二章 逃亡戦
第6話-① 奇襲、花落つ〈上〉
騎士団長ミストラの腹から流れ出した血が命の温度を失っていく。死が迫っていた。
夕暮れの山道。
燃えるような
「もういい……私は置いていけ……」
ミストラが弱々しく呟く。
腹から滴る血が山道に尾を引いていた。
村で筋力鍛錬をしてみせたときはあれほど
「山道を知る君がいれば〈勇者の剣〉を持ち帰れる。私のことは捨ておけ……」
「できません……そんなことをすればあなたは……!」
今にも死に絶えそうな彼を、両脇から支えて歩く。特殊部隊の隊員と二人がかりで。そうでもしなければミストラは歩くことすら困難だった。
「いいんだ、私の命など……。この〈勇者の剣〉を誰かが持ち帰ることができれば、それで、我々の勝利なのだから……」
ミストラの腰元には
──〈勇者の剣〉だ。
飾り気ない
しかし、探していた伝説の剣で間違いなかった。
この剣を
ただ、思わぬ誤算があった。
騎士団長であるミストラが傷を負うほどの誤算が。結果として隊は壊滅し、散るように逃走する羽目に陥っていた。
隊員の男が励ますように言う。
「ミストラ隊長、今に私が〈
男は腰に括りつけられた分厚い本を撫でる。使い込まれて擦り切れた表紙の、聖典。
隊員の名はディルクス。
「ディルクス、しかし……私は、もう……」
名を呼ばれた僧侶は首を振る。
「ほら、正面に大岩が見えるでしょう。あの陰に身を隠しましょう。安全が確保できたら、すぐに〈治癒〉の奇跡を使いますから」
「やつが来る……来てしまうぞ……あの邪族が……」
邪族。
三人はいま、一体の邪族に追いかけられていた。
はじまりは特殊部隊の一行が〈勇者の剣〉を手に入れた直後。
〈勇者の剣〉が封印されていた
他の騎士たちが
作戦は
だというのに。
ミストラはなぜか腹に傷を負わされていた。
原因を突き止めるよりまず、乗っていた馬から降りた。馬上で姿勢を保てないほどの怪我だった。であれば落馬する前に自ら降りる。それがミストラの判断だった。
実際それは正しかった。二人がかりで支えてなお、歩くのがやっとなのだから。
大岩に辿りつくと、茜色の夕焼けから逃げるように、陰に身を潜める。
岩を背にしてミストラを座らせる。
「ミストラさん、傷を見ますね」
腹が血に染まっていた。
僧侶のディルクスが聖典をめくり、首から提げた
「神よ、我らに命の輝きを与えたまえ──〈治癒〉」
ディルクスが
ミストラは拳を強く握りこむ。
「う……っく……」
患部の皮膚がぐにぐにと蠢き、傷が塞がっていく。ミストラの呼吸が落ち着く。
「止血と、重要な臓器の回復を優先しました」
行使されたのは〈治癒〉を叶える聖属性魔法。
またの名を『
聖職者が得意とする魔法だ。
「ああ、いくらか、ゴホッ……楽にはなったな……助かるよ」
無理をしているのは誰の目にも明らか。すぐに動けるかは怪しいところだった。
「隊長。今日はもう休みませんか? 祠からはかなり距離を置きました。邪族が私たちを見つけるまではまだ時間がかかると」
「確かにすぐにはやってこないかもしれんな」
「では、いま野営の支度を」
「いいや、まずはザナリたちと合流したい。馬は……」
僧侶のディルクスが首を横に振る。
「我々が降りてすぐ、逃げるように走り去ってしまいました。邪族への恐怖からでしょうかね……判断を誤ったかもしれません」
「自らを責めるな、ディルクス。落馬して転落死していたら私は笑い者にもなれなかった」
ミストラが苦痛に顔を歪めながらも体を起こす。
「隊長! あまり無理をなさらないでください。私の〈治癒〉は全ての血液を元に戻せるわけではないのです。失血による死を迎えていないのは神のご慈悲でしかない。なあ、君からも言ってくれないか」
「えと……」なんと言えばいいのかと言葉を考えたが、正直に伝えることにする「ミストラさん、山を降りるのは明日にしましょう。その状態ではとても……」
「だからこそだよ」
「はい?」
「神が慈悲を与えてくれるうちに──命があるうちに、できるだけ遠くまでこいつを運ばなければいけない」
ミストラは腰に佩いた〈勇者の剣〉に触れる。
「でも……」
「もちろん考えなしに言っているわけじゃないさ──こいつを君に託したい」
そう言ってミストラは〈勇者の剣〉を手渡してくる。
「えっ」
ずしりとした重み。
武具としては軽い部類のはず。だが、確かな質量を両の手のひらに感じる。彼らの任務の全てが詰まった、これまでの歩みの全てが詰まった責任の重みだった。
持つはずもなかった重みだ。
ディルクスの方を向き、どうすればいいのかと尋ねるも、首を横に振られてしまう。
「えっと、なんで俺が……」
「私でもディルクスでもダメなんだ。この山を知る君がいなければ、どのみち村へは戻れない」
「あ……」
「もし誰かひとりに〈勇者の剣〉を託すとしたら、君しかいない。君さえ生き残っていれば、〈勇者の剣〉は届けられる。なに、君のことは命を賭してでも守ると約束しよう」
「……いいんですか。俺は特殊部隊の隊員でもないのに」
「関係ないさ。大切なのは〈勇者の剣〉が前線のアステラに届くこと。それだけだ」
ミストラの瞳は使命の炎に燃えていて。
「わかりました」
熱にあてられるように答えた。
手の中の〈勇者の剣〉を握りこむ。じんわりと、指先の熱が
「俺が預かっておきます」
「助かる」
目を合わせて頷きあったところで、ディルクスがちいさく手を挙げる。
「……話はまとまりましたか、隊長」
「すまんなディルクス。君を信頼していないわけじゃないんだが」
「分かってます、万が一を考えれば妥当な判断です。けれど、あなたを生きたまま連れて帰ることを諦めたつもりはない。そのことはお忘れなく」
「ふ、無論、私もだ。だが次は捨て置いてくれ。私が行けと言ったら行ってくれ。それが任務の成功に繋がる。人類を救う道になる」
すでに決めたことだ、と彼の瞳は雄弁に語っていた。
「……はい」
ディルクスは
「さて、では急ごうか」
ミストラが、外していた鎧を手に取って身に纏おうとする。
そこで手を止めた。
ディルクスが
「どうかしましたか隊長」
「……無い」
「え? ない、ですか? なにがです」
「無いぞ、鎧に傷がない」
「ええと……それがなにか?」
「ディルクス、では、私はどうやって貫かれたのだ」
「え────」
ミストラは甲冑の腹部をさする。細かな
不可解だった。
「……胸騒ぎがする。やはり急ごう」
低い声で呟くとミストラは鎧を着こんでいく。
「まずいな、痛みに気を取られて多くを見落としている。そうだ、おかしなことは他にもあるぞ。どうやって
身支度を整えながらミストラは呟く。
「あの邪族はどんな方法を使った?」
答えられる者はいない。
三人全員が不気味さに背筋を撫でられ、大岩の陰から立ち去ろうとして。
「──教えてやろうカ?」
地を揺らすような低い声がした。
振り返ると、岩のてっぺんに大きな影が見える。
夜闇に紛れる
ギョロリと
姿かたちをハッキリと視認しかけた、その時。
「逃げろ!」
ミストラが叫んだ。
それを認識するまで身体は硬直していて、ようやく言葉の意味を理解し始めるまで、たった数拍ほどの間。その一瞬で全ての
まず、飛び降りてきた邪族にミストラの左腕が切り落とされる。ミストラとて呆けて攻撃を食らったわけではない。自分の片腕を犠牲にしてでも背後の二人を守った。〈勇者の剣〉のために左腕を差し出したのだ。
それからミストラは右手で『暁の騎士団』の証たる首飾りを放って投げてくる。
台座に
「行け!」
ディルクスと二人で走り出す。ミストラの声に押し出されるように。
なにが起きたのかは理解できていない。
だが走り出す。
ミストラの覚悟が決まっていることはつい先ほど確認したばかり。なら、すべきことは一つ。
〈勇者の剣〉を届けるのだ。
ふと風が吹いて、ミストラの最後の言葉が耳へと届く。
「────頼んだぞ」
その言葉を噛みしめながら、僧侶ディルクスと二人、転がるように逃げた。
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