど一年ちょっとだ」
「そういえば、何度か遠征をされてると言ってましたね」
「ああ。〈勇者の剣〉は、その存在自体が長く疑われてきた伝説の剣なんだ。建国の英雄が
「俺でも聞いたことくらいはありました。
「だが実在した」
ディルクスは嬉しそうに言う。
「〈勇者の剣〉は、在り処どころか、現存するのかも真偽不明だったんだ。宮廷の文官たちが数少ない手がかりから候補地を調べあげては、私たち実働部隊が現地に赴いて調査をしてな。濃密な一年だったよ」
「昔の人はどうしてそこまでして隠そうとしたんでしょう」
「強すぎたのさ。〈勇者の剣〉を巡って人間たちが争いあうくらいには」
「そんな……」
「文献には、山を削り、天空を裂き、海を割ったと記されている。鉄の精霊が鍛えたともな」
「……作り話にしても盛りすぎてませんか」
「世界にもっと魔力が満ちていたとされる時代の剣だ。刀身の
「え、えーと、俺、魔法使えないんでいまいち分からない、です、けど……すごそうなのは伝わってきました」
ディルクスがハッとする。語りに熱が
「すまない。仲間の手柄だからね。つい、興奮してしまった」
ディルクスは恥ずかしそうに
「とにかく〈勇者の剣〉は私たちの悲願だったのさ」
「そんな大事なもの、やっぱり俺が受け取るべきじゃなかったんじゃ……」
迷いが口をついて出る。しかし。
「ミストラ隊長が選んだんだ、君を。なら間違いないさ」
「そう、なん、ですかね……」
「考えてもみたまえ。はじめから君に託していなければ、あの場で〈勇者の剣〉は奪われて、それで任務は終わってしまうところだった」
だがそうはならなかった。
「どこまで隊長が見通していたのかは分からない。それでも結果として私たちは〈勇者の剣〉を失うことなく逃げ延びている。だろう?」
「……ええ」
手のひらを見つめる。ミストラと交わした握手を思い出す。硬くてしっかりとした手だった。十五歳になったばかりの辺境の村人には想像もつかない苦難を乗り越えてきたのだろう。
そんな彼に「頼んだ」と託された。
「ミストラさんは……」
無事なんでしょうか、という言葉を呑み込む。言ってはいけない気がした。
しかしそれでも
「今は考えるのは止そう。託された〈勇者の剣〉を届けることだけに集中するんだ。私としてもこの任務は失敗できない」
どうしてもな、とディルクスは呟く。その眼差しは揺るがない。ただ、彼の瞳に映る炎だけが揺れていて。内に秘めた決意が
妙に力のこもった言い方を不思議に思う。
「ディルクスさんはこの任務に思い入れがあるんですか」
思い返せば、ザナリもそれぞれに事情があると言っていた気がする。彼もまたそうなのだろうかと、ふと気になった。
「む」
「あ、その、俺は妹のために、この任務に参加することにしたんです。あいつに薬を買ってやるには、金が要るから。それで、もしかしたらディルクスさんも何かあるのかなって」
「君は妹思いなんだな」
「当然のことです……でも」
かじかむ手で
「格好つけて出てきたは良いんですが、情けない。……心が折れそうです」
「だが君はまだ絶望していない」
ディルクスは眩しそうに微笑む。
「いつだって
「……約束したので。必ず帰ると、妹に」
「ふ、じゃあ私と同じだな」
「え?」
「私も約束したんだ。もう一度会いにいくと」
思いがけない共通点に顔を上げる。ディルクスは懐かしむような目で焚き火を見つめていた。焚き火の奥に、誰かを思い浮かべているようで。
「大切な人、なんですね」
「ああ。彼女に会いたいのさ。あと一度だけでもいい」
「恋人ですか?」
「まさか。僧侶は生涯独身だよ」
それもそうかと納得する。
「まれに
「そう、なんですね」
「ああ。そのためにはこの任務を成功させ、少しでも罪を軽くする必要が──……」
「えっ」
思わぬ単語に椀を落としそうになる。
「つ、罪? つみって、ディルクスさんが悪いことをしたってこと、ですか?」
ディルクスは右耳──いまは削がれてしまった、かつて右耳があった場所を撫でる。
「言っただろう、私は
ドキッとする仕草だった。普段は彼が片耳であることなど意識していなかったというのに、とたんに彼の欠落について意識させられてしまう。
「罪って……いったい、なにを……」
「
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます