第9話 苔の池にうつったぼく

 テングさんの部屋を出て、ぼくはすぐに、じゅんびをした。リュックに、バスタオルと手ぬぐいの両方をいれて、さらにコケをいれるビニール袋と、あまったスペースに、虫よけスプレーやら替えの靴下やらをつめた。それからやしきの台所にこっそり行って、水筒に水を入れた。


「それじゃあ、行ってきます」


 誰にいうでもなく、ひとり言みたいに言うと、お手伝いさんがすっと出てきた。


 ろくろ首なんだよな、この人。友だちに聞いた、かいだん話をおもいだして、みぶるいしそうになる。


「忘れものですよ」


 お手伝いさんの手には、スプーンがにぎられていた。

 

 なんで知っているんだろう、と少しぶきみに思ったけど、考えてみればお手伝いさんなのだから、この家のいろいろなことを知っていてあたりまえなのだ。


 ぼくはいやな考えをふりはらった。


「ありがとう、助かったよ」

「いえいえ、どうか足元にお気をつけて、行ってらっしゃいまし」

お手伝いさんは、ゆっくりと、おじぎをした。


「うん、ありがとう。行ってくるね」


 池へは、このやしきをでて、右にまがって、また右にまがって、そのまま、まっすぐ進めば着く。


 やしきの庭は、べらぼうに広いもんだから、ぼくはなんども不安になった。しばらく歩いていると、大きな池が見えてきた。


 雑草がいっぱい生えていて、コケをとれるだろう池のへりまで行くのは一苦労だった。リュックをおろして、水筒のぬるい水を飲んで、一息つく。


「よし、それでは、さっそく」


 僕はスプーンとビニール袋を、両手に持ってかがみこんだ。ぬるぬると滑って、なかなかとりづらい。僕はもっとかがんで、顔を地面に近づけて、力をいれてコケを削りとろうとした。


 すると、ぬるっ!


 僕のからだはコケのくっつく力に負けちゃって、池に真っさかさまに落ちていってしまった。その池は、全部がコケで埋めつくされているみたいに、どろどろしていた。コケが足にからみついて、身動きできない。ぼくはあっという間に、池の真ん中あたりにきてしまった。


「だ、誰か、助けて」


 そう言っている間にも、口のすき間から水が入ってくる。息ができないし、変な味と匂いがしてむかむかする。


「ゲホッ、ねえ、誰か」


 考えてみれば、助けなんか周りにいるはずがないのに、僕は呼び続けた。

しばらくもがいて、声がガラガラになって、この池の水の味にもうんざりしてきた頃に、やっと気づいた。助けにきてくれる人を、いつまでもアテにしているわけにはいかない。自分でなんとかしないと。僕は持っていたスプーンとビニール袋を、口にくわえて、両手で足にからまったコケをガリガリちぎり出した。でも、コケはなかなかとれない。くそ、なんで半ズボンをはいて来ちゃったんだろう。長ズボンだったら、コケごと脱げばいい話だったのに。

僕の服は、どんどん水を吸い込んでいって、だんだん僕のからだは沈んでいった。もがくほど、コケもからまってくる。どうしよう。僕、こんな誰もいないところで、死んじゃうのかな。


「ちょっと、頑張ってよ。わたしの糸のときは、もっと、ぜんぜん諦めなかったじゃない」

この声は、天使の声だ!

「ねえ、助けて、もう、死にそうなんだ」

僕は、まずい水をがぶがぶ飲みながら、必死で訴えた。だけど、ナーニャは眉を下げるだけで、助けるそぶりは少しも見せてくれない。

「もうちょっと、頑張ってみなさいよ。それに、わたし、クモだから泳げないの。ほら、あなたなら、もっとうまく泳げるはずじゃないの」

ナーニャは焦っているような声で言う。

「でも、僕、ムリかも、ねえ、ナーニャ、あんなにひどいこと、言って、ごめんね、ぶくぶく」


「ちょっと、カッパ!」


ナーニャは、あわてながら、池にざぶざぶと入って来た。

「げほっダメだよ、ナーニャ、君は泳げないんでしょ」

「ええ、そうね。でも、あなたが、けほっとびきり、うまく、ぷはっ泳げるから、…大丈夫!」

ナーニャはどんどん沈んでいく!助けないと!

そう思ったのとほぼ同じくらいに、僕はナーニャの手を握っていた。

「あれ、ぼく、あれ?」

緑色のどろどろした水ごしに、ナーニャの苦しそうな顔が見える。けど、僕はぜんぜん、苦しくない。さっきまで、うごかせなかった足も、重たい水のなかでもスイスイうごかせる。ナーニャは苦しそうな表情で、口を三回うごかした。なんだろう。『は』、『や』『く』…。あっ!はやくナーニャを助けなきゃ!

僕は急いで水面に上がった。

「ナーニャ、大丈夫?」

でも、ナーニャはぐったりしたままだ。ぼくは急いで、池のへりまで泳いだ。変だな、なんでこんなに、はやく泳げるんだろう。

ナーニャの背中をたたいて、水をはかせる。そしていよいよ人工呼吸!と、心の準備をしていると、ナーニャが、目をあけた。

「ちょっと、あんた。おそいじゃないのよ」

ナーニャは、いらだたしそうに言った。でも、ぼくだって、おぼれて大変だったんだ。ぼくは、ぐちゃぐちゃな思いを、ナーニャにぶつけた。

「でも、ナーニャこそ、なんでクモで泳げないくせに、水のなかに入ってきたんだよ。さいしょは、笑ってばっかで、助けてくれるそぶりなんか、ちっとも見せなかったじゃあないか」


ぼくが顔を赤くしながら(いま思えば、赤くなってなんかいなかったんだけど。だって、このときにはもう、ぼくは…)言うと、ナーニャはうつむいた。ぼくは、いくら気が動転していたにせよ、ひどいことを言っちゃったみたいだ。

「ごめん、ナーニャ。君が無事でよかった。それに、君が池のなかに入ってきてくれなかったら、本気で泳ごう、頑張ろうって思わなかったと思うから」


こう言ったら、ナーニャはますます困った顔をした。なんでだろう。すこし頭をかかえて考えてから、気づいた。しまった!いまの発言の、『君のおかげで、頑張れた』なんて、まるで、愛の告白じゃあないか。こんなこといきなり言ったら、そりゃあ困るよなあ。


ぼくはうなだれて、頭をおさえた。それから、ぬれた前髪を、軽くしぼろうとした。けれど、あれ、頭のてっぺんに、髪がない!髪がないどころか、つるつると固くなっている。


ぼくはびっくりして、目を見開いてナーニャを見た。すると、ナーニャは今度は笑いをこらえている。


「ごめんなさい。あなたが、わたしのために泳いでくれたなんて、申し訳なくて。どういう顔をしたらいいか、迷っていたんだけど。でも、あなたが、すごいおどろいて、お皿をおさえているのを見て、つい」


ナーニャは、もう我慢できないというように、ガハガハ笑いはじめた。でも、ぼくは何がそんなにおかしいのか、まったく、ついていけない。


「ね、ねえ、ナーニャ。ちょっと待ってよ。このあたま、どういうこと?ストレスで抜けちゃったのかな」

あわててこう聞くと、ナーニャはまじめな顔になって、首を横にふった。


「ううん。違うわ」

「じゃあ、どういうこと?ぼく、まだ若いのに、どうなっちゃうの?」


 頭をおさえながら、かみの毛が池に落ちていないかと、池の中をのぞきこんだ。わらにもすがる思いだった。


 すると、水面に、みたことのない妖怪が見えた。やせっぽっちのひょろ長いからだで、あたまの上にはお皿がある。顔のまん中以外の肌は、この池とおなじ、みどり色のだ。


 こいつがなんていうか、僕は知ってる。カッパだ!


「ナーニャ、カッパがいるよ。このやしきには、カッパもいるのかい?」


 ぼくは振り返ると、ナーニャはますます困った顔をした。


そして隣にきて、ぼくの肩に手をかけた。ナーニャはいつものふざけた顔じゃなくて、まじめな顔で、池の水面を見つめた。


 ぼくもナーニャのまねをして、池に目をおとした。


 すると、水面にうつされているのは、ナーニャの手がカッパの肩にかけられていた。ぼくの肩にはナーニャの手がおかれたままだ。


 もしやとおもって、手をふると、池の中のカッパも、手を振りかえしてきた。


 ぼくは、いっきに青ざめた。


「ねえ、これってもしかして、このカッパって、ぼくってこと?」


 声がふるえる。ぼくはナーニャがいる右のほうを向いて聞いた。


 ナーニャは今にも泣きだしそうな顔でうなずいた。


 泣きだしたいのは、こっちのほうだ。


「あなたにはもともと河童の血が入ってたの。その遺伝子が、泳ごうとして覚醒したみたいね」


 ナーニャはぼくの目をじっと見て、優しいく落ち着いた声で説明する。

 

 でも、でも、そんなのって……。


「そんな、ひどいよ! ぼくを河童にするためにこの屋敷に連れてきたってことだろ? こんなぶきみな姿に」

 

「違う。きいて。あなたの中の妖怪の血はいずれ、目覚めることになった。それが人間の世界だったら大変なことになると思って」


 ナーニャはぼくを抱きしめて話すけど、その言葉は冷静さを失ったぼくには届かない。


 そこからの記憶は、あいまいだ。ぼくはナーニャをつきとばして、ふりかえりもせずに、駆けだした。


 からだもろくにふかずに、やしきの廊下をどたどた走って、昨日とまった部屋にもどった。急いでにもつをまとめて、部屋をとびだした。


 帰るんだ、こんな化け物やしきから、早く。

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