第2話 兄と妹

 びゅうびゅうと吹いた風が山肌やまはだを撫で、木々を揺らして枝から朝露あさつゆを落とす。

 雫は朝焼けで白む森の中を銀糸ぎんしとなって降っていく。真下には草木の茂みと、そこに身を潜める若き狩人かりうどの姿。

 狩りの最中だった。


 茂みに潜み、物音ひとつ立てずに獲物を観察している。弓を引き絞りながら見つめる先には狐の親子がいた。子狐が親狐のまわりをぴょんぴょこ跳ねまわる。親は子の尻尾を追いかける。微笑ほほえましいたわむれだ。裏を返せば、狩りの獲物としては隙が多いということでもある。


 だが矢はまだ射れない。いかんせん標的は小さく、そして自由に動いている。現状の弓の腕前は、思うままに駆ける動物を容易く射貫いぬけるほど優れていない。

 なにせ去年まで村で暮らす、ごく普通の村人だったのだ。


 だから確実に狩れる機会をうかがうしかない。獲物の動きが止まる瞬間を。

 つがえられた矢もまた、放たれる時を音もなく待っている。静かに獣を狩る、優秀な相棒だ。

 だが。


 ぽつん、と。

 つむじに、枝から落ちてきていた朝露が着弾して。


「ひえっ」


 裏返った声が上がる。同時に、つがえていた矢はあらぬ方向めがけて放たれ、狙っていた狐の親子は驚いて走り去ってしまう。

 決着がついた。


「くそっ、逃した!」


 いかに弓矢が静寂を貫こうとも使用者が声をあげてしまっては意味もない。今回の狩りは狐の逃亡とうぼうちだった。


「ふん、運が悪かっただけさ」


 負け惜しみを言いながら茂みから体を起こす。土ぼこりや枯れ葉を手で払ってしゃんと立つ。背はそれほど高くない。顔にもまだ幼さが残っている。

 そして赤髪だ。森の木々の緑色と対を為す赤はいささか目立ちすぎるのだが、そのことに気付いていない程度には未熟であった。


 それもやむなし。歳は今日で十五になったばかりだった。

 狐の親子が逃げていった先を見つめて鼻を鳴らす。


「いいさ。片方はまだ子狐だったしな。まるまるふとったころに狩ってやる。狐が旨いのはもう少し暖かくなってからだ」


 強がりと共に白い息を吐く。冬が明けて春を待つばかりの、雪解けの季節だった。

 水滴の落ちてきた頭上をにらみつける。


「ちぇ、驚かせやがって」


 木々の隙間から覗く空は明るくなりはじめている。

 夜が明けてから半刻ほど経ったころ。森の中は樹木に遮られてまだ薄暗いが、里の方はそろそろ朝の仕事がはじまるころだった。急いで、放った矢を回収する。矢じりは数少ない金属製のもの。使い捨てにはできない。


「メノウの朝飯を作ってやらないと」


 家で眠る病弱な妹・メノウを想って山を下りはじめた。ずいぶんと迷いのない足取りで獣道をするりするりと通りぬけていく。別れ道でも間違えずに道を選ぶ。


 それもこれも父ののこしてくれた山の地図のおかげだった。迷いそうになったとき、地図が道を示してくれた。何度も何度も地図と山とを見比べ、次第に、道を覚えていったのだ。


 そのうえで今でも山道の観察は欠かさない。異変があれば地図に書き加えていくのだ。そうしなければ山の変化についていけない。ついていけなければ獣を獲れなくなる。

 全ては妹のためだ。妹にはひもじい思いをさせたくなかった。


 小走りで茂みを抜けながら、革の腰袋こしぶくろから干し肉を取り出してかじりつく。煙たい匂いと薄い塩味が口に広がる。渇いた肉に口の中の水分が持っていかれる。本当ならば新鮮な狐肉を食えていたはずなのに敗北の味になってしまった。


 それでも自分が苦い思いをするだけなら耐えられる。

 けれど体の弱い妹のことを思うと、精のつくものを食べさせてやりたかった。




 山の中腹ちゅうふくの小屋に辿りつく。


「ただいま、メノウ」


 蝶番ちょうつがいきしませて戸を開けると爽やかな匂いがした。


「おかえり兄ちゃん。ちょっと待ってね」


 家の奥、寝台に妹が腰かけている。部屋と部屋の間には戸が無いので、メノウの姿は玄関からでもよく見える。


 メノウは合掌がっしょうしていた。兄とおそろいの赤い髪を垂らして頭を下げている。

 向き合うのは、寝台の隣の机に置かれた二つの木彫きぼりの像。

 ゆっくりとお辞儀を二度して。


「お父さんお母さんおはよう」


 像へと挨拶をする。それから像のそばの乳鉢にゅうばちに手を伸ばすと、香草をつまんでこすり合わせる。爽やかな匂いがさらりと流れてくる。

 それから再び手を合わせて、木彫りの像に語りかける。


「今日も兄ちゃんとわたしが元気で幸せにすごせますように」


 日課の祈祷きとうだった。

 メノウが祈る横顔はこの上なく安らかで、どこか神聖さすら感じさせる。


 妹を待つあいだ、弓と矢筒やづつと腰袋とその他、身に着けた装備を外していく。それから壁にびょうで留めてある羊皮紙を下ろして見つめる。

 父親の遺してくれた山の地図だ。

 狐の親子がいた場所には炭で×印がつけてある。


「これまでより南に移動してる、か?」


 元あった印よりわずか下に新たな×印を加える。


「……なにが起きているんだ」


 狐の住処すみかが変わったのは初めてのことだ。

 獣の縄張り争いは苛烈で、どの個体が縄張りの主であるかは刻一刻こくいっこくと変化する。


 それでも全体の傾向でみれば、同じ種類の獣はおよそ同じ場所を住処とする。食べ物の取れる場所や寝床にしやすい地形はすぐには変わらないからだ。狩りをしていた父親の記録から見てもそれは分かる。

 それが変化していた。


 予兆めいたものを感じる。だが、考えるにも手がかりも経験も足りない。

 近いうち馬を奔らせて調べてみるかと結論付けて、地図を壁に留め直した。

 ひと作業終えるころには妹も祈りを終えていて。


「兄ちゃんおはよ」

 目を閉じたまま、腰かけていた寝台から立ち上がった。


 手探りで寝室を歩き、居間との境目まで辿りつくと、壁を撫でる。ペタペタと凹凸おうとつを確かめながら自分が通りぬけるべき場所を探り当てる。

 そうして、ようやく居間まで辿りつくことができた。

 彼女は目が見えなかった。


「おはようメノウ。今朝の具合はどうだ」

「ん! 今日はねえ、けっこう調子が良いんだぁ。今日なら遠くにだって行け──ごほっ、げほっ、ごほごほっ」


 咳き込み始めた妹のそばに駆け寄る。


「大丈夫か? 薬、薬は……」

「げほっ……きのうの、夜ので……ごほっ、さいごだったから」


 唇を噛みしめる。

 薬は高く、たくさんは買えない。親の遺した財産は減る一方だ。反対に薬は値上がりする一方で。なにより、行商ぎょうしょうが村に立ち寄ることも減っていた。

 それもこれも、邪族とのいくさが長引いているせいだと大人たちは言う。


 苦しむメノウの背をさする。これしかできない自分が憎かった。

 妹は病にかかっていた。

 幼いころはお転婆てんばで、そこかしこを駆けまわる元気な子だったのだが、ある日、突然に両目が見えなくなり、続けて肺が弱くなった。放浪ほうろうの医師に診てもらったところ、空気の澄んだ場所での療養と、魔法薬による病状進行の抑制だけがメノウを救える道だという。


 だからこうして山の中腹の小屋に住んでいた。麓の村からはずいぶん離れてしまったが仕方のないことだった。

 しばらく背中を撫でてやると次第にメノウの息は落ち着いていく。


「ふぅー、びっくりしたぁ」


 メノウは額の汗をぬぐう。つとめて明るく、小芝居こしばいのような仕草をしているふうで、それがかえって痛ましい。

 胸が締め付けられる思いに耐えられなくなり、メノウをギュッと抱きしめる。


「俺はお前が元気になってくれれば、あとはなにも望まないよ」

「わたしも兄ちゃんが元気なのが一番だよ。今朝も狩りに出たんでしょ」

「分かるか」

「うん、匂いで。今朝の狩りは……」メノウはすんすんと鼻をヒクつかせて「血の匂いがしないね、逃げられちゃった?」と結果を言い当てる。


 兄として威厳を保ちたかったが真実を暴かれてしまい、肩をすくめる。


「メノウの鼻は誤魔化ごまかせないか」

「ふふん。兄妹の間で嘘はナシだよ兄ちゃん。わたし、目は見えなくても、鼻も耳も舌も良いのを忘れたの?」


 言いながら頭をずいっと差し出してくる。髪を優しくなでてやると、メノウはくすぐったそうに喜ぶ。


「そうだ、兄ちゃん今日は誕生び──」


 ぐぅとメノウの腹が鳴った。

 恥ずかしそうに顔を覆うメノウ。その頭を撫でる。


「待ってろ。いま飯を作るから」


 暖炉の熾火おきびに筒で風を送ると橙色の光が揺らめいた。

 甕から水を掬って鍋に入れる。麻の袋から麦を一人前放り込んで、火にかける。床下の冷暗庫れいあんこから銅の器を取り出し、入っていた羊の乳を鍋にぜんぶ入れてしまう。


「麦のかゆにするからな。羊の乳もたっぷりだ。メノウ、好きだろ」

「うん!」


 笑顔をはじけさせるメノウだったが、粥をいざ食卓に並べると、指先を突き合わせてもじもじとしはじめる。

 湯気の立った乳入ちちいりの麦粥を前にしているというのにおかしな反応である。


「便所か?」

「ちがうし! もぅ、兄ちゃんのばか」

「じゃあどうしたんだよ」

「あのさ、えっとさ……兄ちゃんも一緒に朝ごはん食べるよね」


 ドキリとする。


「どうした? いつも一緒に食べてるだろ」

「うそだ。兄ちゃんはたまに食べてるふりをしてるもん」


 メノウに切り返されて言葉に詰まる。

 妹の言うとおりだ。自分の椀に粥は入っていない。しかしそう答えて心配させるわけにいかない。


「なにを言うんだ。ほら」


 椀をこつりと叩き、目の見えない妹にも器があると分かるように鳴らした。

 だがメノウは首を振る。


「あのね、兄ちゃん。中身があるのと空っぽのとだと音は全然違うんだよ」


 メノウは粥の入った椀を叩く。空の器を叩いたときと違って、湿って重たい音が鳴る。


「それは……」


 考えたことも無かったが言われてみれば納得がいく。メノウにとっては耳で世界をるなんてのは当たり前のことなのだろうと、に落ちる。


「どうしてうそをつくの、兄ちゃん」


 頬を膨らませてメノウは言った。


「……狩りに失敗したんだ。食料を減らしすぎるわけにもいかないだろ」


 真相を告げるとメノウは悲しそうな顔をする。


「わたし気付いてたよ。兄ちゃんがたまにそうしてるって……でも、兄ちゃんは悪くないでしょ? 一緒にご飯、食べたいよ」


 妹の純粋な願いに心が傾きかける。実のところ、地下の食糧庫にはまだ野菜も肉も残っている。村の人たちが分けてくれた食材だ。だがそれにばかり頼ってはいられない。特に去年の秋は不作だったため、今年の冬は誰もがひもじい思いをしてきたのだ。


「ごめんな。兄ちゃんは腕利きの狩人じゃないし、暮らしをラクにする魔法だって使えない。ましてや英雄でもない、十五のガキなんだ。お前を食わせるには、こうするしかないんだ」


 拳を握り締めて、自らの力の及ばなさに苦しみながら言葉を絞り出す。

 しかし。


「こわっ! 別に兄ちゃんにそこまで求めてないよ?」

「えっ」


 深刻な心持ちでいたのが、途端に崩される。

 メノウは呆れたように言う。


「だって兄ちゃんが初心者のへっぽこ狩人なのは知ってるし」

「ええっ」

「もちろんわたしのために頑張ってくれるのはすっごく嬉しいよ? いっつもわたしのことを助けてくれて、考えてくれて、嬉しいよ」

「お、おう……」

「けどそれとこれとは別! そんな修行僧みたいに自分に厳しくする必要ないでしょ」

「でも……」

「でもじゃないっ。ご飯食べないでやせ細ったら弓矢だって引けなくなるよ? 狩人としての自覚が足りないんじゃない?」


 矢を射る動きをするメノウ。


「う……それは……」

「それに、役に立たなさで言えばわたしの方が上だからね? 自慢じゃないけど、狩りなんてできないし。じゃあわたしは食べない方がいい? わたしなんていない方が──」

「そんなことない!」 

「って、兄ちゃんは言うでしょ? じゃあわたしだって言う」

「う……」

「それよりわたしが怒ってるのは兄ちゃんが嘘をついてたことだからね? わたしたちはもう二人っきりの家族なんだから」

 ね? とメノウが覗きこんでくる。

「……兄妹の間で嘘はナシ、だったな」


 妹の頬に優しく触れる。


「兄ちゃんにも粥をくれるか?」

「ふん、あたりまえだよ」

「あたりまえか。メノウは優しいな」

「違うよ。優しいのは兄ちゃんだよ。優しくて、強くて──」


 メノウは頬にあてがわれた手をぎゅっと握りしめる。


「──兄ちゃんはずっとわたしの英雄なんだ」


 満ち足りた顔でメノウは言った。像に祈りを捧げているときと同じ、安らかで、どこか神聖な顔だった。

 それから二人で一つの椀を囲み、麦粥むぎがゆを食べた。

 満足げに笑うメノウ。幸せなひとときだった。


 しかし兄としてはそれに甘えていられない。メノウには己に厳しすぎると言われたが、食糧が足りていないのは事実。そして妹の健康のためには食事が大事なのも事実。

 やはりこれ以上、狩りで失敗していられない。なにより、薬を買うためには。

 金が要る。


 勝率の低い狩りについては少しずつ腕を磨くとして、当面は村での農作業の手伝いをして稼がねば。幸い春が近いため、近ごろは畑仕事には事欠かない。

 飼っている馬と羊には野草を食わせておけばなんとかなるが、自分たちは……とくにメノウはそうもいかない。


「今日も行ってくるよ。暗くなる前には帰る」

「気を付けてね、兄ちゃん」


 メノウの頭をひと撫で。

 家を出る直前、壁に掛けた地図が目に入る。今日になって増えた×印がなんだか気になってしまう。なにかが起こる予感がする。

 不穏な気配を振り払うように扉を開けた。


 山を下り始めると、びゅうびゅうと風に吹かれる。冷えた空気に身が震えるが、半分に分けあった麦粥のあたたかさを動力に、急いで村へと向かった。





 その日。村には馬に乗った集団がやってきて。

 先頭の男が言う。


「私たちは〈勇者ゆうしゃつるぎ〉を求めてここまで来た」


 困惑する村人たちへ男は問いかける。


「山に詳しい者はいるか? 案内を頼みたいのだが──」

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